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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■人の子を上げる / 板倉邦雄

2025年05月03日 | Weblog

2025/1/25放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「人の子を上げる」という題でお話ししましょう。

 では、初めにヨハネの福音書8章28節を口語訳聖書で朗読します。

 「そこでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。』」

 まず、「人の子を上げる」というイエス様のことばはどういう意味でしょうか。それは今イエス様の教えを聞いている人々が、人の子であるイエス様を十字架に上げてしまう、という意味です。イエス様を十字架で殺害して初めてイエス様が何者であったかが分かるのです。 
 何よりも、イエス様が神の独り子であったことが分かります。イエス様が私たちにとっていのちのパンであり、いのちの光であることが分かってくるのです。また、イエス様が自分に逆らい、破廉恥な言動を忍び、裁くことをしなかった理由が分かるのです。
 「わたしは自分からは何もせず、ただ父なる神が教えてくださったままを話していたことがわかってくるだろう」と言っているのはそのことではないでしょうか。父なる神は真実な方であることが分かってくるでしょう、とイエス様は語っているのです。

 そして父なる神様についてこう付け加えました。「わたしを遣わした父は、人の子であるわたしと一緒におられる。わたしは、いつも父なる神のみこころにかなうことをしているから、父はわたしをひとり置き去りになさることはない。」
 イエス様の父なる神様への信頼が手に取るように分かりますね。

 さて、「人の子を上げる」ということばはヨハネ福音書の3章14節と15節で、イエス様の口からニコデモに向かって語られていました。
 「ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは人の子を信じる者がすべて永遠のいのちを得るためである。」

 人の子であるイエス様が十字架の上に上げられ死なれることの目的は何でしたか? それは私たちの罪のために罪のない人の子イエス様が身代わりになってくださった。私たちは十字架に上げられた人の子イエス様をただ仰ぎ見て信じることによって、永遠のいのちに生きることができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.25放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■イエスは、誰であるか / 板倉邦雄

2025年05月02日 | Weblog

2025/1/24放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「イエスは、誰であるか」という題でお話ししましょう。

 人々はイエス様に尋ねました。「あなたはいったいどういう方ですか?」
 イエス・キリストに対する質問は現代に至るまで続いているのです。
 イエス様はいったい何者ですか? ヨハネ福音書の8章25節からです。

 イエス様は尋ねた人々に答えます。
 「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか。」

 これまでイエス様は、ご自分が何者であるかを人々に語ってきました。
 まず6章で、「わたしは天から下ってきたパンである」とご自分を紹介しました。
 アンパンマンのようにイエス様はご自分のいのちを私たちに与え、私たちに生きる者としてくださるのです。

 もう一つは、イエス様は8章で人々に向かって、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」とご自分が何者であるかを語りました。
 いのちのパンであるイエス様はいのちの光でもあります。暗闇の人生を導き守る方ですね。

 しかし、人々は聞く耳を持っていませんでした。もし聞く耳を持っていれば、イエス様は誰であるかを理解できたでしょう。

 イエス様はこう続けて言われました。
 「わたしには、あなたがたに言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方、神は真実であって、わたしはその方から聞いたことを世に告げるのです。わたしはあなたがたをさばかない。わたしをこの世に遣わした神は真実な方であって、わたしはこの神様の言われることを世にいるあなた方に伝えるだけです。」と語りました。

 さて、最初の質問に戻りましょう。イエス様とは誰であるのか。
 ある人は、イエス様は世界の四大聖人の一人です、と言います。ある人は、イエス様はキリスト教の教祖です、と答えるでしょう。
 では、ラジオの前の皆さんはどうお答えになるでしょうか? イエス様はいったい誰ですか。私にとって何者でしょうか。
 ヨハネの福音書を学んでいる私たちは、イエス様は何者であるかを知っています。イエス様は神のいのちを持ったパンであり、私たちを養ってくださいます。そしていのちの光でもあります。私たちの人生を守り、導いてくださる神様ですね。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.24放送でのお話しより )


