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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■愛に応えて生きる / 山本陽一郎

2025年05月24日 | Weblog

2025/2/22放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 今週は私の父とのことをお話ししながら神様の愛について語ってきました。

 1年前、父は体調を崩して食べられなくなり、あっという間に天に召されていきました。
 でも、息を引き取る数日前に実家の部屋で二人で話せたのです。痩せこけた父は横になったままで小さな声でしたが、とっても大切な時間になりました。

 「父さん、昔、僕が自分の部屋で死んでしまおうとした時のこと、覚えてる?」
 「覚えてるよ」
 「父さん、ありがとう。あの時、父さんが助けてくれて、僕をずっと抱いて寝てくれたから今の僕がいるよ。僕を助けてくれて、愛してくれて、ありがとう」

 その時、横になっている父の目から、ツーッと涙が頬を伝って流れました。
 私も、あんなに素直に心の内を話せたことはなかった気がします。感極まるものがありました。
 父と子、二人で泣きました。それが地上での父との最後の会話でした。「ありがとう」と言えてよかった。

 神様と私たちの関係も同じです。「ありがとう」と言いたい。そして、その愛に応えて生きていきたいのです。

 多くの人は、神は自分とは遠い存在だと思っているかもしれません。自分のことなんか見てくれていない、と感じている人もいるでしょう。また、恐(こわ)い顔をしてこっちを見ていると思い込んでいるかもしれません。

 でも、それは全て私たちが勝手に作り上げ、思い込んでいることです。
 事実は違います。神様は本当に本気であなたを愛しておられるのです。神に愛されている事実を私たちが知ることは、人生における最重要事項です。
 テストで100点を取ったからでも多くの人から評価されたからでもない。たとえ何もなくても、傷ついていても、罪を犯したとしても、神様の愛を受け取るとき、神様に向けて方向転換をするとき、人は本当の意味で生きていけるのです。

 罪を赦されて生きるため、消えないいのちの喜びを持つため、そして本当のあなたらしく生きるために、神様の愛を受け取っていただきたいのです。

 イエス・キリストをあなたの心に迎えましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.22放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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■断腸の思い / 山本陽一郎

2025年05月23日 | Weblog

2025/2/21放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 「断腸の思い」ということばをご存知でしょうか。日常生活ではあまり使わない表現ですが、「断腸の思い」とは、はらわたがちぎれてしまいそうなほど悲しく痛ましい思いのことです。

 このことばを私が初めて聞いたのは18歳、絶望の中にいた時でした。深い悩みの淵で生きることを自分の手でやめてしまおうとした私の体を抱きかかえて、父がこう言ったのです。

 「自分の子どもがこんなに苦しんでいる姿を見るのは断腸の思いだ!」
 「それほど親として悲しく辛い」と。

 まさに父のはらわたから出てきたような、聞いたことのない響きがする声でした。その夜、父は自分の布団に、もう自分よりも大きな私を入れて一緒に寝てくれました。

 「父は私を愛してくれているんだ・・・」 ありがたかったです。不思議ですね、今でもあの時の父の頭の匂いを思い出すことができます。本当にあの夜がなかったら私は今日まで生きることはできなかったと思うのです。

 今、私自身も親になって分かります。あの頃、父が私にどれほど心を配って接してくれていたか。どんなに祈ってくれていたか。そして自分の子どもが苦しんでいるのを見て、どんなにその心を痛めていたか。父は私のことを愛してくれていたのです。

 神様が罪に苦しむ私たち人間を見て、何とかして救いたいと思ってくださるのは、そういう思いじゃないでしょうか。
 もちろん人間の尺度で神様の心は測れません。でも、人間でさえこんなに胸を痛めるならば神様はどんなに私たちのことを心配し、何とかして救いたいと願ってくれることでしょう。

 神はまさに「断腸の思い」で愛する私たちのために救いの道を用意してくださったのです。それがイエス・キリストというお方なのです。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 ヨハネの福音書 3章16節


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.21放送でのお話しより )


