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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■人生を覆う影 - 孤独感 / 関根弘興

2025年05月13日 | Weblog

2025/2/4放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今、多くの人の心を覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、まるで人生を覆う影のようなものが幾つかある。そういう風に思います。 昨日はその一つは、自分に対する無価値感であるというお話をしました。

 でも聖書は、「神様は愛です」と書かれているように、神様の愛の対象として一人一人がいるのだ、存在しているのだ、だから決して無価値な存在ではない、というお話を致しました。

 それでは、二つ目は何でしょう。それは孤独感です。誰も孤立的に生きることを願っている人などいません。誰か一緒に共感して、共有して生きていきたい、そう願っています。
 ご存知ですか? 孤独になる時の決まり文句というのがあるんですよねぇ。それは「誰も私のことを分かっちゃくれない」というそういうことばです。

 今の時代はなにかと承認欲求というものが全面に出ている時代です。どれだけ、投稿したインターネットのサイトに「いいね」が付くかをまるで競うかのように投稿するわけですよねえ。誰かと何かで繋がっていたい、そういう思いを誰もが持っています。
 でも、どんなに「いいね」が付いても、ネット社会の中でたくさんの繋がりがあると思わされても、人の心はとても複雑です。自分だけ取り残されてしまうのではないかぁ?、というまるで脅迫感のようなものさえ抱いてしまう、そんな時代に私たちは生きていると思います。

 そして、最後には人間関係そのものに疲れてしまい、本当は孤独でいることは嫌なんだけれど関わりが始まると周りに自分を合わせなければならないし、しんどさを抱えてしまう、そんな思いを持つ多くの人たちがいます。
 ですから、孤独を味わいたくはないけれど、でもここから消えてしまいたい、と思っている人は少なくありません。

 私は讃美歌の『いつくしみ深き友なるイエス』、この讃美歌が大好きです。もし私たちの最善を願い、いつも一緒にいてくださる慈しみ深い方がいてくれるなら、人は必ずそこに安息を見出すことが出来ます。

 聖書はあなたに伝えています。その方こそ救い主イエス・キリストである、と。

 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない。見よ、終わりまでわたしはいつもあなたとともにいる。」と、こう約束されるイエス・キリストは、今日もいてくださるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.4放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■人生を覆う影 - 無価値感 / 関根弘興

2025年05月12日 | Weblog

2025/2/3放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今、多くの人のこころを覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、そうですねぇ、まるで人生を覆う影のようなものが幾つかあると思います。

 その一つは無価値感です。しばらく前に、ある集いで聖書の話をしている時でした。私は、「一人ひとりはかけがなえのない大切な価値ある存在である」ということをお話をしていました。
 私はその時ポケットから一万円札を取り出し、集まってきた人たちに差し出しました。「みなさぁん! この一万札、欲しい方いませんか?」こう言ったのです。 すると、みんなは「欲しいー!」と手を挙げました。
 私は続けて聞きました。「でもこの一万札も人から人へと渡ると、汚れたり皺(しわ)がついたりしてしまいますよねぇ。そんな汚れて皺の付いた一万札、欲しい方いますか?」ともう一度尋ねました。すると、みんなが同じように「欲しいー!」と言ったのです。
 一万円は、汚れていようが折り曲がっていようが一万円の価値はまったく変わりはありません。そんなことは誰も知っています。だから、みんな欲しいと言うわけですよね。

 でも考えて見てください。同じように自分自身を考えたことがありますか? ある人はそう考えないんです。人生には失敗も挫折も付きものです。自分の思いに反して歯車がずれてしまうなどということもあります。そしてそんな自分を見ながら、自分なんてもういてもいなくてもいいのではないか? 自分なんて価値がないのではないか?と勘違いしてしまうこともあるのです。
 人生には失敗や挫折は必ずあります。また私たちは、何かができる、できないということのみで自分の価値を見いだそうとすることもあります。だから成功すれば価値があり、失敗したらまるで価値がないかのように思い込んでしまうのです。
 残念ながら、こうした自分に対しての無価値感を持ってしまうと、まるで人生に雲がかかっているような状態となってしまうのです。

 あの一万円札は汚れていようが皺がつこうがその価値はまったく変わりません。あなたという存在は、どんなことがあってもあなた自身の価値は変わることがないのだと知ってください。
 なぜなら、「神は愛です」(ヨハネの手紙第一 4章8節、16節 )とはっきり聖書に書いてあるからです。つまり、神様の愛の対象は「あなた」だからです。あなたは決して無価値な存在ではありません。神様に愛されている大切な存在なのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.3放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種⑥ / 大嶋重徳