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■自分の罪のうちに死ぬ / 板倉邦雄

2025年05月01日 | Weblog

2025/1/23放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「自分の罪のうちに死ぬ」という題でお話ししましょう。

 人は必ず死ぬ者です。ですから今をどう生きるかが大切なのです。
 では人はなぜ死ぬのか。私たちが死ぬ時は病名が付いて死にます。ですから病気で死ぬと考えます。
 ところがイエス様は、私たちは自分の罪のうちに死ぬであろうと言われました。ヨハネ福音書8章21節からです。

 さてイエス様は神殿の賽銭箱のそばに集まった人々に向かって言われました。
 「わたしは去っていく。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、来ることができない。」

 するとユダヤ人たちは言いました。
 「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あなたは自殺でもするつもりですか?」

 するとイエス様はユダヤ人たちにこう答えたのです。
 「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上から来た者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」

 人は三度死ぬ、と聖書は教えています。罪深い生活をしていますと生きた屍のようになり、生きているのは名ばかりで実は死んでいる人生です。
 次に肉体の死があります。
 三度目は永遠の死が待っている、と聖書は教えています。

 私たちが死ぬのは病気ではなく、罪と罪深い生活によって死ぬのです。「罪の支払う報酬は死である」(新約聖書ローマ6章23節)と聖書は教えています。しかし、この世の者ではなく、天から来た者であるイエス・キリストを信じ繋がった人は、罪のうちに死ぬことがなく、永遠のいのちを持つことができます。
 
 「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」と聖書は約束しています。

 聖書のことばです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネの福音書3章16節


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.23放送でのお話しより )


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■イエスの証は真実である / 板倉邦雄

2025年04月30日 | Weblog

2025/1/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「イエスの証(あかし)は真実である」という題でお話ししましょう。

 主イエス様はご自分のことを「世の光」と紹介しました。
 「わたしは世の光です。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」(ヨハネ8章12節参照)
 すなわち、ご自分を証ししたことになります。

 それに対し、イエス様に反対していたパリサイ派の人々がイエス様に言いました。
 「あなたは、自分のことを証ししている。あなたの証しは真実ではない。」

 この批判に対するイエス様の答えを今日見ていきましょう。ヨハネの福音書8章13節からです。

 まず、イエス様の証しは真実であることの理由は、イエス様は自分がどこから来て、またどこへ行くのかを知っていたからでしょう。
 目的地のない旅ほど空しく淋しいものはありません。しかしイエス様は自分がどこから来てどこへ行くかを知っていましたので、ご自分が何者であるかを知っていました。すなわち、「わたしは世の光です」と自分を証しすることができたのです。

 次に、イエス様の証しは真実であるもう一つの理由は、イエス様の裁きは正しかったからです。
 なぜならイエスは一人ではなく、「わたしを遣わされた方」父なる神がイエス様と一緒にいたからです。
 モーセの律法でも「二人の証人の証言は信じるに値する」と言われています。イエス様の証しは父なる神から来ていたからです。
 これほど真実な証しはありません。

 そこで反対者は笑いながらイエス様に尋ねました。「お前の父はどこにいるのか。」

 それに対してイエス様は答えます。
 「あなたたちは、わたしも、わたしの父も知らない。わたしを知ればわたしの父も知るだろう。」

 反対者はさらに、「あなたの父はどこにいるか?」とイエス様に尋ねました。
 しかし彼らは目の前に父なる神の子キリストがいるのを見ているのに見えないのです。
 何という傲慢さ、何という無知でしょうか。身近にいる息子を軽蔑する人々は息子の父親の元へ行くことはできません。

 イエス様は言われました。
 「わたしは道であり、真理であり、いのちである。だれもわたしによらないでは、父の元に来ることはできない。」と。

 いのちの光である神の子イエス様に手を取られて天の父の元に私たちは行くのです。
 イエス様の証しは真実であり、真理なのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.22放送でのお話しより )


