ポポロ通信舎

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終戦前後の日記  東毛義人 須永好(7)

2012年08月14日 | 須永好 研究

今年67回目の終戦記念日。お盆の8月中旬のこの時期、昭和20年(1945年)の頃の『須永好日記』から一部抜粋させていただきます。

8月13日 朝、艦載機の来襲があり藪塚地内で疎開の飛行機が次々と破壊された。
8月14日 午後9時からB29が襲来して生品、毛里田、宝泉、太田、伊勢崎周辺に
      爆弾、焼夷弾が落ち火災が起こり寝ることができなかった。

8月15日 昨夜の近村爆撃で午前3時まで寝られず、朝眠りを破ってまた艦載機の襲来で
     ある。その退避中に重要放送が正午に行われるとラジオが放送する。
     艦載機はだんだん立ち去った。
     正午が来た。ポツダム宣言受諾の玉音を拝す。
     戦争は負けたのである。戦争は終わったのである。
8月16日 今日は送り盆。人気(ひとけ)は不安、悲観のどん底に陥り・・
     鈴木内閣総辞職、東久邇宮殿下に大命降下。

8月18日 東京の伯母が来て不安な状況を話した。決して不安はない。
     日本の軍閥がなくなってかえって住み良い日本になると教えてやった。

それにしても敵機の来襲は終戦の15日午前中まであったことが日記で確かめられる。埼玉県熊谷市も同じように玉音放送直前まで空襲があったという。

地主側の人々も入党、ノーサイド

終戦後に、強戸小学校の校庭で須永好の時局講演会があった。そこでポツダム宣言の説明をし、「これからは言論、集会、結社の自由は保障され民主主義の世の中になり平和が訪れる。当面は食糧の増産開墾が急務だ」と村民たちに話して聞かせる。誰もが敗戦でお先真っ暗、希望もてない精神状態の中で、須永好の演説には、聴いた皆が感銘を受けた。その後なんとこれまで対立していた地主側の人たちまでも続々、社会党に入るようになったといわれている。

須永好は、大局的に世界情勢を見ていた。そのため早々に日本の敗戦を悟っていた。昭和18年(1943年)に門下生の高橋徳次郎へも軍から徴用が来たとき「この戦争は負けだな。お互い命を大切にしよう」と彼に話したという。高橋徳次郎は開戦時の昭和16年(1941年)反戦主義者として予防拘束されただけに、その彼が必要となるような戦況ではと思ったのだろう。

『須永好日記』の閲覧を

『須永好の日記』、歴史の証言として一度は読む価値があります。古書市場では10万円以上の値がついています。それだけの価値はあるかもしれません。同日記は群馬県内では県立図書館(前橋)と太田市中央図書館で閲覧できます。私は太田の図書館を利用しました。(つづく)


【写真】大型爆撃機B29 日本にはのべ1万7千機が16万トンの爆弾を投下。広島、長崎の原子爆弾もこのB29から。

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議2期。

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須永好日記 (1968年)
編者 石井繁丸他
光風社書店
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