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kan-haruの日記

小さな旅 勝海舟 牛島で修行し赤坂・洗足池と移り、西郷と会見で江戸無血開城戦禍から救う その1

2010年07月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 墨堤常夜燈  

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龍馬シリーズも立会川、赤坂、洗足池と進み、今回は本所で生誕した勝海舟が向島で剣術と禅の修業し、三田の薩摩藩蔵屋敷で西郷と会見した場所までを追ってみました。

勝生誕の地
勝海舟は、1823年(文政6年)に江戸本所亀沢町で、父小吉の実家の旗本の男谷家で誕生し、勝家に養子に出され24歳までは本所入江町で暮らしていました。西郷吉之助書の『勝海舟生誕之地』の碑は、両国公園(墨田区両国4-25) 内に建立されています。碑文には、「勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる。剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す。明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談。官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり。明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す。明治百年を記念しこの碑を建つ」と書いてあります。(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その4」参照)。

 勝海舟生誕地と居住地(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・勝海舟の胸像
1774 年(安永3年)5月11日に、下総之国葛飾郡本所横川町の旗本能勢筑前守頼直の江戸下屋敷内に創建した能勢妙見堂(墨田区本所4-6-14)は、勝海舟の胸像が建立されています。この能勢妙見堂は、子母澤寛の小説では、「勝海舟こと幼き勝麟太郎が九つの時、狂犬に襲われ、睾丸の片方を食いちぎられ、医師さえ諦めた、生死を彷徨う息子を、父、勝小吉が能勢妙見堂で水垢離をして祈り、三日三晩抱きしめて、体温を上げ続けて、どうにか助けたとあります。」(「小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その5」参照)。

 能勢屋敷妙見堂江戸地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から再掲)

・弘福寺
勝海舟は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場で、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込んで剣術習い、夜は牛島神社で寒稽古に励み、直心影流の免許皆伝となりました。また、師匠の虎之助の勧めにより弘福寺で禅も学びました。
海舟が稽古に励んだ牛嶋神社は、本所の総鎮守で創建は860 (貞観2年)と伝えられ、墨堤常夜灯の下の大銀杏のある場所(向島須崎町)にありました。現在は、関東大震災後の隅田堤の拡張により1932年(昭和7年)に墨堤常夜灯から500m南の現在地に移動しました(「小さな旅すみだ郷土文化資料館と墨田川江戸流しびな」参照)。

 弘福寺江戸地図(goo地図(江戸切絵図)安政新判隅田川向嶋絵図から)

今まで隅田川のすみだ郷土文化資料館より北方の弘福寺付近は歩いたことがなかったので、7月1日に勝海舟に因んで墨堤常夜灯などの墨堤の史跡と桜橋から見たスカイツリーを眺めながら散策してきました。弘福寺へは、都営浅草駅から江戸通りを進み、言問橋を渡り牛嶋神社の北の水戸街道の手前の道を北進して三囲神社脇を通り、向島5丁目に入ると右側に中国風の重層の建築は唐様の山門の弘福寺です。

 弘福寺付近地図

弘福寺(墨田区向島5-3-2)は、東京都墨田区にある黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山である宇治の黄檗山万福寺の末寺で, 1673年(延宝2年)に名僧鉄牛禅寺(てつぎゅうぜんじ)によって創建したと伝えられている日蓮宗で、本尊は釈迦如来が祀られています。

 弘福寺(写真拡大)

堂宇は関東大震災で焼失し、現在の建物は1933年(昭和8年)に再建されたものです。弘福寺の鐘楼にかかる梵鐘は、高さ117.0センチメートル、口径63.4センチメートルで1688年(貞享5年)6月に鋳造されたもので、『江戸名所図会』などにも登場するよく知られた梵鐘です。

 堂宇(:本堂、:鐘楼) 

境内の祠には、「咳の爺婆尊」と呼ばれる二つの石像が並び、修行中の風外禅師が、父母の姿を彫って孝養した石像と云われ、「風外」という作者名から風邪に効くと言われるようになり、ぜんそくや咳を治すという信仰が生まれました。