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■わたしは世の光である / 板倉邦雄

2025年04月29日 | Weblog

2025/1/21放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は、「わたしは世の光である」という題でお話ししましょう。

 ヨハネの福音書の特徴の一つは、イエス様がご自分を様々なものに例えて紹介していることです。今日は、「わたしは世の光である」とイエス様はご自分を紹介します。ヨハネの福音書8章12節です。

 イエス様はご自分を「世界の光」に例えました。
 光は1秒間に30万キロ走ります。光によって昼と夜とが分かれます。光は私たちにとって、安全と健康を与えてくれます。また、暖かさや美しさを感じさせてくれますね。何よりも、光はいのちの力を注いでくれます。

 イエス様は世の光ですから、私たち信じる人々に安全と健康を約束し、恵みの暖かさによる喜びや希望や感動を与えてくださいます。そして何よりもいのちの光、未来や死と死後まで照らして突き抜ける光です。

 次にイエス様は続けて言われます。
 「わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう。」

 闇の特徴は迷いと不安でしょう。山のキャンプでナイトハイクをした時、暗闇の中で迷い、不安になった経験がありました。

 第二に闇は危険と災いでしょう。停電になり、街灯も消え、真っ暗な道を自転車で帰宅した時、障害物にぶつかったことがありました。

 そして何よりも、闇は生きとし生けるものを吞み込むような死の力を持っていないでしょうか?

 しかし、イエス様を信じて従う者は決して闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つのです。

 「この世は闇」とよく言われますが、この世が不義と不潔な闇の状態だからでしょう。神の正義と神の聖潔から離れているからでしょう。神を離れたこの世は「闇の世」であると聖書は呼んでいます。

 しかしイエス様は世の光です。ですから、イエス様を信じ従う人は決して闇の中を歩くことがありません。私たちの人生の足元を照らす光です。私たちの人生の道を照らす光でもあります。慰めと希望の光です。死と死後の闇をも照らす光ではないでしょうか。
 そして永遠のいのちへと導く光なのです。

 聖書のことばです。
 「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です」  詩篇119篇105節


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.21放送でのお話しより )


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■わたしもあなたを罰しない / 板倉邦雄

2025年04月28日 | Weblog

2025/1/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は、「わたしもあなたを罰しない」という題でお話ししましょう。
 前回のお話を覚えていますか? イエス様が、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの姦淫の女に石を投げつけるがよい」と言われました。今日はその続きです。ヨハネの福音書8章9節からです。

 さて、このイエス様のことばを聞いていた群衆は、年寄りから始めて一人びとり出て行き、罠を仕掛けた政治指導者も宗教指導者もいなくなり、ついにイエス様と姦淫の現場で捕まった女だけが残りました。
 イエス様のことばは闇に輝く光のようですね。人々の良心を照らし、一人一人を罪人に置いたのです。私たちに見えないものを見えるようにしてくださいました。

 かがんで地面に物を書き続けておられたイエス様はゆっくりと身を起こされ、独り残った女に言われました。
 「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか?」

 女は言いました。「主よ、だれもいません」

 大きな石を取り除けると虫たちが一斉に光から逃げてゆくように、良心を咎められた人々はいなくなりました。心のやましい人はイエス様のことばにいたたまれなくなったのです。特に、イエス様を罠に掛けようとした人たちは慌てふためいて立ち去って行きました。
 すなわち、この女の罪を裁く人は誰もいなかったのです。私たちの罪を最終的に裁くことができるのは天の父なる神様のみです。私たちの罪は天の法廷で裁かれることになります。

 するとイエス様は女に言われました。
 「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」

 イエス様は姦淫の罪を肯定しているわけではありません。今後は同じ過ちを犯さないように戒めていることからもわかります。罪を認めて、罪を改めて生きて欲しい、と女に自由と将来を与えました。

