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kan-haru blog 2010 勝海舟の生誕記念碑のある両国公園
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今回その4では、前回までの回向院、旧国技館および吉良邸跡に続いて、両国東西に通る京葉道路と南に並行した竪川に挟まれた史跡の町を、さらに歩いて周りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/d5/3f4aa835203aa657038af8dd695193bc.jpg)
両国旧跡説明地図
小林一茶の旧居跡
小林一茶の旧居跡(墨田区緑1-3-4)付近は、1661年(寛文元年)に茶屋長意の拝領地となりましたが、すぐに上地された後の1687年(元禄元年に)に再度拝領地となりました。そして1694年(元禄7年)に御米蔵入堀常凌請負人拝領地が加わりましたが、1697年(元禄10年)に深川元町・六軒堀代地となって、初めて相生町5丁目(現墨田区緑1)と呼ぶようになりました。
小林一茶は、相生町5丁目に1804年(文化元年)から、祖母の33回忌に故郷に帰るまでの5年ほどを過ごしていました。
一茶は、1763年(宝暦13年) 信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳の時に母が亡くし、義母には馴染めず江戸へ奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころに、俳句の道をめざし、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して学びました。一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
一茶の住んでいた旧居跡へは、吉良邸跡の四つ角を南に進み、突き当りの道を左に曲がり、清澄通りを越えて行くと道路角の右側に小林一茶の標識が建っています。
標識の一面には、『一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、柏原宿(長野県信濃町)で、農家の長男として生まれました。十五歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となります。「我と来て遊べや親のない雀」の句等、人々に愛される独特な句風でした』とあり、反対の面には『彼の二十九年に及ぶ江戸生活の中で、文化元年(一八〇四)から足掛け五年間住んだこの相生町の借家が一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は、再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となります。 昭和六十五年 墨田区』とあります。
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小林一茶の旧居跡(左1・2・3・4写真拡大)
勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生しました。本名は義邦ですが、幼名および通称は麟太郎と呼ばれていました。父小吉は三男であるため、男谷家から勝家に養子に出されました。勝家は小普請組という無役で小身の旗本でした。
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勝海舟生誕の地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
勝海舟生誕の地へは小林一茶の旧居跡から戻り、清澄通りを越えて2本目の通りの4つ角を右に曲がり進むと両国公園があり、公園内の東側に勝海舟の生誕記念碑がひっそりと建てられています。
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勝海舟生誕之地(左:勝海舟生誕之地の碑、中:由来碑、右:勝海舟生誕の地説明板)
生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、24歳で赤坂へ転居するまでは本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしました。
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勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、1892年(明治25年)3月1日に東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町15番地(両国3-21-14)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育されて、11歳の時に母が亡くなりました。翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。
芥川家は代々江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
龍之助は1897年(明治30年)に江東(えひがし)小学校(両国小学校) 付属幼稚園に入り、1905年(明治38年)小学校を卒業し高等科2年を修了。東京府立第三中学校(現両国高校)に入学しました。処女作の『大川の水』は江戸情緒が残るこの地で育ったことと深い係わりを示すものです。
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芥川龍之介生育の地(本所区小泉町15番地goo明治時代地図)
芥川龍之介生育の地は、京葉道路北側のサンクスの前に「芥川龍之介生育の地」の案内があります。
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芥川龍之介生育の地(左・中・右写真拡大)
芥川龍之介が通った両国小学校(両国4-26-6)の正門前の道に面した角に芥川龍之介文学碑が建っています。碑には「杜子春」の一説が刻まれています。
『―――お前はもう仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「杜子春」より』
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芥川龍之介文学碑(左・中:文学碑、右:両国小学校を訪れた日は授業参観日でした)
時津風部屋
両国周辺には相撲部屋が17を数えます。今回の散策エリアの中にも、芥川龍之介文学碑の道沿いに並んで時津風部屋があります。最近、野球賭博恐喝で警視庁の調査が行われており、7月の名古屋場所の開催が未定であるという不祥事が発生しており、国技と称している両国相撲界隈が影を落としています。今回の散策で時津風部屋の前を通りましたので、写真のみ掲載します。
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時津風部屋(左・中・右写真拡大)
