ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

女子・農民教育に尽力  須永好(5)

2012年08月05日 | 須永好 研究

組合青年部は全国で初めて

須永好自身は涙をのんで旧制太田中学校を退学したが、村人の教育には熱心だった。前段として農民(小作人)組合の中で青年部を組織した。青年部創設は全国でも強戸村が一番早かった。青年部は若い農民の知識向上と組合の前進のためにと「農民学校」を1922年に開設した。校舎は治良衛門橋駅前の民家の二階。学科は社会学(国内世界情勢)、文学、農学(品種改良、土壌肥料など)政治学、法律(地租条例、森林法など)、経済学(プロレタリア経済)、農民問題の7教科。

農民学校では警官も教育?

須永好も講師陣に加わった。生徒は80余名。しかし1930年頃になると官憲の監視が次第に厳しくなり、農会技術員だった菊池光好の話では「須永さんの講話の後に麦の黒穂病予防について講義しに行ったら生徒13人であったのに警官が8人も臨席していたのには驚いた」という。

女子にも経済・政治学の講座を

明るい話題を呼んだのは女子教育だった。1928年(昭和3年)農民組合婦人部が「強戸共愛女塾」を開校した。当時は男子は軍事教育、女子は貞操教育が政府の施策だったが、無産政党はこぞってそれに反対していた。募集人員80名、修学年限は3年だった。(前橋の共愛学園・共愛女学校とは関係ありません)。学科は和洋裁、家事普通学を主として、社会、経済学、政治学も勉強した。当時女子の教育に経済学や政治学を置いたところは、全国的には明治大学専門部女子部(1929年開校法律科商科設置=後の明治大学短期大学部(女子のみ)、現在は同大情報コミュニケーション学部に改組)しかなかった。ここでも強戸村共愛女塾の先見性がうかがえる。

さらに「強戸農村問題研究所」も開く。農民解放の立場から農村問題を研究するいわば、村の図書館の役割を果たした。農民への教育を重視した無産村強戸の試みは広く話題を呼んだ。(つづく)

 【写真】共愛女塾の塾生たち(前列左から3人目が須永好。須永の自宅前)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。終戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議当選2回。

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太田高校を中退、独学の義人 須永好(4)

2012年08月04日 | 須永好 研究

どんなにか悔しかったことであろう。人一倍向学心の強い児童だった須永好は家計を支えるため明治42年(1909)9月太田中学校(現在の太田高校)を2年時途中で退学している。

戦前は(尋常)小学校6年間までが義務教育。小学校卒業後は、2年制の高等小学校(高小)か、5年制の中学校(男子)、高等女学校(女子)、実業学校に進んだ。しかし多くのものは三洋電機の創業者がそうであったように小学校を卒業して職に就き実社会で働いた。中学校や女学校に進むものは1学年で数えるほどの僅少。進学できるのは裕福な家庭の子どもたちに限られていた。

父の放蕩で学業断念

須永家は貧農ではなく、祖父の代から農業の他に機織業も手がけていて有力な自作農家だった。ただ父親、伊平が家督を守れなかった。伊平は新田郡会議員にまつりあげられそれなりに有能ではあったが、酒と色に溺れ家を捨て放蕩生活に明け暮れた。祖父が病気になってから機織業は破産し家は傾きかけてきた。

須永好は強戸尋常小学校で成績は良く、憧れていた叔父、須永城一郎(太田中第1回卒、陸軍士官学校ー中国大陸で戦死)と同じ太田中学校に進む。しかし父親不在の困窮してきた家の中には、まだ幼い弟、妹たちがいた。一家の面倒を見るためは退学しなければならなかった。以来、一家の支柱となって農業に精を出す。須永好15歳、試練の秋だった。

退学後の好は、気持ちを切り替え持前の探究心と骨身を惜しまない努力で農業に立ち向かった。2年後(明治44年)、強戸村農会長から「品行方正、業務勉励」と善行表彰を受けている。

強戸の篤農家、“須永金次郎”

学校は去っても須永好は終生、どんなに多忙の日でも朝1時間、夜1時間の読書を欠かさなかったという。朝は霜柱をくだき、夜は月をいだいて帰る。そして日々寝る間も惜しんで勉強した。農業改良の研究にも熱心で、須永家の作物は良質な出来栄えだった。人々は「二宮金次郎の再来」とまで評したという。

【写真】須永好が進学した太田中学校の校旗(左)

【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事する。郷里の強戸村を理想郷に、と農民組合を組織し革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党で活躍、衆議当選2回。

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田中正造との相似・・東毛義人 須永好(3)

2012年08月03日 | 須永好 研究

須永好という人物を調べて行くと、足尾鉱毒問題でたたかった田中正造翁と似た面がたくさん感じられる。飾らない自然な風貌も似ているかな。(写真参照=上が須永好、下が田中正造)