 それは主イエス様は、これからこの女の罪と罪の刑罰を十字架の上で償うからです。神の律法である石打ちの刑をこの女の身代わりとなって受けてくださいました。ですからこの女の罪をイエス様は赦すことができるのです。

 ですから私たちも、この女のようにイエス様の御前に残り、罪の赦しのことばをいただきたいのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.20放送でのお話しより )


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■「諦める」と「委ねる」 / 水谷 潔

2025年04月26日 | Weblog

2025/1/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 日本語には「諦める」ということばがあります。「諦める」といいますと、何か願ってきたことを断念すること、目的のために積み上げてきた努力をやめてしまうことなど、マイナスに受け取られがちですよね。
 しかし本来はそうではないようです。「諦める」の語源は昔のことばで「明らむ」、つまり「明らかにする」というふうに考えられています。そしてこの「諦める」は仏教の教えから来ていて、「物事の本質を明らかにすること」を意味します。その結果、自分ではどうしようもないことを事実として受けとめるわけです。ですから、「諦める」とは必ずしもマイナスではなく、理にかなった賢明な判断となる場合もあるわけです。

 実は聖書には、この「諦める」と似ているようで少し違うことばが登場するんですよね。それは「委ねる」ということばです。旧約聖書の詩篇55篇22節のことばをお読みします。

 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」

 私たちの人生は大なり小なり何かの重荷を負いながら歩んでいくようなものです。しかしその重荷がとても負いきれない場合もあります。負ってみたものの、途中から負い切れなくなってしまうこともあります。

 そのような私たちに聖書は、負い切れない重荷を、諦めて下ろすのではなく神様に委ねましょう、と語り掛けます。神様が自分に替わってその重荷を負ってくださる、と言うのです。そのようにして神様は、負いきれぬ重荷に苦しむ私たちが倒れてしまわぬよう支えてくださるのです。

 「あなたの重荷を私に委ねませんか? わたしがあなたを支えるから。」 神様は、聖書のことばを通じてそう語り掛けておられます。

 あなたの重荷を負ってくださりあなたを支えるこの神様を信じてみませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.18放送でのお話しより )


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■苦難が生み出す失われぬ希望 / 水谷 潔

2025年04月25日 | Weblog

2025/1/15放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。
 
 人生には苦難がつきもの、と言いますがどうでしょう。もし苦難の中にあっても失望せず希望を持って歩めたら、と願いませんか? 聖書はそのような希望を語っています。新約聖書ローマ人への手紙5章の3節から5節をお読みします。

 「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 聖書は、苦難さえも喜ぶ、と言っています。苦難それ自体は喜べませんが、神様を信じる者にとっては喜ばしいものを生み出すという意味で喜べる、というのです。

 まず、苦難は忍耐を生み出します。この「忍耐」ということばは、「苦しいことを我慢する」という消極的な意味ではなく、「苦難に向き合い、乗り越えていく」という積極的な姿勢を意味します。

 次に、忍耐は練られた品性を生み出します。「練られた」とは、金属の精錬に使われることばで、苦難の火によって品性が純粋になっていくことを意味します。

 最後に、練られた品性が希望を生み出します。練られた品性を持つことで、人は神様にある希望を持つことができるのです。

 さらに聖書は、「その希望は失望に終わることがありません」と約束します。

 なぜ試練は、忍耐と練られた品性を経由して、失われることのない希望を生み出すことができるのでしょう? 
 聖書は言います。

 「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 そうです。試練から希望が生み出される理由は神様の愛です。

 あなたも神様を信じ神様の愛が心に注がれるなら、苦難の中にあっても失われることのない希望に歩むことができるのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.15放送でのお話しより )


