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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■神がともにいる③ / 山下 亮

2025年06月25日 | Weblog

2025/3/26放送

 「世の光」の時間です。愛知県安城市にある安城中央キリスト教会の牧師、山下 亮です。

 様々な区切りや節目を迎えることの多い3月末の時期となりました。そのような中で、あなたはこの春、何らかの役割を終えて手放していくという経験をされるでしょうか。あるいは役割を終えるということにおいて、どのようなことが印象に残っているでしょうか。

 私にとって印象に残っていることの一つは、6年10ヶ月勤めた会社を自主退職したときのことです。キリスト教会の牧師として働くことを志して牧師を養成するための教育機関で研修を受けることにしたのです。退職した直後の月曜日に、何とも言えない脱力感を経験しました。幸いにも直ぐに立ち直ったのですが、心のどこかで「労働をして何かしらの貢献をしていることが自分自身の存在意義のすべて」のように錯覚していたのでしょう。

 あなたも、何らかの役割や貢献が自らの存在意義のすべてとなっていることはないでしょうか。もしそうであるならば、やがてそれらすべてを手放すときに、あなたはどのように自らの存在意義を見出していくのでしょうか。

 聖書の中には次のような神様のことばが記されています。

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
  あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。
  わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」

 これは聖書のイザヤ書46章4節に記されていることばです。神様は私たちの存在意義を役割や貢献によって判断されるお方ではありません。たとえ年を重ねて、かつて出来ていたことが出来なくなっていったとしても、神様は私たちを背負って救い出してくださるのです。

 もしあなたがこれまで担っていた役割を手放すことで自らの存在意義を見失い、空しさを経験するようなことがあるならば、ぜひこの聖書のことばを思い出してください。

 今日も神様はあなたが存在しているそのことを喜んでくださっています。あなたを背負って救い出してくださる神様の招きに応えて、神様と共に歩むことができますようにお祈りしています。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.26放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■神がともにいる② / 山下 亮

2025年06月24日 | Weblog

2025/3/25放送

 「世の光」の時間です。愛知県安城市にある安城中央キリスト教会の牧師、山下 亮です。

 突然ですが、あなたには誰かから「帰ってきなさい」と言われた経験があるでしょうか。その呼びかけは、もしかしたら、ある種の緊張感を伴って思い出されるものであるかもしれません。

 子どもの頃に保護者との約束の門限を破って友人と遊んでいるときに、「今すぐ家に帰ってきなさい」というメッセージを受け取った経験が思い出されるかもしれません。あるいは職場の上司から、「今すぐ戻ってきなさい」というメッセージを受け取った場面を思い出すこともあるでしょう。
 呼びかけている相手が怒っている状況であれば緊張が走り、その所に戻る足取りが重たくなってしまうということは無理もないことでしょう。

 聖書の中には神様が「帰ってきなさい」と呼びかけている次のようなことばがあります。

  「主を求めよ、お会いできる間(ま)に。
   呼び求めよ、近くにおられるうちに。
   悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
   主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
   私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」

 これは聖書のイザヤ書55章6節から7節に記されていることばです。お会いできるほど近くにおられ、私たちと共におられる神様が呼びかけています。

 聖書は、神様が私たち一人一人をお造りになり愛しておられる、と教えています。
 しかし私たちが神様に背を向けて自分勝手に歩んでしまっているのです。そのような私たちを見捨てず、見放さず、「帰ってきなさい」と神様は呼びかけておられるのです。

 その神様の呼びかけに応えて帰るときに、私たちを待ち受けているのは神の懲らしめではなく神のあわれみと赦しです。

 神様は今日も、ご自身のもとに帰るようにとあなたに呼びかけておられます。そこにこそ本当の平安があるからです。

 あなたも、共におられる神様の招きに応えて、神様のもとに帰りませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.25放送でのお話しより )


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■神がともにいる① / 山下 亮

2025年06月23日 | Weblog

2025/3/24放送

 「世の光」の時間です。愛知県安城市にある安城(あんじょう)中央キリスト教会の牧師、山下 亮(りょう)です。

 三月も残すところあと僅かとなりました。周りの環境が大きく変わることの多いこの時期において、どのようなことがあなたの印象に残っているでしょうか。
 私にとって一番強烈に印象に残っていることは、大学を卒業して就職をする時のことです。勤務地の発表が入社式の翌日に行われることになっていました。そのため、3月31日に入社式の準備のために出発をするときには、4月以降どこで生活をすることになるのかわからない状況でした。新しい生活への期待と不安が入り混じる、そのような独特な緊張感をもって出かけたことが、あれから15年以上経った今でも懐かしく思い出されます。