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■現された愛 / 山本陽一郎

2025年05月22日 | Weblog

2025/2/20放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 私には弟が一人います。実は幼い頃、私はずっと父は私よりも弟のほうを可愛がっていると思っていました。内向的だった私と違って弟はいつも愛嬌たっぷりだったので、父の笑顔はいつも弟に向けられていると感じていたのでした。
 ところが弟は弟で、ずっと「兄ちゃんは家族に気に入られて羨ましいな」と思っていたそうなんです。しかし実際には、父の愛は弟にも私にもいつも注がれていたのでした。思い込みというのはなかなか面倒なもので、真実を知ることから自分を遠ざけてしまいます。

 似たような思い込みを、人は神様に対してもやりがちです。「きっと私のことなんて神様は知らない」「失敗を繰り返す自分に神様は愛想を尽かしているだろうなぁ」「いや、そもそも神なんかいない                                                                                                                                        だろう」。そんな様々な思い込みを自分のほうでしているのかもしれません。

 私は10代の終わりごろ学校に通えなくなり悶々とした日々を過ごしていました。何をしてもうまくいかない現実の中、実は思い詰めて私は部屋で自分の命を絶とうとしたことがあるのです。
 その時、父が私を抱きかかえて懸命に助けてくれました。そして、「陽一郎、今日は一緒に寝よう」と言って、私を布団に入れてくれました。
 シングルサイズの布団に男二人が添い寝するとすごく狭い。でもその布団の中で私はとても安心したのです。父がどれだけ自分のことを愛してくれているのかが分かったからです。こんなボロボロの状態で恩知らずな息子なのに、それでも私を見捨てず自分の息子として抱きしめてくれた父。決して器用ではないけれど、その愛を現してくれたのでした。

 まさにイエス・キリストは神様の愛を私たちに現してくださいました。神に背を向けて歩んでいた私たちをこの方は愛し、救い出し、いのちを与えるために来てくださったのです。
 たとえこちら側の思い込みがあろうとも神様はあなたを愛しておられます。その事実をイエス・キリストはことばによって、生涯によって、そしてご自分の十字架によって現してくださったのです。

 ここに愛があります。愛はイエス様によって現されたのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.20放送でのお話しより )


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■あなたは愛されている / 山本陽一郎

2025年05月21日 | Weblog

2025/2/19放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 22年前、関東から遣わされて初めて岐阜県にやって来ました。私は関東、妻は関西で生まれ育ったので、初めはこの地方のことはほとんど分かりませんでした。それでも、「食料品はあのスーパーが安いよ」とか、「あの病院はね、混むけどいい先生」とか、そういう部分からいろいろと教えていただき、いつの間にか20年以上。温かく迎えてくださった教会や地域の方々に心から感謝しています。そして、神様が許してくださる限り、これからもこの地で福音を伝え続けていきたいと願っています。

 ところで、神の独り子イエス・キリストはどうしてこの世に来られたのでしょうか?  観光のため?  もちろんそうではありません。イエス・キリストはあなたを愛しているからこの世に来られたのです。

 実は聖書は「あなたは自分を好きになりなさい」とは言っていません。そうではなく「神があなたを愛してくださっている」と言っています。

 ヨハネの手紙第一 4章9節、10節
  「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 

 イエス・キリストがこの世に来られた理由がここに書かれています。イエス・キリストはただあなたを愛しているから来られたのです。 ご自分のいのちを犠牲にしてまで愛するあなたの罪を身代わりに負い、あなたを罪から救い出し、すべての罪を赦すために、十字架にかかってくださったのです。

 ここに愛があります。口先だけの愛ではありません。私への愛、あなたへの愛をイエス様は現してくださいました。神様の私たちへの愛を「見える化」して現してくださったのがイエス・キリストの十字架なのです。

 あなたは愛されています。深く愛されています。その事実をあなたにまず知っていただきたいと心から願っています。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.19放送でのお話しより )


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■罪人(つみびと) / 山本陽一郎

2025年05月20日 | Weblog

2025/2/18放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 「クリスチャンになって自分を好きになることができた。」という人によくお会いします。イエス・キリストによってもたらされる新しいいのちは私たちを決定的に変えます。

 一方で、クリスチャンになっても「自分のことを好きかどうかはわからない」と感じる人もいます。実は私自身もそうです。未だに自分の嫌な所、結構あります。
 ただ、それは別におかしいことじゃないと思うんですね。むしろ聖書は、「人間には罪がある」と語ります。自己中心や嫉妬、嘘、人を赦せない思いなど、口に出さなくても私たちの内にはモヤモヤドロドロした成分がたくさんあります。それらは私たちの罪から生まれるのです。

