![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/34/e4f9756c50d6009219862359e56daf5b.jpg)
kan-haru blog 2010 本所松阪町跡石碑
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旧国技館跡
回向院の表門に戻り京葉通りに出ると、その東隣にはオフィス棟・住宅棟・スポーツ棟の3棟からなる複合施設で、劇場・ギャラリー・飲食店にスポーツジムなどがある「両国シティコア」があります。回向院表門付近の柵塀外側の両国シティコア内に、ひっそりと旧国技館跡の高札が建っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/a7/859f509886f82cbc07819d9a85916cf4.jpg)
現「両国シティコア」の旧国技館跡(左旧国技館跡は現在「両国シティコア」:、中:旧国技館跡の高札、右:旧国技館跡の説明板)
昔は、両国シティコアの敷地は回向院の境内であり、1768年 (明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行(その2参照)が行われていました。江戸時代の本所回向院の全国有名寺院の出開帳は人々を集め、隅田川の花火大会は夏の風物詩として江戸っ子を賑わせました。江戸が首都としての機能が高まり力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになり、谷風・小野川時代、雷電時代の人気を得て、両国は江戸相撲の代名詞となりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/30/279e822d55fc5096e98ecb07b4f41c8b.jpg)
回向院境内の勧進相撲
徳川幕府が倒れて、相撲協会は江戸時代の旧弊を改め角界の近代化に努め、それまでは相撲のできる常設館がなく、野天の仮小屋で『蒙御免晴天十日間』という立看板で回向院の境内で、順延しながらのんびりと行っていました。
常設館建設の念願は、1906年(明治39年)の年一月場所後に具体化し、同年6月に28万円の巨費を投じて回向院境内で着工して、1909年(明治42年)5月に竣工し、同年6月に開館式が行われました。
旧国技館は、日本銀行や東京駅などを手掛けた有名な辰野金吾博士と葛西万司氏との共同設計で、千五百坪の敷地内に九百六坪五合の建坪に半楕円形の鉄骨を合掌させて直径約二百尺(60m余)、高さ八十尺(24m位)の円形の屋根のデザインで、館内の北正面に貴賓席を設け、一般観覧席は土間から四階までの席がありました。国技館の命名は、開館式の案内状に「相撲は日本の国技なり」と書いたことで、当時の年寄尾車(元大関・大戸平)提案した「国技館」となりました。
![79 国技館](http://art11.photozou.jp/pub/60/150060/photo/25920825.jpg)
79 国技館 posted by (C)ヤスフロンティア
明治44年新橋堂発行(東京市京橋区出雲町1)東京名所絵ハガキ フォト蔵
東京新名所となった旧国技館は、失火により1917年(大正6年)と1923年(大正12年)の関東大震災で全焼しその都度再建されたが、1944年(昭和19年)の空襲により3度も焼失しました。 戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂として利用されていましたが、1983年(昭和58年)に解体されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/29/4e1a2345439dc5317b81165b5f5a0474.jpg)
旧国技館と日大講堂
吉良邸跡
吉良邸跡は回向院から京葉道路を東に向かい、交差点を南に折れて交差点を左に進むと、十字路の左角のなまこ壁に囲まれた本所松坂町公園が吉良邸跡(両国3-13-9)です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/56/f5ab4e3ded0aad625b5d78721c40fc8c.jpg)
吉良邸跡地図
本所松坂町公園は、1934年(昭和9年)3月地元両国3丁目町会有志が発起人となり、旧吉良邸内“吉良の首洗い井戸”を中心に土地を購入し、東京市に寄付したものです。2550坪と広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のミニチュアながら、なまこ壁が往時をしのばせます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/05/36f771e0ed9a2cdb2119dfb79db921df.jpg)
吉良邸跡(左:吉良邸跡入り口、中:赤穂義士遺跡吉良邸跡石碑、右:本所松坂町公園由来説明版)
吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の1701年(元禄14年)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/9b/8ce6cb469d7623854f20e156c876fad0.jpg)
吉良邸周辺古地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
吉良邸屋敷の表門は東側で裏門は西側に位置し、福井県のホームページ「ふくいの足跡マップ⑪吉良邸跡(隣接:福井藩本多家江戸屋敷)」によると、隣接の北側には板塀で囲った福井藩本多家江戸屋敷1650坪の拝領屋敷と、旗本土屋家屋敷2500坪の抱屋敷があり、道を挟んだ東側には鳥居家と旗本・牧野家の屋敷があったようです。
同ホームページによると、北側に隣接して屋敷を有していた、越前松平家家老の本多孫太郎の邸宅では、討ち入りの夜には初めは火事かと思ったが、火の手が見えないので討ち入りと察し、提灯を掲げお上に届け出た(出典:江赤見聞記)と資料にあるとのことです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/04/871ac1b384cda0f18f829c3b8d943656.jpg)
吉良邸隣接屋敷概略図
吉良邸跡の本所松坂町公園の入り口を入ると、西側の手前の角に松坂稲荷大明神が鎮座(写真中の幟り左方)しています。松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。写真中の小さな碑は吉良上野介義央公の追慕碑で、同右に吉良家家臣二十士の碑があり清水一学を含め吉良側は16人が事件で命を落としています。西側の奥には「首洗い井戸」があり、上野介の首を洗ったと伝えられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/d9/07c386ca71b9359ce65b8a904e115f28.jpg)
本所松坂町公園内部1(左:吉良邸跡高札、中:吉良上野公の追慕碑(左)と吉良家二十士の碑(右)、右:首洗いの井戸)
