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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■神の国を求めなさい / 羽鳥頼和

2025年06月14日 | Weblog

2025/3/15放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は新約聖書ルカの福音書からお話ししてきました。今日は、「神の国を求めなさい」という題でルカの福音書12章からお話しします。

 イエスは弟子たちに言われました。「人はどんなに多くの物を持っていても、いのちを失ってしまったら何にもなりません。・・・ですから、何を食べようかと、いのちのことで心配をするのはやめなさい。」

 今からおよそ二千年前のイエスの時代は、食べ物がたくさんあって好きなだけ食べられるというようなことはありませんでした。飢饉が良く起こり、飢饉になるとその年の食べ物がなくなるだけでなく、種も採れないので次の年も飢饉になる可能性がありました。私たちも物価高や異常気象の中で生活の心配は絶えません。

 でもイエスは「心配しなくてよい」と言われたのです。どうしてでしょう。

 イエスは言われました。
 「鳥のことをよく考えなさい。鳥は種まきもせず、作物を保管する倉ももっていません。それでも神は養っていて下さいます。あなたがたはその鳥よりも大きな価値があるのです。神はあなたがたを養ってくださいます。・・・ だから、心配しなくてよい。」と言われたのです。

 でも、心配しないで何もしないのではありません。
 イエスは言われました。
 「心配するのではなく、むしろ神の国を求めなさい。そうすればあなたに必要な物はすべて与えられます。」

 「神の国を求める」とは、自分が神の国に住んで生きることを求めることです。神の国に住むならば、国を支配し治めておられる神が必要な物をすべて与えて下さるのです。神の国は平和で戦争がありません。人々は安心して幸せに過ごすことができるのです。

 イエスは言われました。
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じましょう。そして、救いの神に期待して神の国を求めましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.15放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■神に対して富む者となる / 羽鳥頼和

2025年06月13日 | Weblog

2025/3/14放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です 。
 今週は新約聖書ルカの福音書からお話ししています。今日は、「神に対して富む者となる」と題してルカの福音書12章からお話しします。

 イエスは一つの例え話をされました。

 ある金持ちの畑が豊作になりました。すると金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と考え込み、しばらくして心の中で「そうだ、倉を壊して、もっと大きな倉を建てよう。そしてそこに穀物も財産も全部しまっておこう」と言いました。
 こうして金持ちは思いました。 「これから何年分もいっぱい物がためられた。さあこれからは休んで、食べて、飲んで、楽しもう」
 しかし、そのとき神が金持ちに言われました。 「愚か者。おまえは今夜死ななければならない」

 このように話されたイエスは、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」と言われました。

 「神に対して富まない者」とは、この金持ちのようにたくさんの物を持っていても永遠のいのちを持っていない人のことです。
  永遠のいのちとは、いつまでも神との親しい関係をもって幸せに生きることです。

 どんなに多くの物を持っていても人は死んでしまったら何にもなりません。神に対して富む者は、神からまことのいのちを与えられて神との親しい関係をもって幸せに生きることができるのです。

 それでは、人はどうしたら永遠のいのちをもつことができるのでしょう。

 人は必ず死にます。それは罪から来る報酬が死であるからです。
 ですから生きるためには罪が赦されなければならないのです。
 
 新約聖書ヨハネの福音書3章16節にこのようにあります。
  「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神のひとり子キリストが私たちの罪を負って十字架で死んでくださったことによって、神は私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えて下さったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.14放送でのお話しより )


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■恐れなければならない方 / 羽鳥頼和

2025年06月12日 | Weblog

2025/3/13放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。 
 今週はルカの福音書からお話をしています。今日は、「恐れなければならない方」と題してルカの福音書12章からお話しします。

 イエスは弟子たちに「恐れなければならない方」について教えられました。
 「恐れなければならない方」とは神のことです。「恐れる」とは、「怖がる」とは少し違って、恐れ敬うことです。
 イエスは、神を恐れ敬う理由として、神がすべての人を正しくさばくお方であると教えておられます。 
 すべてのことを知っておられるさばき主である神が、私たちの行いも心の思いも、すべてを知ってさばかれるのです。

 イエスは、「さばき主である神を恐れなさい」と語ってから、「恐れることはありません」と言われました。

 なぜこのように言われたのでしょう。
 それは、私たちが神にさばかれるのを恐れて卑屈になったり、おじけづかないためです。
 神は私たちのことを決して忘れずに救いを与えて下さるので恐れる必要はないのです。