 そのような新しい環境へと向かう度に、次のような聖書のことばを私は思い出していました。

 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」

 これは聖書のヨシュア記1章9節に記されていることばです。クリスチャンの両親のもとで幼い頃から育てられていた私は、家の中に掲げられていたこの聖書のことばを身近に感じていました。
 どのような所に行っても神様が共にいてくださる。・・・ 緊張や不安を覚えるようなときも、そのことを思い出しながら、不思議と心が落ち着いて安心していくということをその都度経験してきました。

 もしあなたも新しい環境へと向かう中で不安や恐れを抱いているのでしたら、是非この聖書のことばを思い出してください。神様は、あなたが行く所どこででも、あなたと共におられるのです。

 共におられる神様を信じている人々が集まっているキリスト教会では、神様からのメッセージを受け取ることができます。あなたも神様と共に歩み始めてみませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.24放送でのお話しより )


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■胸をときめかす / 板倉邦雄

2025年06月21日 | Weblog

2025/3/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「胸をときめかす」という題でお話ししましょう。

 恋人との初めてのデートの時、私たちは感情が高ぶり、胸がどきどきするものです。ユダヤ人の先祖であるアブラハムは、まだ見ぬイエス様が来ることを望み見て、胸を打ち震わせたのです。
 しかし、目の前に神の子イエス様を見ている人々は、胸をときめかすこともなかったのです。ヨハネの福音書8章の56節からです。

 さて、自分に悪意をむき出しにする人々に向かってイエス様はこう言われました。

 「あなたがたの先祖の父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そして、その日を見て喜んだ。あなたがたが尊敬し信仰の父と仰ぐあなたがたの先祖アブラハムは、わたしが来る日を待ち望みながら胸をときめかしていました。まだ見ぬわたしに会いたい、と心を躍らせていたのです。それなのに、あなたがたは今、この日、見ているわたしを拒んでいるとはどういうことですか。

 これを聞いたユダヤ人たちは、ますますイエス様に反発して言いました。

 「あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」

 イエス様は彼らに答えられます。

 「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から、わたしはいるのである。」

 わたしは神だ、と言っているのです。

 そこで彼らは石を取り、イエス様に投げつけ殺そうとしました。
 しかしイエス様は身を隠して神殿から出て行かれたのです。

 イエス様は、「わたしは世のはじめから存在する神である」と言っているのです。

 それにしても、自分たちの考えに入らない人を排除し、石で打ち殺そうとする人たちの熱い情熱とはいったい何であるのでしょうか。

 さて翻って、私たちは胸をときめかすアブラハムですか? それとも、イエス様を殺そうとする人々ですか? 私たちはイエス様を見たことはありません。しかし、イエス様を信じて、アブラハムのように言い尽くすことのできない輝きに満ちた喜びに溢れたいのです。

 聖書のことばです。

 「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今、見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない栄えに満ちた喜びに踊っています。」 
             ペテロの第一の手紙 1章8節


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.22放送でのお話しより )


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■死を見ることがない / 板倉邦雄

2025年06月20日 | Weblog

2025/3/21放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「死を見ることがない」という題でお話ししましょう。

 「人は死ぬべきものである」とはある墓石に刻まれたことばです。しかしイエス様は神殿の境内でこのように言われました。

 「よくよくあなたがたに言っておく。もし人がわたしのことばを守るなら、その人は決して死を見ることはないであろう。」 

  今日はヨハネの福音書8章51節からのお話です。

 
 さて、神殿の境内にいる巡礼者の中には敬虔な人たちがいたことでしょう。そのような人々に向かって希望と癒しのことばをイエス様は投げかけられたのです。特に、巡礼者の中には不治の病の人や病気の子どもや家族を抱える人たちもいたのではないでしょうか? ですから、このイエス様のことばは、人生は死で終わらない、わたしのことばを信じて守る者は死んでも生きる、生きていてわたしのことばを信じ守る者はいつまでも死なない、永遠のいのちを持つ、と約束していたのではないでしょうか。

 イエス・キリストへの信仰は私たちの身体と魂と霊を生かすのです。

 しかし、イエス様への反対者は、イエス様のことばに心を動かされることなく難癖を付けました。

 「あなたが悪魔に取りつかれていることが、今わかった。先祖アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それなのにあなたは、わたしのことばを守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。あなたは、私たちの父アブラハムより偉いのか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分を誰と思っているのか。」

 イエス様の反対者たちは、死ぬことを「肉体の死」だけのことと考えていたようです。
 しかしイエス様は、ご自分を信じてご自分に結びつき神のことばを守る者に死んでも生きるいのちをお与えになるのです。

 地の塵(ちり)で造られた肉体は塵に帰ります。しかし、霊魂はこれを造られた神に帰るのです。
 イエス様を信じて従う者にとって、死は神の国に至る通路に過ぎません。

 イエス様のことばです。

 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」 ヨハネの福音書14章1節と2節


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.21放送でのお話しより )


