組合青年部は全国で初めて
須永好自身は涙をのんで旧制太田中学校を退学したが、村人の教育には熱心だった。前段として農民(小作人)組合の中で青年部を組織した。青年部創設は全国でも強戸村が一番早かった。青年部は若い農民の知識向上と組合の前進のためにと「農民学校」を1922年に開設した。校舎は治良衛門橋駅前の民家の二階。学科は社会学(国内世界情勢)、文学、農学(品種改良、土壌肥料など)政治学、法律(地租条例、森林法など)、経済学(プロレタリア経済)、農民問題の7教科。
農民学校では警官も教育?
須永好も講師陣に加わった。生徒は80余名。しかし1930年頃になると官憲の監視が次第に厳しくなり、農会技術員だった菊池光好の話では「須永さんの講話の後に麦の黒穂病予防について講義しに行ったら生徒13人であったのに警官が8人も臨席していたのには驚いた」という。
女子にも経済・政治学の講座を
明るい話題を呼んだのは女子教育だった。1928年(昭和3年)農民組合婦人部が「強戸共愛女塾」を開校した。当時は男子は軍事教育、女子は貞操教育が政府の施策だったが、無産政党はこぞってそれに反対していた。募集人員80名、修学年限は3年だった。(前橋の共愛学園・共愛女学校とは関係ありません)。学科は和洋裁、家事普通学を主として、社会、経済学、政治学も勉強した。当時女子の教育に経済学や政治学を置いたところは、全国的には明治大学専門部女子部(1929年開校法律科商科設置=後の明治大学短期大学部(女子のみ)、現在は同大情報コミュニケーション学部に改組)しかなかった。ここでも強戸村共愛女塾の先見性がうかがえる。
さらに「強戸農村問題研究所」も開く。農民解放の立場から農村問題を研究するいわば、村の図書館の役割を果たした。農民への教育を重視した無産村強戸の試みは広く話題を呼んだ。(つづく)
【写真】共愛女塾の塾生たち(前列左から3人目が須永好。須永の自宅前)
【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。終戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。