 イエスが教えられたことと同じようなことが旧約聖書のイザヤ書43章で語られています。

 「恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったからだ。・・・あなたは、わたしのもの。あなたを災いが襲っても、わたしは、あなたとともにいる。困難や苦難にあってもわたしはあなたを守る。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 (43章1-4節参照 一部意訳)

 このイザヤ書のことばは、イエス・キリストによって私たちに実現しています。「贖(あがな)った」(※買い戻した)とは、キリストの十字架のことです。イエス・キリストが私たちの罪を負って十字架で死んでくださったことによって私たちは救われているのです。

 イエスを信じて歩む者を神は守り支えて下さっているのです。だから恐れることはないのです。

 神はあなたを忘れずに、あなたを愛しておられます。

 それでは明日もまたお聴きください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.13放送でのお話しより )


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■正義と神の愛 / 羽鳥頼和

2025年06月11日 | Weblog

2025/3/12放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は新約聖書のルカの福音書からお話ししています。今日は「正義と神の愛」と題してルカの福音書の11章からお話しします。

 一人のパリサイ人がイエスを自分の家の食事に招きました。
 パリサイ人は律法を研究して実践することを重んじている人々でした。律法とは神がユダヤ人に与えた教えと戒めです。例えば食事の前には必ず「きよめの洗い」という儀式を行わなければなりませんでした。

 ところが、イエスは食事の前にそのきよめの儀式を行いませんでした。
 イエスを招いたパリサイ人はそれを見て驚きました。
 イエスはそんな彼に言われました。
   「あなたがたは、外側はきよめるが、内側は悪い思いに満ちています。」

 彼らの教える儀式では心をきれいにすることはできないのです。

 そしてイエスは言われました。
   「あなたがたは、正義と神への愛をおろそかにしている。」

 これはどういうことでしょうか。この「正義と神への愛」とは律法のことであると言えます。
 なぜなら、神が与えられた律法には「正義と神への愛」が教えられているからです。

 イエスは、パリサイ人が、神から与えられた律法を自分勝手に解釈して、神が律法を通して与えようとしておられる「正義と神への愛」をおろそかにしてしまっている、と言われたのです。

 イエスは、律法の戒めの中で重要なのは、「あなたの神、主を愛しなさい」という戒めと「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めであると教えられました。

 そして、さらにイエスは言われています。
  「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 イエスはまず私たちを愛してくださいました。私たちの罪を負って十字架で死んで罪の赦しを与え、私たちを救ってくださったのです。

 私たちも互いに愛し合いましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.12放送でのお話しより )


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■みことばを聞いて守る人 / 羽鳥頼和

2025年06月10日 | Weblog

2025/3/11放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は新約聖書のルカの福音書からお話ししています。今日は、「みことばを聞いて守る人」と題してルカの福音書の11章からお話しします。

 「みことば」とは「神のことば」すなわち聖書であり、イエスの語ることばです。

 さて、イエスの話しを聞いていた女の人が感動してイエスに言いました。
 「あなたを産んだお母様は、何と幸いなことでしょう。」

 同じ女性として誇らしく思い、イエスの母親のことをほめ称えたのでしょう。
 しかしイエスは言われました。
  「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

 神のことばを聞いてそれを守ることがなぜ幸いなのでしょう。

 「幸い」ということばには「神から恵みが与えられる」という意味があります。

 人が神のことばを聞いてその通りに行うことはとても難しいことです。
 例えば、「互いに愛し合いなさい」と言われても、敵対する人、憎んでいる人を愛することはできません。仲の悪い人、気の合わない人を愛することは簡単ではありません。

 でも、もしそんな人を愛することができたら、それは本当に幸いなことです。恵み深い神は、人が神のことばを守り行うことができるようにしてくださるのです。

 さらにイエスは、神のことばを行うことは明かりが部屋全体を照らすのと同じように、その人を明るくするけれど、神のことばを聞いてもそれを行わないなら、それは明かりをテーブルの下に置いているようなものだ、と教えられました。

 人が神に信頼して神のことばを行おうとするなら、神が必ずそれを助けてくださいます。そして、その人の人生は明るくなるのです。

 イエスは私たちにも、「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」と言われています。

 神のことばは聖書に記されています。ご自分で聖書を読むこともできますが、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.11放送でのお話しより )


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■もう神の国は来ている / 羽鳥頼和

2025年06月09日 | Weblog

2025/3/10放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は新約聖書ルカの福音書からお話をします。今日は、「神の国はもう来ている」と題して、ルカの福音書11章からお話しします。11章の14節にこのようにあります。

