安倍晋三首相を先頭に押し立てて、保守派が街頭に繰り出しているのは、単なる過去への回帰なのだろうか。私はもっと奥深いものがあるような気がする。すでにサヨクはその存在を否定され、わずかに反原発とかエコロジーとかに、拠り所を求めているに過ぎない。もっとも腐敗した部分は、トクアノミクスとして、外国勢力の手先となっている。日本のサヨクの歴史を回顧してみると、1956年のスターリン批判が決定的意味を持っていた。それ以降は、独自の歩みをするしかなかったからだ。そこで登場したのが黒田寛一であり、吉本隆明らであった。しかし、ソ連型共産主義ではない共産主義を目指したものの、単なる仇花に終わった。21世にになってから、行動する保守運動が登場した。彼らは臆することなく、戦後民主主義の虚妄を批判している。石川啄木は明治43年8月、「時代閉塞への現状」について書いた。時代閉塞の状況下において「われわれのうちのもっとも急進的な人たちが、いかなる方向にその『自己』を主張しているかはすでに読者の知るごとくである」とアジった。幸徳秋水らの大逆事件を念頭に置いていたのは確かだが、その一方で、北一輝の著作にも啄木は接していた。サヨクが後退局面にある今、行動する保守運動にしか、若者は活路を見出せなくなっているのである。啄木が生きていれば、「もっとも急進的な人たち」と名指しするのは、彼らのことではないかと思う。
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