2024/04/18放送
「世の光」の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は、「わたしが与えるパンは、わたしの肉である」という不思議な題でお話ししましょう。
いよいよ神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活という出来事と私たちとの関係に入ります。
それは当時、ユダヤ人たちにも理解を超えていることばでした。
「わたしの与えるパンは、世のいのちのために与えるわたしの肉である」というこのイエス様の発言が、安息日礼拝のために会堂にいた人々に波紋を広げることになりました。ヨハネの福音書6章51節からです。
そこでユダヤ人たちは互いに論じ合いました。「この人はどうして、自分の肉を私たちに与えて食べさせることができようか」
彼らユダヤ人は、依然として胃袋に入る肉のパンのことを考えていたようです。
しかし、イエス様が私たちに与えようとするいのちのパンは、私たちの霊と魂に与える、そのような質的ないのちのパンのことでした。すなわち、神のことばです。私たちに生きる力を与え、私たちに生気を与え、やる気や元気、根気の源のことばです。そこから、信仰、希望、愛が湧いてくるのではないでしょうか?
このようないのちのパンはイエス様の語ることばの中に宿っていました。肉体とは私たちにとっては、やがて朽ちゆくものであり、死にゆく素材ではないでしょうか。土の器である私たちの肉体はもろく壊れやすいものです。しかし、イエス様の肉体と魂と霊の中には永遠のいのちのパンが宿っていたのです。
ですからイエス様はこのように断言したのです。
「よくよく言っておく。人の子(わたし)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠のいのちがあり、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせるであろう。」
私が初めて教会に行った高校2年生の秋です。礼拝の最後に教会の信徒たちが皆、前の方にぞろぞろと出て行って、おもむろに小さなパンを裂いて食べ、小さな杯から赤いぶどうジュースを飲んでいました。聖餐式と呼ばれる儀式だと後で教えてくださいました。私たちのためにイエス様が十字架の上でご自分の肉体を裂いて、私たちにいのちのパンを与え、血潮を流して私たちの罪の償いをしてくださった、その出来事の事実を忘れないでおぼえるための儀式だったのです。
( PBA制作「世の光」 2024.4.18放送でのお話しより )
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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