 「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。」

 悪霊とは人を神から引き離そうとする霊的な存在です。
 イエスがその悪霊を追い出すと、その人は話すことができるようになりました。

 それを見ていた人々の中のある人たちは、「イエスは、悪霊どもの親分によって悪霊を追い出しているのだ」と言い出しました。

 イエスは、彼らに言われました。「わたしが神によって悪霊どもを追い出しているのですから、神の国があなたがたのところに来ているのです。」

 イエスは神によって悪霊を追い出していたのです。それで、そこに神の国が来ているというのです。

 「神の国が来ている」とは、そこに神の支配、神の守りがあるということです。この神の守りは万全です。神は私たちを悪いものから守ってくれます。万が一、悪に支配されることがあっても、神はその悪から必ず救い出してくださいます。

 「主の祈り」と呼ばれる、イエスが教えてくださった祈りでは、神の救いと守りを期待して、「神の国が来ますように。神のみこころが天で行われるように、私たちのいるこの所でも神のみこころが行われますように。」 そして、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」と祈ります。

 イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。イエスによって神の国すなわち神の支配、神の守りは私たちのところに来ているのです。

 自分の悪いところを後悔し、それをやめると決心してイエス・キリストを信じるなら、神の国に生きることができるのです。
    
 それでは明日もまたお聴きください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.10放送でのお話しより )


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■自分自身が新しく / 水谷 潔

2025年06月07日 | Weblog

2025/3/8放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。

 おとといから新約聖書コリント人への手紙第二 5章が記す三つの新しさをお伝えしています。今日は、最後の三つ目です。三つ目は、「新しい自分自身」です。そのことは5章の17節に書かれています。新約聖書コリント人への手紙第二 5章17節をお読みします。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 「誰でもキリストにあるなら、新しく造られたものです」 そう訳されている箇所は非常にシンプルな文章です。英語に直訳するなら、“Anyone in Christ New Creature”となります。“Anyone in Christ”「キリストにある誰でも」が“New Creature”「新被造物」「あたらしく創造されたもの」。そうなります。
 イエス・キリストを信じキリストのうちにあるなら誰でもが、神様によって新しく造られている作品となるのです。神様による新しい創造の業(わざ)が信じる者の中に始まるのです。
 
 それは建築に例えるなら改築ではなく新築です。古い建物の一部を新しくするのではなく、土台から全部を建て直すことに似ています。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあるように、古い家はなくなり家全体が新しく建てられていくのです。

 以前、教会の集会に元暴力団員の牧師をお呼びしてお話をしいただいたことがあります。その牧師は、満面の笑顔でこうおっしゃいました。「刺青の上に天使のような笑顔、そんなクリスチャンがいてもいいでしょう?」 その姿はまさに「百聞は一見に如かず」でした。
 その牧師はイエス・キリストに出会い、過去の悪事を心から悔い改めて新しい自分となったことを確信をもって語ってくださいました。
 聖書のことば通り、すべてが変えられたと考えざるを得ませんでした。イエス様を信じるなら、どこかが変わる、何かが新しくなるのではありません。イエス様は、あなたをそっくりそのまま、すべてを新しく造り変えてくださいます。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.8放送でのお話しより )


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■人の知り方が新しく / 水谷 潔

2025年06月06日 | Weblog

2025/3/7放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。
 昨日に続いて、新約聖書コリント人への手紙第二 5章が記す「新しさ」についてお話しします。二回目の今日は「新しい 人の知り方」です。そのことは5章の16節に書かれています。新約聖書コリント人への手紙第二 5章16節をお読みします。
 
 「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。」

 イエス様を信じるなら人の知り方が新しくされます。イエス様を信じる前の人の知り方を聖書は「肉にしたがって知る」と表現しています。「肉」とは言い換えるなら「生まれながら」です。初期設定、デフォルトと言ってもいいかもしれません。

 では「肉に従った人の知り方」っていうのはどんなものでしょうか。たとえば自分にとって快適か不快か、損か得かなど、プラスやマイナスを基準に人を知ろうとするあり方です。プラスなら親しくし、マイナスなら距離を取ったり遠ざけようとします。あるいは人を容姿や学歴や職業や地位、そうしたスペックで人を知ろうとします。それらは人を知る確かに材料にはなるかもしれません。しかしその人を正しく知ることはできないでしょう。なぜなら、人の本質はその人の人格や心にあるからです。