2025年05月10日 | Weblog

2025/2/1放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は、聖書のルカ福音書8章から、種を蒔く人の例えから、聞くことについて一緒に学んでいます。

 良き聞き方の三つ目が今日のところです。それは「実を結ぶ」聞き方だとイエス様はおっしゃいました。

 良い地に蒔かれた種はフカフカの土に守られて、やがて根っこが出てきて土の養分を十分に吸収します。そして芽を出し、陽の光を十分に浴びて光合成をしていきます。根っこが伸びることを邪魔する岩地も太陽の光を妨げる茨もありません。
 そうすると良い地に蒔かれた種は百倍の実を結ぶのです。砕かれ、悔い改め、守り抜き、耐え抜いた種はやがて一粒が100粒の種になるまで花を咲かせ、実を結ぶこととなります。一粒の花の種が翌年には花壇にいっぱい溢れて咲いていくように、増え広がっていくのです。

 あなたの心の良い地に蒔かれた種は今度はあなただけの実りではない、あなたを通して誰かの土の上にその種を落としていくことになります。この100粒の種が更に次の季節には1000粒へと実を結んでいくのです。

 聖書の他の箇所に「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(コリント人への手紙第二 9章6節)とあります。
 私の好きな画家にミレーという人がいます。この聖書の箇所を絵にした『種を蒔く人』という絵では、農夫がまだ日が昇る前の朝焼けの中で大きく手を振って種を蒔きます。まだ先が見えない暗がりの中で今蒔いた種がいつか芽を出すことを信じて、力強く足を大幅で一歩一歩進めていきます。

 イエス様は今日もこの農夫のように、私たちの現実に聖書のことばの種を蒔いてくださるのです。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」と聖書のことばにあるように、私たちの人生に豊かに実を結ぶことを期待して、信じて、今日も大きく手を振って、私たちの心の隅々にまで聖書のことばの種を蒔いてくださる。
 ですから私たちもこの聖書のことばの種を豊かに実らせ、隣の土地に種がこぼれるほど、溢れるほど実りを待ちたいと思います。

 もし今日あなたの心が道端のように踏み固められていたとしても、イエス様の鍬が入れられていくとき、岩は取り除かれ耕され、良い地にしてくださるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.1放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種⑤ / 大嶋重徳

2025年05月09日 | Weblog

2025/1/31放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は、聖書のルカ福音書8章から、種を蒔く人の例えから、聞くことについて一緒に学んでいます。

 イエス様が教えてくださった良い聞き方について昨日も学びました。

 二つ目のことは、聖書のことばの種をしっかりと守り、忍耐する聞き方だとイエス様はおっしゃいました。
 蒔かれた聖書のことばをしっかりと自分の心のなかにまず守るのです。心の真ん中にしっかりと抱きしめておくことです。守るとは地味なことかもしれません。攻めているわけではない。しかし自分の人生の中心がしっかりと守られているからこそ私たちは外に出ていくことができるのです。

 さらにイエス様は、忍耐する聞き方をしなさいと言われました。私たちの生きている日常には私たちの心を攻め立ててくる誘惑があります。疲れ果ててしまうような毎日の戦いがあります。もうこの誘惑に負けてしまった方が楽なのではないかと思います。犯してしまいやすい自分の罪に流されてしまった方が楽なのではないかと思います。道端に蒔かれた種のように、鳥が私たちの心に蒔かれた種を、聖書のことばをついばんで持っていこうとする。

 そこで、良い地の聞き方とは、蒔かれた聖書のことばを持ち去られないように、うずくまるようにして種を守るのです。忍耐して戦うのです。思い通りにならない毎日の中で、蒔かれた種が芽を出し、葉を広げ、花を咲かせ、実を実らせることを待つのです。聖書のことばの約束が実現するまで、聖書のことばを自分の心に守り、忍耐しながら待つ。
 いつ芽が出るのか不安になることがあるでしょう。もしかしたらこの種は芽が出ないのではないかという気持ちになることもあるでしょう。しかし神のことばは必ず実現します。聖書の中の約束に、「彼に信頼する者は失望することがない」とあります。

 今日、あなたが花を咲かせ実が実るまで忍耐していることは何でしょうか。その忍耐は決して無駄にはなりません。良い聞き方をしているあなたの心の種は、あなたの心の真ん中で温かい土に包まれて芽を出す準備をしているところです。

