ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

「のぼうの城」を支えた民の力

2012年11月10日 | 映画・芸能

小説『のぼうの城』(和田竜著)が映画化されましたので早速見てきました。忍(おし)城(埼玉県行田市)については、当広場ではすでに2010年6月25日に小説の感想を述べています。あの頃、友人たちと名所巡りで忍城を訪ねました。城から貸自転車を利用し石田堤(埼玉県鴻巣市・石田三成が突貫工事で作った堤)など史跡を周遊しました。あれから早2年・・映画化されたのは感激でした。

改めてなぜ忍城は落城しなかったか考えてみました・・。

(1)情報公開(農民大衆に城の苦境の状況、真実を話した)
(2)大衆の支持と協力

以上の2点に尽きると思います。留守中の城代となった、のぼうこと成田長親(野村萬斎)は農民大衆の子供から大人まで「のぼう」と呼ばれても一向に気にとめない気さくな殿。庶民と武将の距離がとても近い。そのため窮地のときに農民大衆の知恵と支えが発揮され落城を防いだ。民衆(ポポロ)とともに歩んだのぼうは、やはり名将の中に入れて良いかと思いました。ひょうひょうとした成田長親役に野村萬斎、骨太の家老、正木丹波守の佐藤浩市、おてんば甲斐姫に榮倉奈々、それぞれ好演だったと思います。

参考:2010年6月25日のポポロの広場
『のぼう様』妙なリーダーシップ

身近なお城に、面白い歴史がありました。
埼玉県行田市の10万石の城、忍城(おしじょう)。

忍城(おしじょう)を題材にした小説『のぼうの城』和田竜著を読みました。でくのぼうのような殿、のぼう様が、ここ一番、自然体で家臣、領民の皆をひきつける。豊臣の大軍からの猛攻撃に唯一、落城しなかった地方の支城。リーダーの素質を考えさせられました。

そのむかし、豊臣秀吉が、石田三成、大谷吉継の2人の知将を投じても落とせなかった忍城。関東に散在する北条氏側の支城は、館林城、小泉城、新田金山城など、ことごとく陥落した。本城の小田原が開城した後も、石田三成軍の執拗な水攻めにも屈しなかった北条方唯一の不落の城、それがこの忍城だった。

城の主はさぞかし猛将かと思いきや、これがなんとも大きな図体の頼りない「愚将」、愛称「のぼう様」こと成田長親(ながちか)。家臣や領民たち、誰もが「のぼう様」と呼ぶ。「のぼう様」と面と向かって言われても何のおとがめもない。本人いたってのんき、ノーテンキ。

「北条家にも豊臣方にもつかず、今と同じ暮らしがいいな~」と公儀の場では、誰もが感じていることを子供のように口にしてしまうのぼう様。しかし周囲が和議・開城に大勢が固まっているとき突如、抗戦を宣し坂東武者の心を皆に呼び戻させるのぼう様。日ごろは農作業が大好きで、極秘事項も家臣、領民には真実を包み隠さず伝える。勇者なのか弱者なのか、まさに“勇怯定かならぬ”人物。

従妹の甲斐姫に対しての感情は、(相思相愛でありながら)さいごまで支離滅裂。私も理解できなかった。
余りにもでくのぼうに見えるゆえ、家臣、領民がこぞって何か自分たちで世話をやかずにはいられなくなる、でくのぼう様のために一肌脱いで力になるか、と死をもいとわず。
そういう妙な魅力をもつ長親を「士分、領民が一つになって(団結して)いる。利でつながった我らが勝てる相手ではない」と石田三成も称えている。

正直、無欲な「のぼう様」は、ここ一番は、強敵を前にがんばった。

さて、わが国の宰相も代わりました。
奇兵隊の菅隊長は、まずはしっかり米海兵隊に向きあえるのでしょうか。

 

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『のぼうの城』オフィシャルブック
 
角川書店
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