 しかしイエス様を信じて新しいいのちに生きるようになると、プラスマイナスやスペックで人を知ろうとするあり方は終わってゆきます。イエス様を信じるなら、自分と相手だけの関係ではなく、そこに神様が参加してくださいます。
 そして自分の目、人の目、世間の目ではなく、神様の目を通してその人を見るようになります。そこから相手を正しく理解し、愛し、受け止めていく豊かで幸せな人間関係が始まっていくんです。

 聖書は言います。
 「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。」

 イエス様を信じるなら人の知り方が新しくされます。損得や外見、学歴、地位などで人を見ることのない、そういうあなたへと変えられていきます。

 どうでしょう、ラジオの前のあなたもイエス様を信じて幸いな人間関係を作りませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.7放送でのお話しより )


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■生きる目的が新しく / 水谷 潔

2025年06月05日 | Weblog

2025/3/6放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷 潔です。

 今日からは、新約聖書コリント人への手紙第二 5章が記す「新しさ」についてお伝えします。
 今日は一つ目として、新しい生きる目的についてお話しします。

 新約聖書コリント人への手紙第二 5章15節は言います。
  「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」

 聖書によれば、私たち人間は誰もが、神様を離れて歩むという罪のために滅びへと向かっています。
 しかしイエス・キリストは私たちを愛し、その罪を赦すために私たちに代わって罪を担い、十字架に架かり死んでくださいました。

 さらにその三日目にイエス様は死からよみがえられました。
 そのことは同じように死を超えて生きる永遠のいのちがイエス・キリストを信じる者に与えられていることを意味します。

 十字架は信じるすべての人に罪の赦しを与え、復活は死を超えて永遠を生きるいのち・新しいいのちを与えるのです。

 罪を赦されて新しいいのちに生きるなら生きる目的も新しくなります。これまでは自分のために生きてきた人も、自分のために死んでよみがえった方すなわちイエス・キリストのために生きるようにと導かれます。

 どうでしょう。もしいのちを捨てて自分を死から救ってくれたそんないのちの恩人がいるとしたら、その後の人生って変わるんじゃないでしょうか。自分自身を大切にして、助けてくれたその人に恥じないような生き方を願うでしょう。できればその人の役に立ちたい、喜んでもらえるような生き方をするでしょう。それはとても生きがいのある人生になるのではないでしょうか。

 誰のために生きるか、それが人生を決めます。人生に究極の目的があれば、仕事や家庭などの日常も、その風景は違ってくるのではないでしょうか。

 ラジオの前のあなたは誰のために生きているでしょうか。

 イエス様はあなたに新しいいのちを与え、新しい人生の目的へと導きます。イエス様を信じて、明確な目的をもって豊かな人生を歩みませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.6放送でのお話しより )


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■模範を示すための権威 / 水谷 潔

2025年06月04日 | Weblog

2025/3/5放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。愛知県春日井市にあります春日井聖書教会協力牧師の水谷潔です。

 最近は、これまで以上に弱い立場にある人たちの尊厳が尊重されるようになりました。それに伴ってリーダーや親や指導者などの在り方も問われているようです。聖書はそのことについて何を語っているでしょう? 
 新約聖書 ペテロの手紙第一 5章3節は、そのことについて私たちこう語り掛けています。

 「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」

 聖書は、権威をもって人を指導し教育する立場にある人々に対して、支配するのではなく自らが模範を示すのですよ、と教えています。

 私は牧師になる前は公立高校で教師をしていました。その時、校長先生が生徒の保護者に向けて語ったことば、それを今でも忘れられません。それはこういうことばでした。「子どもは親の言う通りにはならない。親のする通りになる。」

 聞いていた私も、その場で背筋が伸びる思いがしました。「これをしなさい」「あれはしてはいけません」 親や教師はことばで指示、命令、禁止などをします。そのように相手の成長を願ってことばで教えて育てていくことも大切でしょう。
 しかし聖書は、自らが行いをもって模範を示すようにと命じています。

 「このことはこうするのですよ」「私のように歩むのですよ」と自らが模範を示すなら、それはことば以上の説得力を持つことでしょう。そして上に立つ者も、下にいる者から信頼や尊敬を受けて良い関係を築いていくことができるのではないでしょうか。

 聖書は言います。「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」
 神様から権威を託されているということは、自らが模範になるという厳粛な責任を伴うことを覚えたいものです。人を教え導く立場にあるなら、また将来そうした機会があるなら、この聖書のことばを役立ててみてはどうでしょうか。

 月曜日からは権威について聖書のことばをご紹介してきました。明日からは、聖書が語る「新しさ」についてお話しします。ぜひお聴きください。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.5放送でのお話しより )


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