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kan-haruの日記

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その1

2010年06月17日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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歴史が残る両国界隈
梅雨の合間をぬって、6月13、15日に、勝海舟の生誕地の本所(両国)を訪れて両国周辺を歩いてみました。
その両国の発展の歴史は古く、江戸がほぼ全滅し10万人余りの命が奪われた1657年(明暦3年)の振袖火事がきっかけで、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り回向院を建てて、市街地復興に着手し、1659年(万治2年)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。その計画で武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区本所で、本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画を進めて、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となりました。赤穂浪士が本所の吉良屋敷を襲い、上野介義央を討ったのが1702年(元禄15年)でした。
この時代の1717年(享保2年)には八代将軍吉宗が隅田川堤に桜100本を植樹し、1733年(享保18年)には水神祭で花火をあげて両国川開きの始まりです。また、1781年(天明元年)に本所回向院で、大相撲が開催されました。この隅田川の両国橋は眺望納涼の場として賑わい、花火が行われ、両岸橋詰の広小路では見世物小屋が繁盛し、少し上流には相撲小屋もあり、行き会うひとで賑わいが江戸一番の繁華街となりました。
両国に誕生した、墨堤の桜、隅田川の花火、国技館の相撲は、いまでも時代を越えて全国の人々に親しまれています。

 両国駅周辺地図(すみだ観光協会パンフレットから)

・隅田川
隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。
隅田川は元々入間川の下流部であり、下総国と武蔵国の国境でありおました。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となり、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、1965年の政令で荒川と呼ばれていますが、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称されました。

 隅田川(写真拡大)

・両国橋
1659年(万治2年)に千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された、長さ94間(約200m)、幅4間(8m) の橋で、名称は当初「大橋」と名付けられていましたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれており、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となりました。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後でした。この木橋は1897年(明治30年)の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落し死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、20mほど下流に1904年(明治37年)に鉄橋として生まれ変わりました。長さ164.5m、幅24.5m曲弦トラス3連桁橋であり、関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、1932年(昭和7年)に、橋長 164.5m、幅員 24.0mの3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋に架け替えられました。

 両国橋(:1875年完成の最後の木橋時代の両国橋[両国橋Wikipedia東京名所絵葉書から出典]写真拡大)

・両国駅
1894年(明治27年)に私鉄の総武鉄道が、佐倉駅と本所(錦糸町)駅間が開通し、本所から両国橋までの沿線は既に市街地になっており高架線が条件で、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して、日本の鉄道で最初の単線の高架区間で両国橋駅を開業する事になり、1906年(明治39年)に複線化されました。1907年(明治40年)には、総武鉄道が国有化されて国鉄となり、1931年(昭和6年)に正式に「両国駅」(墨田区横網1-3)へ改称されました。

 両国駅(写真拡大)

今年の3月から列車の運行を止めた3番線ホームでは、最近「駅コン」と呼ばれるコンサート演奏が開かれるようになり、丁度13日には和楽太鼓の演奏が行われていました。観客は3番線ホームに並べられた椅子に座って楽しむか、2番線ホームから電車の到着まで見ることができます。

 3番線ホームでの和楽太鼓の演奏(写真拡大)

明暦の大火
明暦の大火の概要を中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)を見ると、以下に示す様です。
・最初の火災
明暦の大火は、1657年(明暦3年)1月18日から19日(太陽暦3月2、3日)にかけて発生、延焼した3件の大規模火災の総称で、1件目は北西の強風時の18日午後2時頃本郷丸山の本妙寺から出火し、湯島方面から駿河台に燃え広がり湯島天神、神田明神、東本願寺と延焼し、駿河台の大名邸宅から鎌倉河岸へと燃え広がった。神田明神からの飛び火は、村松町、材木町と延焼し、柳原から泉橋までを焦土化した。駿河台の火は二手にわかれ、一つは誓願寺を迂回して進み、もう一つは須田町から鍛冶町、白銀を南下した。
夕刻から風が西へと変わり、鎌倉河岸の火が飛び火して鞘町から東に延焼して伊勢町より江戸橋付近で川を越え、茅場町まで延焼し、さらに東へと燃え移り八丁堀も焼け、霊厳島へ延焼して霊厳寺に逃げ込んだ9600人の命を奪った。霊厳寺の火は停泊していた舟に燃え移り、海を隔てた佃島や石川島に達した。

 3か所から出火した火災の推定延焼経路(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

強い西風にあおられて向島八幡宮も焼失し、あっというまに吉原から堀江町も延焼した。
火に追い立てられた群衆の巨大な流れが浅草に殺到している時、一時おさまっていた柳原の火が再び燃え始めて誓願寺に飛び火し、近くの大名小路を延焼するとともに、数十の寺院に延焼して小伝馬町方面からの火と合流し、数万の群集を飲み込んでいった。
午後8時になっても風は衰えず、海岸に並んでいる諸大名の屋敷を灰とし、川を一気に越えて牛島新田の農家を焼き払い、翌日の午前2時過ぎに延長約5.3kmに及ぶ火災も鎮火した。

 主な大名屋敷の存在場所(黒木喬「明暦の大火」、講談社1977出典)

・2件目火災
2件目は前日に続いて19日午前10時頃小石川鷹匠町付近から出火し、水戸藩の屋敷を焼き、飯田町から市谷、番町を延焼し、天守閣にも燃え移り、常盤橋内の大名屋敷、鍛冶橋の諸大名邸、旗本屋敷を焼き尽くした。午後4時頃北風から西風に変わり、八重洲河岸、中橋に延焼し、火は南の新橋、木挽町に達し、東は材木町、水谷町まで延び、海岸では多くの船も焼失した。逃げまどう群衆は焼け落ちた橋などにより逃げ場を失い命を失う。

 炎の中を逃げまどう人々(「むさしあぶみ」日本髄筆大成第3期6、吉川弘文館出展)

・3件目の火災
3件目は19日夜、風が北から西へと変わり始めたころ麹町の町家から出火し、延焼して大名屋敷約50を焼失し、さらに西の丸下の屋敷多数が全焼し、桜田から芝浦海岸にぬけ鎮火した。

 明暦大火の延焼被害地域図(竹内吉平「火との斗い(江戸時代編)-消防戦術のルーツをたどる」、近代消防社出典)

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