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kan-haruの日記

小さな旅(6) 矢切の散歩道(野菊の墓) その1

2006年06月27日 | 小さな旅
6月10日は、うす曇で雨の心配はなさそうなので一週前の旧古川庭園に引き続き、小説伊藤左千夫ゆかりの「野菊の墓」で名が売れてる矢切周辺を散策してみました。
矢切の散歩道は、東京から出かける場合には京成柴又駅から帝釈天を通り、江戸川を矢切の渡しで渡り、野菊のこみちを経て野菊の墓文学碑に至るのが一般ですが、今回のコースは、自宅から京浜急行、都営地下鉄、京成電鉄押上線、北総電鉄の4社線を乗り繋いて北総電鉄の矢切駅をスタートし、西蓮寺の野菊の墓文学碑を見て、江戸川左岸堤防上の小公園から土手道を散策し、里見公園の見頃のばらを観賞後、県道に出てバスで矢切駅に戻り帰路につきました。

矢切駅をスタート、矢切神社へ
北総電鉄は、京成電鉄の高砂駅から次の新柴又駅を過ぎると江戸川を渡り千葉県に入り、しばし田園地帯を進み、高架線のままトンネルに入るとすぐの所が矢切駅です。トンネル内の駅改札を出ると、駅構内に「矢切の渡し」に使用された渡し船が展示してありましたが今回は、渡し船を利用しないで、江戸川左岸沿いの矢切周辺の一周コース(散策地図の赤印線)を散策しました。
矢切駅前からは、県道松戸市川線を北に向かい下矢切の交差点を左折して暫らく進むと、突き当たりが矢切神社です。矢切神社は、昔の矢切村の鎮守で学業、健康の神様で、お賽銭を上げて参拝しましたが、神社境内はひっそりとしていました。

矢切の地名をWebで調べてみると、矢切は谷の多い所で地形から谷の切れた所を「谷切れ」と呼び習わし、それが「矢切」となったともあり、土地の俗説として、北条、里見の戦いで、里見が矢を使い尽くして敗れたので、矢が切れたことからなどの説が地名に結びついていると書かれております。また、下矢切、矢切神社の石塔には、元文五年(1740年)下矢喰村...とあり、矢喰も地名として使われていたとのことです。

矢喰村庚申塚
矢切神社を後にして進むと、三叉路の角が矢喰村庚申塚です。
いくつかの石像が建っていてその中央に青面金剛を主尊とする、庚申塔があります。碑には寛文8年(1668年)の銘があり、1988年12月に松戸市の有形文化財に指定されています。

「国府台の合戦」に因んだ庚申塚名「矢喰」の由来を説明した石碑も建っています。
矢喰村庚申塚の由来の石碑の大意は、「矢切が北条、里見の国府台合戦の主戦場となり戦没者が一万余、家は焼かれ逃げまどい一家離散の敗残の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子へ、子から孫に言い伝えられ、江戸時代中期に二度と戦乱のないよう、やすらぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み、朝夕お祈りをしてきました。先人達の苦難と生きる強さを知り、四百年前の遺跡と心を次の世代に伝えるため、この塚をつくります。」とあります。

西蓮寺の野菊の墓文学碑
矢喰村庚申塚から緩やかに道を下って行くと道路上に歩道橋が見え、道路右の石段を登って上がった所が高台の「野菊苑」で、江戸川を見晴らす展望台となっています。
展望台から、道路上に架かっている歩道を渡ると西蓮寺で、裏境内に野菊の墓文学碑があります。
・西蓮寺の野菊の墓文学碑 (拡大写真)
野菊の墓文学は、小説の3ヶ所から一つの文に構成して碑文としています。
小説のなかに、「村外れの坂の降くちの大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。」とあるのが、即ちこの文学碑のある場所です。樹齢約六百年の大きな銀杏の樹は、西蓮寺の入り口にありましたが、何年か前に切られて現在はありません。
・伊藤左千夫の短歌
   牛飼が歌よむ時に世のなかの
   新しき歌大いに起る
伊藤左千夫が、明治33年1月はじめて正岡子規を訪問して入門し、その短歌革新の思想と運動に共鳴して詠んだ代表作で、この歌には、牛飼の歌人と自ら称した左千夫の歌に対する気概がこめられています。
子規の没後、長塚節、蕨真等と発行した根岸派の機関紙「馬酔木」「アララギ」の主導的地位に立ち、島木赤彦、斎藤茂吉、吉泉千樫、中村憲吉、土屋文明その他の歌人たちを育成しました。

・野菊
小説「野菊の墓」には、政夫が「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子は「政夫さんはりんどうのようだ」という記述があります。
野菊という花は山野に咲く数種の菊を総称しているだけで"野菊"という名の花はないようです。小説の野菊が具体的にどの花を指すのか興味がそそられます。
・歌碑
野菊の墓文学碑の両脇の花壇には、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクやリンドウの苗が植えられています。その脇にある歌碑は、市内で印刷会社を経営する高山光江さんが、市川市在住の姉美恵さんを数年前に亡くしました。高山さんは平成13年春に所属している東京中小企業家同友会が自主製作した映画を市民会館でチャリティ上映会を成功させ、その時の収益金の残額を野菊とリンドウの植裁に充てました。子宝に恵まれなかった美恵さんとは「老後は仲良く一緒に・・・」との約束があった光江さんは、歌を刻んだ石碑を野菊の花壇の脇に添えられたものです。

小説「野菊の墓」の作者の伊藤左千夫は、1864年8月18日、現在の山武市殿台に伊藤重左衛門の末っ子として生まれる。30歳の時、同業者の伊藤並根のきっかけで 歌の手ほどきを受けることになり、これが左千夫と和歌の本格的な出会いとなる。左千夫は世に数々の作品を発表しているが、中でも「野菊の墓」は夏目漱石に激賞を受けたことで有名。他にも「隣の嫁」「春の湖」「紅黄緑」などの名作を残している。大正2年7月左千夫は脳出血で50年の生涯を閉じるものの、歌論において近代短歌革新の偉大な原動力となった人であると現代において高く評価されている。
小説「野菊の墓」は、インターネットの図書館、青空文庫からダウンロードして読むことができます。
<続く>

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