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kan-haruの日記

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5

2010年06月28日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 東京都復興記念館  

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最終回その5では、JR両国駅北側の史跡を散策しました。先ずは、歴史的に古い順に回り、勝海舟の病気平癒のため父小吉が水ごりをとった能勢妙見堂から開始します。

 両国北側散策地図

能勢妙見堂
能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、大阪能勢妙見山の別院として、1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建して、妙見堂を建立して摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したものです。妙見堂は、大震災で大伽藍が焼失し境内を縮小して1930年(昭和5年)に再建がなったが、戦災により堂が再び灰燼に帰し1968年(昭和43年)に地元町内有志の浄財により復興しました。二度の火災により宝物は焼失しましたが、妙見尊像は難をのがれて御内陣に奉安されています。境内に鴎大善神の祠があり、その能勢の黒札は、江戸時代より魔よけの御守としてとして有名です。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図

本堂に掲げてある略縁起には、勝海舟の父小吉が開運勝利のため水行をとって、祈願した経緯が書かれています。
能勢妙見堂へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み蔵前橋通りを曲がり東に向かう、三ッ目通り交差点で北に進み、本所4丁目交差点の道路を右に曲がり3つめの交差点の左角が妙見堂の山門です。

 能勢妙見堂山門(写真拡大)

山門を潜ると左に能勢の黒札を授与する鷗稲荷大善神が祭祀されています。本堂を挟んで水神堂と手水舎があります。

 妙見堂境内(:かもめ稲荷、:水神堂、:手水舎)

中央本堂に吊るされている提灯には妙見山別院とあり、本殿前には阿吽の蹲踞の姿勢狛犬があるが、奉献年や石工名など不明です。毎年2月15日には正中山大荒行像出仕水行国禱会が行われます。

 本堂と狛犬(写真拡大)

稲荷堂の左の南側の塀の近くには、勝海舟晩年の胸像が建てられています。胸像の説明板には、『勝海舟九歳の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉業を永く後生に伝えるため地元有志に仍ってこの胸像が建てられた 昭和四十九年五月十二日』と書かれてあります。

 勝海舟胸像(写真拡大)

復興記念館
・関東大震災
横網公園(墨田区横網2-3)は、もともと陸軍被服廠のあった場所で、1923年(大正11年)に陸軍から東京市が譲り受け公園の工事を進めていたおり、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、更地になっていたため本所周辺の関東大震災の被災者が大勢避難していたところに、火災旋風により火の粉が運び込まれた家財道具などに飛び火し、炎の竜巻になって瞬く間に燃え広がり、3万8千人もの人々が焼死した場所です。震災による行方不明者を除く死亡者が確認できたのが東京市内で7万4千人であるので、この狭い公園の一角だけでその半数以上のを占めた大災害でした。
震災復興記念館は、関東大震災からの復興事業を記念するために、 震災記念堂(現:東京都慰霊堂)の付帯施設として建設されたもので、 1930年(昭和5年)9月に起工し、1931年(昭和6年)4月竣工、 1933年(昭和8年)8月に東京市に寄贈されました。
震災復興記念堂内には、当初陳列室を設けて被害品などを展示する予定でしたが、1929年(昭和4年)に帝都復興博覧会の開催で多くの資料が集まり、計画を変更して記念館の建設となりました。戦後に、戦災遭難者のご遺骨が慰霊堂に奉安されましたので、復興事業に関する諸資料を保存展示するとともに、 戦災関係の資料なども陳列されています。

 「関東大震災」小冊子

復興記念館へは、JR両国駅から清澄通りを北に進み、横網公園を入ると公園の北側にあります。

 復興記念館(写真拡大)

記念館の入館は無料で、1階が震災当時の記録写真や被害写真などが陳列されており、2階には絵画・帝都復興展での展示模型・復興資料の他、戦災関係資料・写真や各地の地震災害写真などが展示されています。

 記念館展示室(写真拡大)

なお、関東大震災の各地災害写真が、国立科学博物館のネットの「国立科学博物館地震資料館」の「関東大地震写真」で公開されておりますので、ご参照下さい。公開写真の本所・深川方面の本所安田邸跡の写真は、東京都復興記念館でこの立木とトタン板をそのままに保存されています。

 復興記念館で保存の立木とトタン板[左]と大震災時の撮影写真[右]

慰霊堂
・太平洋戦争大空襲
慰霊堂(墨田区横網2-3)は復興記念館の南にあり、関東大震災の後東京市内の災害の最も悲惨であった被服廠跡に、遭難者のご遺骨を納める霊堂として建てられ、「震災記念堂」と名付けられ、毎年9月1日の震災記念日に慰霊法要を執り行ってきました。
ところが、1944年の冬から首都東京は、太平洋戦争の大空襲により終戦までに延べ102回の爆撃により、処置した遺体の数は10万5千体を越え、不明のものを加えるとさらに大きな数にのぼります。

 「東京大空襲の記録」小冊子

関東大震災は突如として起こった天災でしたが、1945年3月10日の江東、墨田、台東、中央の下町各区空襲では、2時間半の絨毯爆撃で大小18万9590個の油脂焼夷弾による、市街地無差別攻撃により8万3千人の人が生命を失いました。4月15日には大森、蒲田の城南地区が空襲を受け、5月24日には中野、杉並などが焼野原と化しました。
大森地区の空襲被害の記録は、このブログの若山武義氏の手記を掲載してありますので、ご閲覧下さい。また、「63年前の東京大空襲傷痕 浅草、本所、深川の戦跡をめぐり平和を祈願する その1~4」の慰霊堂祈願の記事や、「東京大空襲資料展 64年前の3月10日は無差別爆撃で浅草、本所、深川の下町が大惨禍」の記事を掲載してありますのでご参照ください。
戦後、都内各地に仮埋葬されていた遭難者のご遺骨をこの堂に奉安し、1951年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、空爆による被害が最も大きかった昭和20年3月10日の惨禍を偲び、毎年3月10日にも慰霊大法要が行われるようになりました。

 東京都慰霊堂(写真拡大)

・墨田電話局慰霊碑
三ツ目通りに面したNTT石原ビルの庭に、白い慰霊碑が立っています。1958年(昭和33年)3月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊しています。当時の電話交換手は主に十代から二十代の若い女性でしたが、爆撃下でも重要な通信施設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレストと呼ばれる送受器を握り続けて殉職しました。
「由来
この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました。
慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。
 昭和五十九年三月十日  墨田電話局」

 墨田電話局慰霊碑(写真拡大)

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