 「義人はいない。一人もいない。」

 これは聖書のローマ人への手紙3章10節に書かれていることばです。義人、すなわち義しい人なんて誰もいない。誰もがみんな罪を犯す存在だと言われているのです。

 でも、「あなたは罪人です」と言われて正直良い気分はしませんよね。「私、まじめに生きているんですけど!」と抵抗感を覚える方も多いと思います。何を隠そう私がそうでしたから。

 実は、聖書がいう「罪」は犯罪で逮捕されるようなことだけを指しているのではありません。罪とは、神から離れ、神に背を向けている状態です。それがキリスト教のいう「罪」なのです。

 そうするとどうなるのでしょうか。神から離れてしまっているので、本来与えられた力を十分に活かせません。いわゆる犯罪も、私たちの虚しさや憎しみ、人を愛せない現実も、そしてこの世界のいろいろな問題も、罪から生まれてくるのです。

 では、どうすればこの罪の問題を解決できるのでしょうか。諦めるほかないのでしょうか。私たちは苦しみ続けるほかないのでしょうか。

 いいえ、救いの道があります。神は私たちを愛し、手を差し伸べてくださいました! 明日から、このことについてお話しします。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.18放送でのお話しより )


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■さあ、再建に取りかかろう / 山本陽一郎

2025年05月19日 | Weblog

2025/2/17放送

 「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 山本陽一郎です。

 5年前のこの時期のことをおぼえているでしょうか。全国の店頭からマスクが消えました。新型コロナウイルス感染の拡がりが海外だけではなく国内でも確認されていった時期でした。あれから時が経ち、ようやく社会は落ち着きを取り戻しながら動き出しましたが、多くの人々が揺れ動き、傷つき迷い、確かな拠り所を見失っています。

 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは世界中を回って見聞きした結論として、「人間よ、先人に学び、歴史を自分の力とせよ」という意味のことばを遺しました。

 その意味で私たちには聖書という最高の書物があり、そこに登場する人々の生き方と信仰から多くのことを学べます。そして、困難の中でも人間に力を与えてくださる神のことばを受け取ることができます。

 イエス・キリストが生まれる400年以上前、ネヘミヤというユダヤ人が当時の超大国ペルシアで王の側近として仕えていました。
 ある時、ネヘミヤのもとに祖国の都エルサレムの城壁が廃墟となり悲惨な状況であることが知らされました。当時、多くのユダヤ人は外国に捕虜として連行され、強制的に移住させられていました。

 彼は心を痛めて嘆き、神様に祈って、王に願い出ます。「エルサレムに行って城壁を再建させてください」と。

 王の許しをもらってネヘミヤはエルサレムへ向かいました。そして同胞に語りかけたのです。「さあ、エルサレムの城壁を築き直そう」。
 その時、人々は奮い立ちました。リーダーの声によって心燃やされたのです。みんなが「さあ、再建に取りかかろう」と言って、仕事に着手したのでした。

 私たちも再建に取りかかる必要があります。あなたの心の城壁で崩れたままの所はないでしょうか。本当に今のままでよいでしょうか。ネヘミヤのように私たちも神様に祈りましょう。必ず神様はあなたの歩みを立て直してくださいます。そして、あなたの進む道を確かなものとしてくださいます。何度でもいい。今ここからでいい。さあ、再建に取りかかりましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.17放送でのお話しより )


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■影を照らす光 - 恵み / 関根弘興

2025年05月17日 | Weblog

2025/2/8放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今、多くの人の心を覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、人生を覆う影のような、雲のようなものが幾つかあると思います。

 その一つは自分に対する無価値感。二つ目は孤独感、三つ目は虚無感。四つめは罪責感。そして怒りという話をしました。

 人生はこうした黒雲や影によって覆われてしまうことが度々ありますね。

 マルコの福音書4章に記されていますが、イエス・キリストはある時、こんな例え話をなさいました。

 「明かりを持って来るのは、升(ます)の下や寝台の下に置くためでしょうか。 燭台の上に置くためではありませんか。 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」(マルコ4章21節、22節)