公園内部の周囲の壁には、吉良邸討ち入りに関する書類や錦絵などの資料が、額縁にして提示されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/72/47fa5e2a6234d3bad896c5b6cf51e59e.jpg)
本所松坂町公園内部2(左:公園内部の塀には四十七士に関する資料の額が提示、中:仇入り引き上げの義士団錦絵、右:)
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旧国技館跡
回向院の表門に戻り京葉通りに出ると、その東隣にはオフィス棟・住宅棟・スポーツ棟の3棟からなる複合施設で、劇場・ギャラリー・飲食店にスポーツジムなどがある「両国シティコア」があります。回向院表門付近の柵塀外側の両国シティコア内に、ひっそりと旧国技館跡の高札が建っています。
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現「両国シティコア」の旧国技館跡(左旧国技館跡は現在「両国シティコア」:、中:旧国技館跡の高札、右:旧国技館跡の説明板)
昔は、両国シティコアの敷地は回向院の境内であり、1768年 (明和5年)から76年間にわたり勧進相撲興行(その2参照)が行われていました。江戸時代の本所回向院の全国有名寺院の出開帳は人々を集め、隅田川の花火大会は夏の風物詩として江戸っ子を賑わせました。江戸が首都としての機能が高まり力士を抱える大名の多くが江戸詰めとなり、江戸相撲も民衆が集う両国で頻繁に行われるようになり、谷風・小野川時代、雷電時代の人気を得て、両国は江戸相撲の代名詞となりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/30/279e822d55fc5096e98ecb07b4f41c8b.jpg)
回向院境内の勧進相撲
徳川幕府が倒れて、相撲協会は江戸時代の旧弊を改め角界の近代化に努め、それまでは相撲のできる常設館がなく、野天の仮小屋で『蒙御免晴天十日間』という立看板で回向院の境内で、順延しながらのんびりと行っていました。
常設館建設の念願は、1906年(明治39年)の年一月場所後に具体化し、同年6月に28万円の巨費を投じて回向院境内で着工して、1909年(明治42年)5月に竣工し、同年6月に開館式が行われました。
旧国技館は、日本銀行や東京駅などを手掛けた有名な辰野金吾博士と葛西万司氏との共同設計で、千五百坪の敷地内に九百六坪五合の建坪に半楕円形の鉄骨を合掌させて直径約二百尺(60m余)、高さ八十尺(24m位)の円形の屋根のデザインで、館内の北正面に貴賓席を設け、一般観覧席は土間から四階までの席がありました。国技館の命名は、開館式の案内状に「相撲は日本の国技なり」と書いたことで、当時の年寄尾車(元大関・大戸平)提案した「国技館」となりました。
![79 国技館](http://art11.photozou.jp/pub/60/150060/photo/25920825.jpg)
79 国技館 posted by (C)ヤスフロンティア
明治44年新橋堂発行(東京市京橋区出雲町1)東京名所絵ハガキ フォト蔵
東京新名所となった旧国技館は、失火により1917年(大正6年)と1923年(大正12年)の関東大震災で全焼しその都度再建されたが、1944年(昭和19年)の空襲により3度も焼失しました。 戦後は米軍に接収され、返還後は日大講堂として利用されていましたが、1983年(昭和58年)に解体されました。
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旧国技館と日大講堂
吉良邸跡
吉良邸跡は回向院から京葉道路を東に向かい、交差点を南に折れて交差点を左に進むと、十字路の左角のなまこ壁に囲まれた本所松坂町公園が吉良邸跡(両国3-13-9)です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/56/f5ab4e3ded0aad625b5d78721c40fc8c.jpg)
吉良邸跡地図
本所松坂町公園は、1934年(昭和9年)3月地元両国3丁目町会有志が発起人となり、旧吉良邸内“吉良の首洗い井戸”を中心に土地を購入し、東京市に寄付したものです。2550坪と広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のミニチュアながら、なまこ壁が往時をしのばせます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/05/36f771e0ed9a2cdb2119dfb79db921df.jpg)
吉良邸跡(左:吉良邸跡入り口、中:赤穂義士遺跡吉良邸跡石碑、右:本所松坂町公園由来説明版)
吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の1701年(元禄14年)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/9b/8ce6cb469d7623854f20e156c876fad0.jpg)
吉良邸周辺古地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)
吉良邸屋敷の表門は東側で裏門は西側に位置し、福井県のホームページ「ふくいの足跡マップ⑪吉良邸跡(隣接:福井藩本多家江戸屋敷)」によると、隣接の北側には板塀で囲った福井藩本多家江戸屋敷1650坪の拝領屋敷と、旗本土屋家屋敷2500坪の抱屋敷があり、道を挟んだ東側には鳥居家と旗本・牧野家の屋敷があったようです。
同ホームページによると、北側に隣接して屋敷を有していた、越前松平家家老の本多孫太郎の邸宅では、討ち入りの夜には初めは火事かと思ったが、火の手が見えないので討ち入りと察し、提灯を掲げお上に届け出た(出典:江赤見聞記)と資料にあるとのことです。
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吉良邸隣接屋敷概略図
吉良邸跡の本所松坂町公園の入り口を入ると、西側の手前の角に松坂稲荷大明神が鎮座(写真中の幟り左方)しています。松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。写真中の小さな碑は吉良上野介義央公の追慕碑で、同右に吉良家家臣二十士の碑があり清水一学を含め吉良側は16人が事件で命を落としています。西側の奥には「首洗い井戸」があり、上野介の首を洗ったと伝えられています。
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本所松坂町公園内部1(左:吉良邸跡高札、中:吉良上野公の追慕碑(左)と吉良家二十士の碑(右)、右:首洗いの井戸)
公園内部の周囲の壁には、吉良邸討ち入りに関する書類や錦絵などの資料が、額縁にして提示されています。
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本所松坂町公園内部2(左:公園内部の塀には四十七士に関する資料の額が提示、中:仇入り引き上げの義士団錦絵、右:)
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