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■神から来た者 / 板倉邦雄

2025年06月19日 | Weblog

2025/3/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「神から来た者」という題でお話ししましょう。

 「神から来た者」と言いますと、神の子イエス・キリストを筆頭に挙げることができるでしょう。
 次に神の預言者たち、そして神のことばに聞き従う者は神から来た者です。ヨハネによる福音書8章47節のイエス様のことばを口語訳聖書で読みます。

 「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである。」

 このイエス様のことばを聞いたユダヤ人たちは激高し、イエス様に答えて言いました。
 「あなたはサマリヤ人で悪霊に取りつかれている、と私たちが言うのは当然ではないか。」

 ガリラヤ出身のイエス様は「異邦人(外国人)の土地」と呼ばれたナザレに育ちました。サマリヤ人は背教者・神の律法を汚す者、と考えられていました。ユダヤ人たちは、イエス様が神に忌み嫌われた者、と侮辱し、悪霊に取りつかれた者、と二重にイエス様をけなし侮辱したのです。

 それに対してイエス様は答えました。
 「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたはまたさばくかたである。むしろ、わたしを見ているあなたがたは、わたしをあがめようとはしないし、むしろ軽んじている。だから、あなたがたは父なる神にさばかれることになるだろう。」

 と、イエス様は、自分を悪魔呼ばわりして侮辱してやまない人々に警告しているのです。

 すなわち、イエス様を侮辱し軽蔑することは父なる神に対してなされているということになります。
 「見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」と口語訳聖書 第一ヨハネの4章の20節で語られているからです。

 ですから、神から来た者は父なる神のことばを聞いて信じ従う者です。神から来た者は羊飼いである父なる神様の声を聞いて従う羊となるのです。

 聖書のことばです。

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」 詩篇23篇1節のダビデのことばです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.20放送でのお話しより )


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■神の言が根をおろす / 板倉邦雄

2025年06月18日 | Weblog

2025/3/19放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神の言(ことば)が根をおろす」という題でお話しましょう。

 私たちはこの世に生まれますと、ことばの世界の中に置かれます。祖父母や父や母、そして兄弟、やがて学校の先生や友だち、そして多くの人々のことばに接することになります。そして、ことばが私たちの人格、性格、そして文化や習慣、生き方を形作っていくのではないでしょうか? 
 ですから、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言われたイエス様のことばは真実です。今日はヨハネの福音書の8章37節からです。

 さてユダヤ人たちは、「われらの先祖はアブラハム」と誇りに思っていました。アブラハムは父なる神様のことばの約束を信じて従い、すべての国民に祝福をもたらす人となりました。その先祖を誇りとする人々が神の子イエス様を殺そうとしていたのです。
 イエス様のことばが彼ら心の中に根を下ろすことはありませんでした。神のことばやイエス・キリストのことばというこの種は彼らの心に蒔かれましたが、悪魔と言うカラスが飛んできて食べてしまったようなのです。

 そこでイエス様は、こう続けて言いました。

 「わたしは、わたしの父、神のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父、悪魔から聞いたことを行っている。あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望通りを行おうと思っている。悪魔は、初めから人殺しであって、真理に立つ者ではない。悪魔のうちには真理がないからである。悪魔が偽りを言うとき、いつも自分の本音を吐いているのである。悪魔は偽り者であり、偽りの父であるからだ。」

 さて私たちはどちらの父を持っていますか? イエス様の信じ従う父なる神ですか? それとも人殺しで噓つきの父である悪魔ですか? 私たちの心はどちらの父のことばを信じ従っているでしょうか。私たちの心に根差しているのは、私たちの人生を生かし豊かな実を結ばせる父なる神のことばですか? それとも、欲望のままに生きるように誘惑する父・悪魔のことばでしょうか。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.19放送でのお話しより )


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■罪を犯す者は、罪の奴隷である / 板倉邦雄

2025年06月17日 | Weblog

2025/3/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「罪を犯す者は、罪の奴隷である」という題でお話ししましょう。

 聖書は、「罪」と言う場合、三つの罪について言っています。
 一つは法律を犯す罪、二つ目は道徳的罪です。人を憎んだりする罪ですね。そして三つ目は宗教的罪があります。いわゆる偶像崇拝の罪です。ヨハネの福音書 8章33節からです。
 
 さて、イエス様は自分を信じたユダヤ人たちにこう言いました。

「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。」

 私たち人間は、聖書が言うところの三つの罪を犯す者です。法律を犯し、道徳や倫理に外れ、そして偶像に走るのです。そのような罪を犯すとき、私たちは心の底から喜んでしている訳ではないのですが、欲望に負けて嫌々ながらすることもあります。それは罪という主人の奴隷になっているからでしょう。