 爺婆尊(写真拡大)

・長命寺の桜餅
弘福寺の隣の長命寺(墨田区向島5-4-4)は、隅田川七福神の弁財天が祀られています。三代将軍徳川家光が、鷹狩にて腹痛に見舞われた際、寺内の井戸水で薬を服用し快癒しました。これにより井戸水は長命水の名を授けられ、寺号も長命寺となりました。長命寺は言問幼稚園が併設され、正門はウイクデーの園児の在園時間帯は入りにくい雰囲気でしたので、歌碑、俳句碑等の石碑が沢山あるのですが参拝は見送りとしました。
長命寺の桜餅(墨田区向島5-1-14)は、1717年(享保2年)初代山本新六が隅田川土手の桜の葉を集め、塩漬けにして桜餅を考案、向島の名跡長命寺の門前にて売り始めてそれから二百八十年余、隅田堤の桜と共に名物となりました。通常の桜餅は、桜の葉1枚をですが、長命寺の桜餅の桜の葉は3枚使用します。

 長命寺(:長命寺、:長命寺桜もち)

・野口雨情の文学碑
長命寺から墨堤に出ると、野口雨情の文学碑があり、碑には「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」とあり、墨田区の立札の解説には
「ここに刻まれた都鳥の詩は、日本童謡民謡の先駆、巨匠野口雨情氏が、昭和8年、門下生の詩謡集の序詞執筆のため当地に来遊の折、唱われたものである。東京都民の心のふるさとである隅田川ぞいを飾るにふさわしい作品として、記念碑に刻し、永遠に保存する。 昭和63年10月9日 墨田区」とあります。

 野口雨情の文学碑

・墨堤植桜之碑
1877年(明治20年)に建てられた約3メートルの巨大な石碑です。向島に在住した榎本武揚揮毫による篆額、浜邨大■(はまむらたいかい)の文と撰によります。当初、この碑は言問亭(現言問団子)の西南の岸辺に建てられましたが、水害等のために1896年(明治29年)8月に現在の位置に移されました。
墨堤は、『江戸名所花暦』に「江戸第一の花の名所」と称された桜の景勝地です。堤に初めて桜を植えた来歴から大水による被害、地元住民たちの植桜による墨堤の再生などを含めた墨堤の歴史と、今後末永く保存し、顕彰したい願いが朗々と刻まれています。明治時代始めに、桜の樹齢である60年から70年までに重なり桜が枯れたため、この状況を憂えた大倉喜八郎が、その再生を成島柳北に呼びかけ、一千本の桜を植えました。これがきっかけとなり、安田善次郎などの財界人をはじめ村人までもがひとつとなり、石碑の建立が成し遂げられました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤植桜之碑(:墨堤植桜之碑説明)

・墨堤常夜燈
この常夜燈は、1871年(明治4年)に牛嶋神社の氏子たちによって奉納されたものです。対岸の料亭も含めて、料亭29軒、個人50名以上の名前が刻まれています。この中には、当時有名だった料亭の植半・八百松・武蔵屋を始め、現在も続く駒形どぜう・言問団子・長命寺の桜餅なども名を連ねています。建立以降、三度の改築・修繕を経て今日に姿をとどめています。
かつては牛嶋神社の境内地、土手から神社へ下る坂の入口に建てられたようです。隅田川を往来する川舟のための灯台としてその安全を祈るとともに、墨堤の燈明も兼ねていました。関東大震災の後、牛嶋神社が移転したため、常夜燈だけが元の位置のまま今日まで残りました。
石燈籠としては琴柱(ことじ)形の脚部をもつ独特の形で、明治時代の画家たちは、好んで墨堤の桜と常夜燈を組み合せることで、向島の風情を描き出していました。(すみだウエブサイトから)

 墨堤常夜燈(:墨堤常夜燈説明)

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