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■相槌とトンチンカン / 水谷 潔

2025年04月24日 | Weblog

2025/1/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。
 
 えー、日本語には刀をつくる刀鍛冶に由来することばが多くあります。「相槌を打つ」や「とんちんかん」といったことばはその代表と言えるでしょう。日本刀は主に二人の職人で作るのですが、師匠が槌で鉄を打つ合間に弟子が息を合わせて打ちます。これが「相槌」です。そこから、相手の話にタイミングよく応答することを「相槌を打つ」と言うようになりました。
 しかし相槌のタイミングが悪いと、「トンチンカン」と、ずれた音がします。そのことから辻褄が合わないことや間の抜けた言動を指すことば「とんちんかん」が生まれたのだそうです。大切なことは師匠と弟子の息があっていること、タイミングよく打つことのようです。

 このことは神様と人間の関係に似ています。旧約聖書の伝道者の書3章11節には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」ということばがあります。神様のなさることは信じる者にとってはベストタイミングなんだ、と聖書は語り掛けます。神様は名刀を作る刀鍛冶のように最善のタイミングで信じる者の人生に働きかけてくださいます。

 神様は聖書のことばを通じて時に叶った語り掛けをくださいます。祈ればふさわしい時に応えてくださいます。必要な時に大切な人との出会いを与えてくださいます。より豊かな人生を願ってベストタイミングで人生の転機を与えてくださいます。

 しかし、人間の側は時に「とんちんかん」です。待ちきれず勇み足をすることもあれば、タイミングを逸して後悔することもあるでしょう。それでも神様は忍耐をもって共に歩んでくださいます。共に歩もうとする者をタイミングよく「相槌」を打てる者へと成長させてくださるのです。そして、名刀を作るように素晴らしい人生を一緒に作り上げてくださるのです。

 旧約聖書 伝道者の書3章11節は言います。
 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

 ラジオの前のあなたもこの神様を信じて共に歩みませんか?


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.17放送でのお話しより )


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■救うのは、何かではなく誰か / 水谷 潔

2025年04月23日 | Weblog

2025/1/16放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、愛知県春日井市にあります春日井聖書教会・協力牧師の水谷 潔です。

 溺れている人は「誰か助けてー!」と叫びます。「何か」ではなく「誰か」に助けを求めます。山で遭難したら救急隊員。いのちにかかわる病気や怪我なら医療従事者。私たちをいのちの危機から救ってくれるのは最終的には「何か」ではなく「誰か」です。
肉体のいのちの危機を救ってくれるのは物ではなく人です。
 では霊的ないのちの危機はどうでしょう? 聖書によれば、私たち人間は神様を離れ、神様に背を向けて歩んでいるために、神様が与えようとしている真(まこと)のいのちを失っています。神様といういのちの根源と断絶しているので霊的には死の状態にあるのです。生まれてからずうっと、いのちの危機にあるわけです。

 そのために神様と共に歩む喜び、平安、希望を失っています。それらを失った私たちの心の奥底にあるのは深い孤独、恐れ、そして空しさです。そこから救い出してくださるのは「何か」でしょうか? お金、趣味やレジャー、あるいは成功や自己実現でしょうか。それらは役立つでしょうが、一時的で限界があるのではないでしょうか。いわば対処療法のようなものに思えるのです。

 聖書によれば、この霊的ないのちの危機から救ってくれるのは、やはり「何か」ではなく「誰か」なのです。
 新約聖書 ヨハネの福音書14章6節をお読みします。

 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」

 イエス様は父なる神様と私たちを結び付けてくださる「道」です。「真理」が人となられた方です。真(まこと)の「いのち」を持っておられる方です。この方を信じることによって私たちは父なる神様との関係を回復し、真のいのちをいただけるのです。

 霊的な死から私たちを救うのは「何か」ではなく「誰か」です。それはイエス・キリストです。

 あなたもイエス様を信じて、真(まこと)のいのちをいただいて、喜びと平安と希望に歩みませんか? 


 ( PBA制作「世の光」 2025.1.16放送でのお話しより )


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