須永好(1894-1946)は、大正から昭和に活躍した人で、田中正造(1841-1913)は天保から大正を生きた人、両人は50歳以上の年齢差がある。

北関東(両毛)で農と生きた抵抗の代議士たち

須永は上州群馬、田中はお隣の下野栃木県の人だ。両人とも生涯を農民の立場で小作農、被害農民の生命と生活を守るために捧げ義を貫いた。ともに農に生まれ農に生きた政治家、衆議院議員であった。

須永好が誕生した1894年、田中正造は54歳で足尾鉱毒問題に取り組み地元代議士として盛んに質問書を作成し提出していた時期である。
被害農民が大挙して政府に請願行動(俗に言う「押しだし」)を起こし、群馬県明和町の川俣(かわまた)の地でこれまた大勢の警察官に阻止され農民と官憲が大激突した「川俣事件」は須永好、6歳の時の事件だった。

正造の葬儀に強戸村民も参列

田中正造は享年72歳、胃がんが悪化して亡くなった。強戸村からの正造の葬儀には好をはじめ強戸の村人が参列している。「予は下野の百姓成り」と近代文明の暗部とも言うべき公害問題に生涯をかけた正造に、好も上州のおなじ百姓として共感していたにちがいない。渡良瀬川の水源も利用していた強戸村の農民たちは足尾鉱毒の被害者でもあった。強戸は下流であったため上流地域ほどの被害ではなかったが、村民は早くから足尾鉱毒反対の陳情活動に参加している。今日の原発事故被害に至る日本の公害問題の原点は、まちがえなく足尾鉱毒事件がルーツである。

足尾の同志石山を信頼

須永好は、農民運動を進めていく中で特に信頼していた同志が足尾の石山寅吉だといわれている。石山寅吉・・とは、1890-1937新潟出身、須永より4歳年上。足尾銅山の精錬工から大日本鉱山労働同盟会の創立者の一人。足尾銅山の争議を指導したびたび投獄される。須永好と同じ日本労農党の結成に参画。この人も衆議院議員も務めたが48歳の若さで他界された。

好、正造の共通点は強い人間主義

須永好は、小作人組合を組織し小作人の生活向上のためにたたかったが、自身は自作農であった。田中正造も本百姓で名主の家に生まれた。二人とも出自に関係なく「小作農も人間である」「被害農民も人間である」といった人間主義に強い共通性がみられる。あらためて良く似た二人を義人と感じたのは、もっともな気がしてならない。

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“組合造り”の名人・・東毛義人 須永好(2)

2012年08月01日 | 須永好 研究

大正デモクラシーから昭和の軍国主義に向かいつつあった時代、保守的な風土のここ上州群馬の一角で須永好は、よくぞ農民(小作農)組合をつくったものだと思う。

組合は必要、つくるは至難

平成の今日に於いても新たに組合を結成することは並大抵の努力ではかなわない。それは対峙する相手がいることだけに、親睦会や趣味サークルを作るのとは訳が違う。地主(経営者)の多くは組合結成を歓迎しない傾向にあったし、今日でもその感覚は通じるのではないだろうか。

年末になると厚労省から労働統計調査が発表されるが、日本の労働組合の組織率は年々低下する一方。今では10%台まで落ち込んでいる。多くの職場で組合は存在していない。労組不要論を説くミルトン・フリードマン(米経済学者)のような新自由主義的な見方が依然と根強い。果たして組合は必要ないのだろうか。働くものは休み一日取得するにも気兼ねをしている。たとえどんな頼りない組合であっても、組合がある限り最低でも労働協約(就業規則)は明らかになっていて定期的に労使間での見直しは行われる。
時間外(残業)規定、慶弔、病欠、産休などが定められ確認されている。それだけ取っても働くものにとって組合の存在はマイナスではない。公私共に生活をしていく上で、基本的に大切な与件が明確化されていることは重要だ。

革新自治体、無産村強戸の誕生

須永好が強戸村小作人組合を結成したのは大正10年(1921)。4年後にはそれまで組合側の村会議員は1名しかいなかったのが、その年の村会選挙で、一気に組合系9名が当選、地主系はわずかに3名で大逆転が実現。新聞は「無産村強戸」、今でいう革新自治体強戸村の誕生を革命が起きたような調子で報道された。その翌年大正15年(1926)の統計では、強戸村の例に刺激されか各地で無産議員が定数の半分以上を占める町村が64誕生した。それでも全国1万1660町村総数の0.05%に過ぎないのではあるが。当時も、今とあまり変わらず町村議員は政友会と民政党という2大保守政党下に系列化されていた。

