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kan-haruの日記

小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その3)

2010年03月15日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 土佐高知藩山内家下屋敷跡説明板

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山内容堂の墓
土佐藩15代藩主の山内容堂の墓は京急鮫洲駅西の土佐山と呼ばれていた小高い丘の上にあり、墓への道は第1京浜国道脇の鮫洲駅連結の横断歩道橋を渡り、大井公園への坂道を上ると交差点があり左手に「山内豊信(容堂)墓」と書かれた標識の中腹の道を進みます。

 鮫洲_山内豊信の墓拡大地図

標識の道の上には、大井公園と区立立会小学校が並んでおり、この辺の高台一帯は元下屋敷の跡であり、もともとは1658年(万治元年)に仙台藩伊達家が麻布下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であったが、1737年(元文2年)に一時鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換して間部家の下屋敷となったが、その後一部は再び伊達家の所有となりました。

 越前鯖江藩間部家下屋敷跡の敷地

元下屋敷の跡に設けられた山内容堂の墓(品川区指定史跡 品川区東大井4-8)には、山内豊信(とよしげ)が幕末の動乱を龍馬と共に歩み、山内家下屋敷から眺める江戸湾を好み、故郷の地より土佐山(下総山)に埋葬を望み1872年(明治5年)6月21日に45歳の若さで葬られました。

 山内容堂の墓がある大井公園(:大井公園は下屋敷跡であった、:山内容堂の墓への道案内板)

山内豊信は、山内豊著(とよあき)の長子として1872年(文政10年)に生まれ、に宗家を継いで1848年 (嘉永元年)に第15代の土佐国高知藩主となり、多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えました。強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時は大井村の下屋敷に蟄居させられたが、1862 (文久2年)に再び復し大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の尽力し、1868年 (明治元年)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年に引退しました。山内容堂の号は、隠居後の名前です。
容堂の墓へは、標識の道の突き当りに門が見られ、門には午前9時から午後5時まで公開と表示してあり、施錠は開いており門を開けて墓所内に入れます。墓所へのゆったりとした石階を上がると階段が右に折れ、さらに登りきると平坦部に出て突き当りは立会小学校の校庭の金網塀で校庭が見えます。

 山内容堂の墓所(:容堂の墓所の正門、:容堂の墓までの石段、:山内容堂の墓地入り口)

平坦部の右側が墓地の入り口で、入り口の左に「嶋津常候之墓」の墓碑があり第13代藩主山内豊熈の妻の墓で、1880年(明治13年)11月16日に亡くなられました。その奥に並んで土まんじゅう型の墓が山内容堂の墓で、墓碑には「贈従一位山内豊信公之墓」と記されています。墓地内は清掃が行き届いていますが、崩れた石灯籠や手水鉢などが散らばった感じです。

 山内容堂の墓地(:山内容堂の墓説明板、:山内容堂の墓、:嶋津常候之墓)

来福寺
山内容堂の墓から山内家下屋敷に辿る前に、その昔サクラの名所で、雪中庵蓼太が詠んだ句碑のある古刹の来福寺に寄って見ました。来福寺(品川区東大井3-13-1)へは容堂の墓から、第1京浜国道に戻り南へ進み大井消防署前を過ぎ、四つ角を通過すると右に斜めに進む参道を100mほどで右手に山門が見えてきます。

 山内家下屋敷跡付近地図

来福寺は、990年(正暦元年) に智弁という像が創建し、1501年(文亀元年)に梅巌という僧が、昔右大将頼朝が戦没諸兵追善のために写経を埋めた納経塚(大井1丁目庚申堂)の傍らを通ると塚の中から読経の声を聞かれて仏像を掘出し、来福寺に安置したといわれています。そのため、この御本尊を別名経読地蔵と云われるようになりました。

 海賞山地蔵院来福寺(:来福寺参道、:来福寺山門、:来福寺本堂)

寺の山号を海賞山地蔵院(真言宗智山派)と云い、境内に天満宮があったので天神山と呼ばれていました。古い信者に梶原一門があり、境内に権五郎景政や平三郎景時の嫡子源太景季の寄進された梶原松や延命桜等がありました。
当時は桜の名所として知られ、現在も境内に雪中庵蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句碑(1787年[天明7年]建立、四世雪中庵大島完来揮毫)が残っています。

 来福寺風景(:雪中庵蓼太の句碑、:来福寺境内の松、:来福寺浮世絵)

高知藩山内家下屋敷
山内家下屋敷へは来福寺の参道を戻り、四つ角を南に向かい浜川中学校の北側道路を第1京浜国道に出ると、中学校の校庭付近一帯は旧下屋敷跡の広大な敷地であり、中学校脇に屋敷が位置した様子が書かれた案内板が設置されています。
第1京浜国道付近の立会川沿いの高知藩山内家は下屋敷約1万6800坪の敷地を抱え、往事の東海道を挟んで河口には抱屋敷(かかえやしき)の揚場869坪を、1658年(万治元年)に拝領されたもので、両屋敷は表門通り(現立会川商店街通り)で結ばれていました。抱屋敷には、1853年(嘉永6年)頃に浜川砲台が築かれました。なお、山内家下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現中央区築地)にもありました。
山内家の上屋敷は、鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあり、1855年(安政2年)頃の高知藩主の山内土佐守豊信の家禄は24万2千石でした。

 山内家下屋敷跡の敷地

山内豊信は、松平慶永(よしなが)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに、国政の方向について論議建策し幕末の四賢侯と称されました。1858年(安政5年)の頃江戸幕府が日米修好通商条約に調印し、徳川家茂を将軍継嗣に決定したことなどに反対した大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧する事件が起き、この処罰を安政の大獄と云います。この弾圧により山内豊信は隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷でした(品川教育委員会より)。

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