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今回その4では、前回までの回向院、旧国技館および吉良邸跡に続いて、両国東西に通る京葉道路と南に並行した竪川に挟まれた史跡の町を、さらに歩いて周りました。
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両国旧跡説明地図
小林一茶の旧居跡
小林一茶の旧居跡(墨田区緑1-3-4)付近は、1661年(寛文元年)に茶屋長意の拝領地となりましたが、すぐに上地された後の1687年(元禄元年に)に再度拝領地となりました。そして1694年(元禄7年)に御米蔵入堀常凌請負人拝領地が加わりましたが、1697年(元禄10年)に深川元町・六軒堀代地となって、初めて相生町5丁目(現墨田区緑1)と呼ぶようになりました。
小林一茶は、相生町5丁目に1804年(文化元年)から、祖母の33回忌に故郷に帰るまでの5年ほどを過ごしていました。
一茶は、1763年(宝暦13年) 信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳の時に母が亡くし、義母には馴染めず江戸へ奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころに、俳句の道をめざし、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して学びました。一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。
一茶の住んでいた旧居跡へは、吉良邸跡の四つ角を南に進み、突き当りの道を左に曲がり、清澄通りを越えて行くと道路角の右側に小林一茶の標識が建っています。
標識の一面には、『一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月、柏原宿(長野県信濃町)で、農家の長男として生まれました。十五歳の時、江戸へ出てきて苦労を重ねながら、一流の俳人となります。「我と来て遊べや親のない雀」の句等、人々に愛される独特な句風でした』とあり、反対の面には『彼の二十九年に及ぶ江戸生活の中で、文化元年(一八〇四)から足掛け五年間住んだこの相生町の借家が一番安定したすまいでした。故あって帰郷している間に他人に貸されてしまい、その後は、再び弟子や後援者の家を泊まり歩く漂泊の身となります。 昭和六十五年 墨田区』とあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/72/3d3d278eb4a0d0fbb931b17524009488.jpg)
小林一茶の旧居跡(左1・2・3・4写真拡大)
勝海舟生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生しました。本名は義邦ですが、幼名および通称は麟太郎と呼ばれていました。父小吉は三男であるため、男谷家から勝家に養子に出されました。勝家は小普請組という無役で小身の旗本でした。
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勝海舟生誕の地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
勝海舟生誕の地へは小林一茶の旧居跡から戻り、清澄通りを越えて2本目の通りの4つ角を右に曲がり進むと両国公園があり、公園内の東側に勝海舟の生誕記念碑がひっそりと建てられています。
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勝海舟生誕之地(左:勝海舟生誕之地の碑、中:由来碑、右:勝海舟生誕の地説明板)
生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、24歳で赤坂へ転居するまでは本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らしました。
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勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、1892年(明治25年)3月1日に東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれました。生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町15番地(両国3-21-14)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育されて、11歳の時に母が亡くなりました。翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになりました。
芥川家は代々江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、また一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
龍之助は1897年(明治30年)に江東(えひがし)小学校(両国小学校) 付属幼稚園に入り、1905年(明治38年)小学校を卒業し高等科2年を修了。東京府立第三中学校(現両国高校)に入学しました。処女作の『大川の水』は江戸情緒が残るこの地で育ったことと深い係わりを示すものです。
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芥川龍之介生育の地(本所区小泉町15番地goo明治時代地図)
芥川龍之介生育の地は、京葉道路北側のサンクスの前に「芥川龍之介生育の地」の案内があります。
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芥川龍之介生育の地(左・中・右写真拡大)
芥川龍之介が通った両国小学校(両国4-26-6)の正門前の道に面した角に芥川龍之介文学碑が建っています。碑には「杜子春」の一説が刻まれています。
『―――お前はもう仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。
大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「杜子春」より』
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芥川龍之介文学碑(左・中:文学碑、右:両国小学校を訪れた日は授業参観日でした)
時津風部屋
両国周辺には相撲部屋が17を数えます。今回の散策エリアの中にも、芥川龍之介文学碑の道沿いに並んで時津風部屋があります。最近、野球賭博恐喝で警視庁の調査が行われており、7月の名古屋場所の開催が未定であるという不祥事が発生しており、国技と称している両国相撲界隈が影を落としています。今回の散策で時津風部屋の前を通りましたので、写真のみ掲載します。
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時津風部屋(左・中・右写真拡大)
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