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kan-haruの日記

小さな旅 史蹟の散歩 振袖火事や大震災の災害を受け吉良邸跡の古い歴史を持つ両国を散策する その2

2010年06月20日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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回向院
回向院(墨田区両国2-8-10)は、JR両国駅を降りて駅前通りを南に進むと両国橋が架かっている京葉道路に出て対面が回向院表門です(両国駅周辺地図赤印②参照)。

 回向院表門(:表門、:表門扁額、:回向院案内板)

かっての回向院には観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていましたが、その後の関東大震災や世界大戦等により木彫の諸尊像はことごとく焼失し、現在では石仏、銅仏等の諸尊像のみが残されています。

 回向院現在地図

・開創
回向院が建てられたのは、今からおよそ350年前におきた1657年 (明暦3年)の大火(その1参照)での死者は、延焼が早く混乱して風下に逃げた群衆が飛び火による風下の火災に挟まれ逃げ場を失い多くの命が奪われたり、道路や空き地に避難民が持ち出した荷物に火の粉が吹き付け着火して多くの人が巻き込まれて焼死したり、火災で橋が落ちて川岸に追い込められて川に飛び込んで凍死したり餓死者も多かったと記録さている。死者数については、「むさしあぶみ」、「本所回向院記」、「山鹿素行年譜」などには10万人台と書いてあり、「上杉年譜」、「天亮吾妻鑑」、「明暦三丁酉日記」には3万7千人余りとしており、「元延実録」ではこの中間の6万8千余人とあげています。

 回向院江戸時代地図(goo地図(江戸切絵図)嘉永新鐫本所絵図から)

大火後に牛島新田(現墨田区両国)に葬られた死者数は6万3430余人のほか、漂着した死体が4654人と記されています。(中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会の「1657 明暦の江戸大火報告書」(平成16年3月)から)。
幕府は、焼死者の埋葬をすることにして、増上寺に命じて本所牛島新田に埋葬地を設け、死骸を船で運んで供養を行ないました。
また将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、阿弥陀如来を本尊としてお念仏を行じる御堂が建てられたのが諸宗山無縁寺回向院の歴史の始まりです。
それ以来回向院には毎月18、19日の両日、江戸市中から追悼の者が訪れるようになり、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。

 江戸名所図絵「回向院」境内図

・災害供養塔
回向院は一見隆盛一途をたどったかのように受とれますが、その後度重なる地震や大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、1923年(大正12年)の大震災では境内の堂宇は灰燼に帰し、更には1945年(昭和20年)第二次大戦下の大空襲によって再び焼失など、幾度かの存亡の危機に立たされましたが、檀信徒の浄信にささえられ歴代住職は、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切ることが出来ました。

 明暦大火・天明地震・大震災横死者等供養塔(:明暦大火横死者等供養塔説明板、:明暦大火横死者等供養塔、:大震災横死者の墓と天明地震横死者の供養塔)

・著名人の墓
境内には著名人の墓として、江戸歌舞伎元祖の猿若(中村)勘三郎や竹本義太夫などが見られます。竹本義太夫は義太夫節の創始者で近松門左衛門と組み、それまでの浄瑠璃を義太夫として完成させました。義太夫ファンの大岡育造東京議会議長が1918年(大正7年)に立てた追悼墓であり、歴代の竹本義太夫の墓も一帯にあります。

 著名人の墓(:猿若勘三郎の墓、:竹本義太夫の墓)

・鼠小僧のお墓
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方が後を絶ちません。
特に、最近では多くの若いペアーが次々に沢山訪れ墓石を削る人が増え、回向院のホームページで掲示(年代不明)のねずみ小僧のお墓の写真と比べると、削られた量から見てお守りを求める人の多さに驚かされます。

 鼠小僧の墓(左上・中上:鼠小僧の墓、右上:回向院ホームページ写真(年代不明)、左下中下右下:お守りに求めて鼠小僧の墓のお前立ちを削る参詣者)

・水子塚と塩地蔵
回向院の水子塚は、1793年(寛政5年) に陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため老中松平定信の命によって造立されたもので、水子供養の発祥とされています。
また回向院は、庶民信仰の関わりを称する像として地蔵菩薩があり、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれ、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。

 水子塚と塩地蔵(:水子塚、:塩地蔵)

・動物供養
境内広場の左手には馬頭観音堂があります。開創間もない頃、将軍家綱公の愛馬が死亡しその骸を回向院に葬ることになり、その供養をする為、回向院二世信誉貞存上人は馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻した馬頭観世音菩薩像安置しました。
回向院は成り立ちが、人間はもちろん、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くものでありますので、境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」1816 年(文化13年)があります。

 馬頭観音堂と猫塚(:馬頭観音堂、:猫の恩返し(猫塚))

また、「唐犬八之塚」1866年(慶応2年)や義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合の「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑があり、諸動物の供養が行われています。

 動物供養(写真拡大)

・力塚と回向院相撲
日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっており、回向院境内で初めて行われたのは1768年 (明和5年)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで相撲興行の中心は回向院とされてきました。1833 年(天保4年)になると回向院の興行は春秋二回が定場所となり、1909年(明治42年)の旧両国国技館が完成するまでの76年間は、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、1936年(昭和11年)に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲が回向院とのつながりを示す象徴になっています。

 力塚(写真拡大)

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