“地主組合”、産業組合も

話を戻すが、強戸に小作人組合が生まれた大正10年は凶作の年であった。村では折からの農業恐慌で収入もとだえ出稼ぎ者が帰郷して失業者であふれていた。小作料は上がり、岐阜や愛知で小作争議が起こっていた。強戸の小作人たちは日頃から地主への嘆願を繰り返していたが、聞き入れられず、叱られすごすご帰るのが常だった。組合発起人会議は村役場の会議室で行われた。須永好は村長訪ね「小作人組合」の結成を伝える。組合員520人。組合長須永好、27歳だった。

次の日、須永好は村長に地主の団体「地主会」をつくるよう斡旋を依頼している。さらに後日、産業組合も組織した。全国で小作人のみで産業組合を設立し運営したのはこれが最初、しかも唯一強戸村だけだった。

当時の群馬公官庁も陰の功労

組合組織は、組合員だけにプラスをもたらすものではない。地主(使用者)にとっても健全な交渉関係がオープンに築かれ話し合われることは、労使間の陰湿な猜疑感は消え信頼感は増すことになり両者にとって有益になるのだが、残念ながらいまだにそれが十分に理解されていない。強戸村に産業組合ができたとき新田郡長から群馬県当局のへの意見書がなかなか先駆的だった。「彼らは幾分たりとも変わりたる思想を有す・・しかし一面物事に熱心なる点もありて・・監督を厳にせば相当成績を収ることを得らるるものと認る・・」、つまり組合結成によって労働生産成果が期待できると前向きにとらえたことは、当時の群馬の当該公官庁責任者側にも組合効果を認める先見性があったということで歴史的には評価して良いと思う。

【写真】1930年総選挙、当選はしなかったが須永好の政見はがき。

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『未完の昭和史』 東毛の義士 須永好(1)

2012年07月27日 | 須永好 研究

今年の梅雨明けとともに熟読した一冊、須永徹著『未完の昭和史』。
1986年4月第一版。1986年(昭和61年)といえば当方の母が逝った年、チェルノブイリの事故のあった年でもある。著者須永徹(以下敬称略)が小川省吾衆議院議員の秘書だった頃の書だ。本の帯には小川省吾代議士の言葉が記されている「郷土の大先輩・須永好さんの生涯を、その孫である徹くんが実にみごとに描いています。上州人の喜びや悲しみを越えて、人間解放の叫びがきこえてくるようです」。

現役の時は時間的な余裕がなく机の横に積んで置くだけの、いわゆる“つん読”書がドンドン溜まっていった。私にとって本書はつん読の部類ではなかった。一回通読している。しかし年月を経た今、もう一度読んでみたくなりこのたびは時間にまかせ熟読してみた。これは次世代に語り継がなければならない東毛の、いや群馬、日本の農民運動の歴史を語る上でも貴重な証言の書と改めて知った。

歴史に残る無産村強戸

原発事故という社会的公益を害する(=公害)問題が起きた今、そのルーツは足尾鉱毒事件、万策が尽き天皇へ直訴を行った田中正造代議士と被害農民のたたかいにその精神があったように思われる。その同じ流れに東毛(群馬東部)で、小作農の組合を組織し日本で初めて“無産村・強戸※”を実現させ、貧農の苦しい生活を守った人物が須永好だ。「無産村」とは保守(=地主)勢力に代わって革新(=無産※)勢力が地方自治を担ったことをいう。

※【無産】戦後は使われず死語に近いが、もともとは「資産の無いこと」、無職のこと。生産手段を持た無い賃金によって生活する労働者(勤労者)、農民(小作人)などのことを意味する。

※【強戸】(ごうど)群馬県新田郡旧強戸村、現在の群馬県太田市強戸付近


本書について、amazonの「BOOK」データベースでは、簡潔にまとめている。
「地蔵さんになった百姓の足跡。軍国主義下の日本で、さまざまな迫害と弾圧に耐えながら、「無産強戸村」を築き、10年にわたって統治した農民の勇気と知恵。まさに地方自治の原点を見る思いだ。歴史の証言として読んでほしい。」

人生短くも後世への遺訓は多い

著者の須永徹は旧群馬2区選出の日本社会党の衆議院議員。1991年11月、41歳の若さで亡くなった。彼の祖父須永好(すながこう)も同じく衆議院議員(社会大衆党ー日本社会党)。議員在職中、国会で農地改革案について代表質問後に急死する。1946年9月、行年52歳。お二人とも若くして他界された。しかしその人生は短くも数々の実績を築き、中味の濃い、後世に大きな遺産と影響を残しての生き様であった。

当広場では、本書を通しての須永好のたたかいと生涯を何回かに渡ってご紹介したいと思います。

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    未完の昭和史
元衆議院議員 須永徹著
日本評論社
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