 こうお話しになったんです。当時の明かりは精製された油ではありませんから、ま、やたらと煙や煤(すす)が出るわけですよね。明かりをフッと消したりすると、煙がモコモコ出ます。
 ですからどのように消したかというと、升を持って来てすっぽり被せてしまうわけです。そうすると煙が外に出ないわけですね。「升の下に置く」というのは、そういう意味があるわけです。

 イエス・キリストは、すべての人を照らすまことの光として、世の光として、あなたを照らす光として来て下さいました。

 でもどうでしょう、まるで升の下に置かれたようなそんな生涯を送りました。「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ福音書1章9節 )なのに、人々はこの方を理解せず、受け入れようとはしませんでした(ヨハネ福音書1章11節参照)。

 でも、「隠れているものは必ず現れる」と語られています。イエス・キリストはまるで明かりに蓋がされているような人生を送りました。そして最後はあの十字架の苦しみを背負われたのです。しかし三日目に復活されたのです。このイエス・キリストは今も生きていて、全ての人を照らすまことの救い主として、今、私たちの前に明らかにされているのです。

 私たちは自分の人生を覆ってしまうたくさんの影のようなものを持っています。しかし、今、聖書は私たちにはっきりと伝えています。それはイエス・キリストこそあなたの人生の道を照らし、憩いを与え、救いを与えることのできるお方だと。

 暗闇は光がそこに灯(とも)ると必ず消えていきます。イエス・キリストは光なるお方として来てくださいました。この方によって、人生を覆う影は、そして黒雲は取り除かれていくのです。

 だからイエス・キリストを信じ、歩んでいきましょう。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.8放送でのお話しより )


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■人生を覆う影 - 怒り / 関根弘興

2025年05月16日 | Weblog

2025/2/7放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今、多くの人の心を覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、人生を覆う、まるで影のような、雲のようなものが幾つかあると思います。

 その一つは自分に対する無価値感。二つ目は孤独感、そして三つ目は虚無感・虚しさです。そして四つ目は罪責感。

 そして五つ目は、怒りなんです。
 私たちは不正を見るとき怒りを覚えますよね。ですから、怒り、怒ることは誰もが持っている自然な感情です。

 でも、問題は様々な怒りをどうコントロールするのか。それを間違うと人生が台無しになってしまうことがあるからです。
 
 今の時代は、すぐに切れ易い時代ですよね。ある人は自分自身に怒(いか)っています。自分の不甲斐なさを感じたのかも知れません。
 またある人は自分の今の環境に怒(いか)っています。怒るのも当然と言える状況がそこにあるのかも知れませんが、身の回りのものが全てまるで怒りの対象となってしまっていることがあるかもしれませんねぇ。
 またこれが一番多いかも知れませんが、誰かが自分にしたことに対して怒りが出てくる訳です。

 繰り返しますが、怒ってはいけないということを私は語っているのではないのです。
 でも問題は、怒りをそのままずっと心に持っていることが人生に黒雲をもたらすことになってしまうんですよ、ということなんです。

 新約聖書にこう書かれています。エペソ人への手紙4章26節
 「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」

 このように書いてあるんです。怒ることは誰にも当然あります。でも、怒っても罪へと発展させてはいけませんよ、そしていつまでも持ち越してはいけませんよ、と書かれているのです。

 そのために、自分が何に怒っているのか、ひと呼吸置いて、ぜひ考えてみてください。怒りのことばを発する前に勇気を持って、10秒くらい時間を置いてみてください。そして自分の思いを聖書の神様に正直にぶつけてみるのです。

 旧約聖書の詩篇を読むと、自分の思いをストレートに神様に訴えている箇所がたくさんでてきます。「神様。私は今、怒(いか)っています。相手を赦すことができません。この荒れ狂った心をどうぞご覧ください。」 こんな祈りを怒った時にしてみてはいかがでしょうか。神様の平安がそこに与えられていくと思いますよ。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.7放送でのお話しより )


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■人生を覆う影 - 罪責感 / 関根弘興

2025年05月15日 | Weblog

2025/2/6放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 今、多くの人の心を覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、まるで人生を覆う影のような、または雲のようなものが幾つかあると思います。