 伝道者パウロはこうした罪の奴隷である私たち人間の悲惨さを次のように語りました。

 「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 ・・・ そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ人への手紙 7章15節、17節) 

 そしてイエス様は続けてユダヤ人に向かってこう言いました。

 「そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」 (ヨハネ 8章35節、36節 )

 
 三つの罪の奴隷から私たちは自由にされます。

 ここでイエス様が言いたいことは何でしょうか。
 奴隷はしばらくの間、雇われているだけであって家の相続人ではない。家の相続人は息子です。イエス様は自分を神の子としているのです。そして、神の子だけが罪の奴隷である私たちを罪から自由にすることができるのです。
 なぜなら、罪も咎もない神の子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架の上で死んでくださったからです。
 ここに罪からの解放と言いますか、ここに罪の奴隷からの贖(あがな)い(※買い戻し)、すなわち解放と自由があるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.18放送でのお話しより )


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■真理は、自由を得させる / 板倉邦雄

2025年06月16日 | Weblog

2025/3/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。 
 今日は、「真理は、自由を得させる」という題でお話ししましょう。

 「私たち人類は真理を求めてきました。真の自由と平和は真理から来ると知っていたからです。
 しかし、そのために論争し、暴力を振い、愚かな戦争までしてきました。真理は目に見えない方から来ることを知らなかったからです。」

 これは『解説イエス・キリスト』という本の冒頭句の一節です。では今日はヨハネの福音書8章31節からです。
 
 さてイエス様は自分を信じたユダヤ人たちに言われました。

 「もし、わたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8章31節、32節 口語訳聖書

 ここでイエス様は、真理を知るためにはイエス様ご自身のことばのうちに留まっていることを求められました。
 「イエス様のことばのうちに留まる」とは、イエス様のことばを信じてそのことばに従って生きることではないでしょうか。「弟子となる」とは師匠の言うことを聞いて、師匠とともに生きることが求められるからです。イエス様の弟子となることは、やがてイエス様のようになっていくということでしょうねえ。

 イエス様は弟子たちにこう言われました。

 「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」(ヨハネ14章6節 )

 イエス・キリストは真理です。真理であるイエス・キリストの弟子となることによって私たちはまことの自由を得ることができるのです。イエス様を知ること、信じること、そして従うことは私たちを真の自由にするのです。
 なぜなら私たちは不自由であり、ある意味で奴隷のような状態の中に生きているからです。

 真理であるイエス様は私たちを何から自由にするのでしょうか。それについては明日お話ししたいと思っています。

 少なくとも私たちは次の三つの奴隷になっていないでしょうか? 

 人が自分をどう見ているかという人の目や評価を恐れる奴隷です。
 次は、自分の欲望をどのように満たしていくかという欲望の奴隷です。
 そして第三に、死と死の恐怖の奴隷ではないでしょうか。

 しかしイエス様はこのような三つの奴隷から私たちを自由にしてくださるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.3.10放送でのお話しより )


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■神の国を求めなさい / 羽鳥頼和

2025年06月14日 | Weblog

2025/3/15放送

 「世の光」の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今週は新約聖書ルカの福音書からお話ししてきました。今日は、「神の国を求めなさい」という題でルカの福音書12章からお話しします。

 イエスは弟子たちに言われました。「人はどんなに多くの物を持っていても、いのちを失ってしまったら何にもなりません。・・・ですから、何を食べようかと、いのちのことで心配をするのはやめなさい。」

 今からおよそ二千年前のイエスの時代は、食べ物がたくさんあって好きなだけ食べられるというようなことはありませんでした。飢饉が良く起こり、飢饉になるとその年の食べ物がなくなるだけでなく、種も採れないので次の年も飢饉になる可能性がありました。私たちも物価高や異常気象の中で生活の心配は絶えません。

 でもイエスは「心配しなくてよい」と言われたのです。どうしてでしょう。

 イエスは言われました。
 「鳥のことをよく考えなさい。鳥は種まきもせず、作物を保管する倉ももっていません。それでも神は養っていて下さいます。あなたがたはその鳥よりも大きな価値があるのです。神はあなたがたを養ってくださいます。・・・ だから、心配しなくてよい。」と言われたのです。

 でも、心配しないで何もしないのではありません。
 イエスは言われました。
 「心配するのではなく、むしろ神の国を求めなさい。そうすればあなたに必要な物はすべて与えられます。」

 「神の国を求める」とは、自分が神の国に住んで生きることを求めることです。神の国に住むならば、国を支配し治めておられる神が必要な物をすべて与えて下さるのです。神の国は平和で戦争がありません。人々は安心して幸せに過ごすことができるのです。

 イエスは言われました。
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを信じましょう。そして、救いの神に期待して神の国を求めましょう。


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