ある本を読んでいたら、外国語に翻訳しにくい言葉として、「どうせ」が紹介されていた。
私も日常的に、よく使う言葉だ。
「どうせ駄目に決まっているのだが……」などと使う。
三省堂の「新明解国語辞典」を開いてみた。
『宿命的にそう決まっており、それ以外に選択の余地は無いことを表す。[多くは、あわてたり特に構えたりするには及ばないという気持ちで使われる]』とあった。
また続けてその用例として、『人間はどうせ(いずれにしても)死ぬのだ』と載せてあった。
古い演歌で、「流転」というのがある。
昭和12年発表なので、元の歌を聴いていたわけではない。きっと誰かのリバイバルで覚えたのだろうと思う。困ったことに、私の好きな歌だ。
そのなかの一節に、次のような詞がある。
♪ どうせ一度は あの世とやらへ
落ちて流れて 行く身じゃないか
啼くな夜明けの 啼くな夜明けの
渡り鳥 ♪
つまり、「あの世へ行くのは宿命的に決まっているのだから、いまさらジタバタ泣いても仕方があるまい」と唄っている。諦めの境地か、捨て鉢主義か。
しかし次の三番では、次のように展開する。
♪ 意地は男よ 情けは女(おなご)
ままになるなら 男を捨てて
俺も生きたや 俺も生きたや
恋のため ♪
「どうせ死ぬのが分かっているのだから、いまさらジタバタせずに、恋に生きようではないか」 と展開する。積極的な「恋」の選択。
私も日常会話で、この言葉(文法上では副詞)を比較的多用する。
私の場合、「あわてたりするには及ばない」という使い方よりも、もっと自棄っぱちに近い心境で使う例が多い。
「どうせダメに決まっているのだから、ダメでもともと、やっちまおうではないか」、となる。
諦観に基づいた静かな闘志より、むしろ破壊的な行動の時に使うようだ。
この副詞の使用例の範囲内なのか、それとも逸脱しているのか、私には分からない。
私の性格のなせる次第なのかもしれない。
いずれにしても、私はこの「どうせ」が好きだ。
山茶花やどうせ散る身のほの明かり 鵯 一平
別館において、写真俳句の「到るところ青山」を開いております。どうせたかが知れた私の写真俳句なのですが、ぜひともご来館下さいませ。
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