 この番組で聞いた聖書のことばを、あなたの心の真ん中に守っていてください。そうするとき、あなたは必ず豊かに実を結ぶ時を見ることが出来るのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.31放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種④ / 大嶋重徳

2025年05月08日 | Weblog

2025/1/30放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は、聖書のルカ福音書8章から、種を蒔く人の例えから聞くことについて一緒に学んでいます。 
 昨日まで、イエス様が教えてくださった間違った聞き方についてお話ししてきました。

 では良い聞き方とは一体何でしょうか。

 良い地とは土の柔らかな土地のことです。人が踏みしめたような道端で固くなっている土が耕され、堅い岩地が砕かれ、取り除かれている地面です。茨が引き抜かれて、陽の光が土の上に燦々(さんさん)と届いている土地のことです。

 そのような土地の土は柔らかい土です。枯れ葉などが肥料となり、堆肥がバクテリアの活動を活発にし、土がふかふかになっている土地です。鍬で耕され、隙間が十分に空いている土地です。手を土にいれると温ったかい。種である聖書のことばが入ってくることを心待ちにしているような土地です。種を蒔くと、鍬に耕されて出来た隙間にスッと土の奥深くに種は入っていきます。肥料によって出来たふかふかな土ですので、スッと種から根っこが生え出やすくなっているのです。

 イエス様は、謙虚で柔和な心で聞きなさい、とおっしゃいました。良い地とは謙遜に聞く心のことです。高ぶって上から目線で「どうだ、聞いてやろう」と聞くのではなく、誤解と偏見は一旦脇に置いて、「ああ自分に語られている」とまっすぐに聞くことです。そして、「これは自分に言われていることかもしれない」と、自分の現実に思い当たる聞き方をすることです。イエス様はそのような謙遜な聞き方こそ、柔和な聞く心を生み出していくとおっしゃいました。

 良い聞き方とは、自分の中にある堅い岩の塊に気づき、引き抜かなければならない茨の生活があると気づき、認める謙遜な心です。神のことばの種がスッと入っていくのです。多少の草や茨が生えてきたとしても、スッと抜きやすい柔らかさがある土です。

 しかし良い地になるのには、茨が引き抜かれると「痛い」と思う出来事が起こってくるでしょう。神様は固い固い石のような心を諦めずに砕こうとされるのです。良い聞き方とは、悔い改めることをやめない心で聞く聞き方でしょう。今日も神のことばである種を蒔く神様は、私たちが変わることを諦めてはおられません。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.30放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種③ / 大嶋重徳

2025年05月07日 | Weblog

2025/1/29放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は、聖書のルカ福音書8章の種まきのたとえを通して、聞くことについて一緒に学んでいます。
 種は神様のことばです。そしてそれを受け入れる土地は私たちの心のことです。

 イエス様は間違った聞き方について話されました。

 三つ目の間違った聞き方は、茨(いばら)の生えた心で聞くことです。聖書のことばを心に受け入れ、やがて根が張り、芽も出ます。
 しかし茨のようなものが自分の人生には多く生い茂っている。花を咲かせ実を結ばせようとしたとき、茨が邪魔をしてきます。

 茨とは生活における思い煩いです。お金の問題や自分の欲望に耽(ふけ)る時間が生活に覆いかぶさっていると、神のことばを聞いても、「そうは言ったって」と生活の不安が心を占めてきて、心が鬱状態になっていきます。何よりやめられない悪習慣、止められない思いが頭を覆い尽くすとき、せっかく聞いた聖書のことばが成長していくことを邪魔してしまっているわけです。

 この聖書のお話を準備しながら、自分の聞き方はどうだろうかと考えていました。私は聖書のお話をする側ですが、一番最初に聖書のことばを聞く者でもあります。このたとえ話をじいっと聞きながら、自分の中の道端の心、岩地の心、茨の心に気付かされました。自分の中にある聖書のことばを素直に聞こうとしない心が見つかります。聖書のお話を準備しながら、「このたとえ話を語れる生き方をあなたはしていますか?」とイエス様の鋭い刃が自分の生活に突き刺さってくるのです。素直ではない罪にまみれた心でも、それをまだ砕かれたくはない。
 しかし聞く耳を持った良い聞き方とは、イエス様が打ち込まれる神の鍬(くわ)を受け入れることです。岩地のような心が砕かれ、身が軋(きし)むような思いをするとき、そこから逃げてはいけません。まっすぐに神のことばを受け止めるのです。聖書のことばを語る者こそ誰よりも砕かれていかないといけないのだと教えられました。