 その一つは自分に対する無価値感。二つ目は孤独感、そして三つ目は虚無感・虚(むな)しさ。そんなお話をこれまでしてきました。

 それでは四つ目は何でしょう。それは罪責感なんですねえ。
 聖書にはこう記されています。新約聖書 第一ヨハネの手紙 1章8節 
  
 「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」

 このヨハネの手紙が書かれた時代は、罪なんてことを話題にすること自体、まぁ程度の低い証拠だという風潮があったようでした。ある人は「私は罪などまったくない」、または「自分には罪の責任などない!」と言い張る人がいたようでした。それは今でも似ているかもしれませんね。

 私は牧師としていろんな所でお話をしますが、罪ということについて話をすると、いろんな反応が返ってきます。
 「関根先生、違いますよぅ。これはねぇ環境のせいなんですよ。親のせいなんですよ。学校のせいなんですよ。」と、いつの間にか責任を他に押し付けてしまい、自分の正直な姿を認めようとしないことがあります。まあ自分には罪はない、と言いたいわけですよね。
 またある人は、「罪なんて自分に何の影響ももたらしませんよ。何の害も受けないし、たとえ私が何か間違いを犯したとしても、私が全部責任を取ればいいでしょぅ? 罪なんて関係ないですよぅ」 そう言われる方もいるでしょう。

 ヨハネは、こういう人生は自分を欺いている人生なんだ、とばっさりと言ったわけです。

 人は何をどう言おうが、心の中を覗いたら罪責感があるものです。「あんなことをしなければ良かった。あんなことを言わなければ良かった」・・・ たくさんの後悔が罪責感となっていることがあります。

 聖書は、罪ということの基本的な意味は「的外れ」「ずれ」という状態なのだと教えています。ですから聖書が教える罪人というのは犯罪を犯しているという意味ではありません。神様とあなたとの関係がずれてしまっているんですよ、そしてそのズレが私たちの生活に黒雲をもたらしているんですよ、とそう教えるのです。

 ですから、罪の解決は人生の救いに繋がっていくわけです。
 イエス・キリストは救い主として来てくださいました。それは、その罪の問題の解決のために来てくださったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.6放送でのお話しより )


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■人生を覆う影 - 虚無感 / 関根弘興

2025年05月14日 | Weblog

2025/2/5放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。

 今、多くの人の心を覆い、人生をつまらないものだと思わせてしまう、まるで人生を覆う影のような、また雲のようなものが幾つかあると思います。

 その一つは自分に対する無価値感。そして昨日は、孤独感であるとお話をしました。そして私たちの人生を覆う影、三つめは虚無感、虚(むな)しさです。

 虚しさというのは、そこに意味とか目的を見いだすことができなくなったときに生まれてきます。人は、意味が無いと思ったら何もしたくなくなります。
 例えば私がお話をしているときに、係の人に「水をください」と頼めば係の人は水を持ってきてくれます。係の人は「きっと、あっ関根さんは話をして喉が渇いたのだろう」と思い、持ってくるわけです。
 でも私がその水を床にジャーとこぼして、係の人に「すみません。床を拭いてください」と頼んだらどうでしょう。きっと何も考えず最初は床を拭くでしょうねぇ。でも、これを繰り返したらどうなると思いますか? すみませーん、水をください。そしてジャーっとこぼして、「すみませーん、床拭いてください」 そしてまた、「水をくださーい」。ジャーっとこぼして、「床拭いてくださーい。」 
 こんなことを繰り返したら、きっとですねぇ、「最初は何か意味があるのかと思ったけど、なんだろう? 繰り返しているうちに、やっていることの意味がわからなーい!」という風になってくるわけですよ。
 で、しまいには「そんな訳の分からないことなどできませーん!」と言われてしまうでしょうね。

 そうなんです。人は、訳の分からないことは、やりたくない、できないんです。

 私たちは毎日同じような生活、日々を送っています。そうした中で時々、「生きている意味があるんだろうか、同じ事の繰り返しではないか、私が私である理由はいったいどこにあるのだろう?」、そう考えてしまうことがありますね。

 聖書は何と言っているのでしょう。詩篇121篇の1節と2節にはこう書かれています。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」

 こう記されているんです。つまり聖書は、天地を創られた神様がおられ、あなたにいのちを与えたお方が聖書の神様なんですよ、と教えているのです。
 とするなら、そこにはいのちが与えられた意味と目的が必ず存在するのです。それはずばり、「神様の愛の中に生きよ」ということなのですねえ。


 ( PBA制作「世の光」 2025.2.5放送でのお話しより )


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