 神様は今週、このたとえ話を通してあなたを砕かれ耕そうとされていることは何でしょうか。最初はそれが痛いかもしれません。
 しかしこのことばを受け止めるとき、種が奥深くに入り、根っこが地面の奥深くに伸びてゆく良い地になっていくのです。良い地に蒔かれた種とは、砕かれた心で聞くことです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.29放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種② / 大嶋重徳

2025年05月06日 | Weblog

2025/1/28放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は聖書のルカ福音書8章から、種まきのたとえを通して、聞くことについて学んでいます。
 イエス様は間違った神のことばの聞き方について語られました。蒔かれた種とは神のことば・聖書のことばを意味します。そして、それを受け入れる土地は私たちの心です。

 一つ目の間違った聞き方は、道端のような聞き方です。道端にある種は人に踏みつけられやすく、鳥にすぐに持っていかれてしまいます。聖書のことばをほったらかしにする聞き方です。このラジオのメッセージもぼんやりと聞く。他の事を考えていることだってあるでしょう。手元に聖書のことばは届いている。しかし放送が終わると、さーっと聖書のことばはどこかへ持ち去られてしまっている。一瞬だけ心にぐさっと示されても生き方は変わらない。悪魔にひょいっといつも神のことばを持ち去られてしまう聞き方です。

 二つめの間違った聞き方は、岩のような心で聞く聞き方です。岩の上にも薄い土があります。一旦、心の内側には神のことばが入ってきます。しかしその心の中には堅い岩盤が隠れている。自分の頑なな価値観、強いこだわり。最初は「本当にそうだ・・・」と聞くのです。ある程度までは都合よく聞きます。「いいですねえ、自分に語られているようです」と思う。しかし自分の岩地のような心がやっぱりあって、自分の都合の悪い部分に触れるところは聞きません。
 私たちには堅い岩地のような、聖書のことばを拒む心があります。子どもの頃はもっと素直に聞けていたかもしれない。しかし人生の傷が神のことばを信じ切ることに不安を覚える。そして聖書のことばは心の奥深くに根を張ることが出来ません。

 今日あなたの心は、人が堅く踏みしめた道端のような心でしょうか。あるいは岩地のような心でしょうか。自分の中にある岩地とは何だろうかと考えて頂きたいと思います。
 そうすると堅く踏みしめた道や岩地のようになっている心をほぐそうと神様の大きな手が土の中に入って来ようとしてくることがわかってきます。イエス様は、あなたの心の中にみことばを届けたい、と今日もこの番組で聖書のことばの種をあなたの心に蒔いてくださっているのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.28放送でのお話しより )


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■良い地に蒔かれた種① / 大嶋重徳

2025年05月05日 | Weblog

2025/1/27放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 私の担当する今週は、聖書のルカ福音書8章の、種を蒔く人のたとえから学んでいこうと思います。

 イエス様はたとえ話を始められる冒頭に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。

 「聞く耳を持つ」ということは、ただ聞こえているということとは違います。例えば音楽のコンサートを聴きに行ってですね。全員がその演奏を聴いてその音楽が分かる訳ではありません。
 私が子どもの頃、父親が私に音楽的な教養をつけて欲しいと思ったのでしょう、家族でクラッシクのコンサートに行きました。しかし始まってすぐですよ、隣を見ると父は最初から最後までずっと眠りこけていました。
 ある人にとって涙が出るほどの感動的な演奏も、ある人には眠りに誘われる音にしか聞こえないということがあります。
 中には批評家のような厳しい聴き方をする人がいるでしょうが、しかしその批評家がその演奏を聞き取るふさわしい優れた聴き方ができるかというとそうでもありません。

 つまり、「耳さえあれば、どんな音楽でも良いかすぐ分かる」とは言えないわけです。良い音楽を聴くためには、良い音楽で自分の耳を鋭くしていることが大切です。音楽の仕組みや演奏について勉強すると、さらに聴き方は一段と深まります。また自分で演奏すると、今までの聴き方では聞こえなかったメロディーが聞こえてくる。するとその演奏家の表現したかったものがより鮮明に聴こえてくるのです。少しでも耳を鍛え、聴こえる耳にする備えをして聴く人と、何の準備もしていない人とでは、同じものを聴いているようで同じものを聴いてはいないのです。

 料理にも作り手の意図があります。自分で料理をする人は自分の前に出された料理にどれだけの時間をかけられ、どれだけ素材を探し、今日のためにどんな思いをしてくれたのかがすぐ分かります。そこで「絶妙な火の通り方ですね」「皮目がパリッと焼けてます」と言える舌を持つならば、その料理を作った人はとっても嬉しいでしょう。

 私たちはイエス様の語ろうとされるたとえ話を聞くにあたって良き聴き方を学びたいと思います。聖書のことばを聴く耳が、この番組で研ぎ澄まされて頂きたいと思います。そして語り手のイエス様の暖かい意図や細やかな思いを汲み取れるようになりたいのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.27放送でのお話しより )


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■人の子を上げる / 板倉邦雄

2025年05月03日 | Weblog

2025/1/25放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「人の子を上げる」という題でお話ししましょう。

 では、初めにヨハネの福音書8章28節を口語訳聖書で朗読します。

 「そこでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。』」

 まず、「人の子を上げる」というイエス様のことばはどういう意味でしょうか。それは今イエス様の教えを聞いている人々が、人の子であるイエス様を十字架に上げてしまう、という意味です。イエス様を十字架で殺害して初めてイエス様が何者であったかが分かるのです。 
 何よりも、イエス様が神の独り子であったことが分かります。イエス様が私たちにとっていのちのパンであり、いのちの光であることが分かってくるのです。また、イエス様が自分に逆らい、破廉恥な言動を忍び、裁くことをしなかった理由が分かるのです。
 「わたしは自分からは何もせず、ただ父なる神が教えてくださったままを話していたことがわかってくるだろう」と言っているのはそのことではないでしょうか。父なる神は真実な方であることが分かってくるでしょう、とイエス様は語っているのです。

 そして父なる神様についてこう付け加えました。「わたしを遣わした父は、人の子であるわたしと一緒におられる。わたしは、いつも父なる神のみこころにかなうことをしているから、父はわたしをひとり置き去りになさることはない。」
 イエス様の父なる神様への信頼が手に取るように分かりますね。

 さて、「人の子を上げる」ということばはヨハネ福音書の3章14節と15節で、イエス様の口からニコデモに向かって語られていました。
 「ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは人の子を信じる者がすべて永遠のいのちを得るためである。」

 人の子であるイエス様が十字架の上に上げられ死なれることの目的は何でしたか? それは私たちの罪のために罪のない人の子イエス様が身代わりになってくださった。私たちは十字架に上げられた人の子イエス様をただ仰ぎ見て信じることによって、永遠のいのちに生きることができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.25放送でのお話しより )


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■イエスは、誰であるか / 板倉邦雄

2025年05月02日 | Weblog

2025/1/24放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「イエスは、誰であるか」という題でお話ししましょう。

 人々はイエス様に尋ねました。「あなたはいったいどういう方ですか?」
 イエス・キリストに対する質問は現代に至るまで続いているのです。
 イエス様はいったい何者ですか? ヨハネ福音書の8章25節からです。

 イエス様は尋ねた人々に答えます。
 「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。」

 これまでイエス様は、ご自分が何者であるかを人々に語ってきました。
 まず6章で、「わたしは天から下ってきたパンである」とご自分を紹介しました。
 アンパンマンのようにイエス様はご自分のいのちを私たちに与え、私たちに生きる者としてくださるのです。

 もう一つは、イエス様は8章で人々に向かって、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」とご自分が何者であるかを語りました。
 いのちのパンであるイエス様はいのちの光でもあります。暗闇の人生を導き守る方ですね。

 しかし、人々は聞く耳を持っていませんでした。もし聞く耳を持っていれば、イエス様は誰であるかを理解できたでしょう。

 イエス様はこう続けて言われました。
 「わたしには、あなたがたに言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方、神は真実であって、わたしはその方から聞いたことを世に告げるのです。わたしはあなたがたをさばかない。わたしをこの世に遣わした神は真実な方であって、わたしはこの神様の言われることを世にいるあなた方に伝えるだけです。」と語りました。

 さて、最初の質問に戻りましょう。イエス様とは誰であるのか。
 ある人は、イエス様は世界の四大聖人の一人です、と言います。ある人は、イエス様はキリスト教の教祖です、と答えるでしょう。
 では、ラジオの前の皆さんはどうお答えになるでしょうか? イエス様はいったい誰ですか。私にとって何者でしょうか。
 ヨハネの福音書を学んでいる私たちは、イエス様は何者であるかを知っています。イエス様は神のいのちを持ったパンであり、私たちを養ってくださいます。そしていのちの光でもあります。私たちの人生を守り、導いてくださる神様ですね。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.24放送でのお話しより )


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