
kan-haru blog 2010 氷川神社氷川坂参道口
< 総合INDEX へ
創建から1000年以上を経た氷川神社境内(地図参照)には、1952年(昭和27年)に東京都有形文化財の指定となった社殿と、境内社の神社下に在住の勝海舟が称えた四合稲荷(しあわせいなり)神社、赤坂田町四丁目から移された西行稲荷神社、山口稲荷神社に桶新稲荷神社の4社が祀られています。
氷川神社本殿
正門の鳥居を潜り右側の大イチョウを見ながら正面参道を進むと、氷川坂入り口からの参道と合流します。この合流点には二の鳥居があり、左手に手水舎がありますので口を漱いで楼門を潜り、内塀の中に入り突き当たりの歴史ある本殿に参詣しました。

氷川神社本殿1(左:手水舎、中・右:本殿)
本殿は木造、銅板葺きの一間社流造りで、八代将軍吉宗が1730年(享保15年)に建立した拝殿は三間四面の漆朱塗りで、当時の質実、簡素な政策をそのまま表現し、社殿の建築には組物・彫刻を施さない質素な社で、都重宝文化財から東京都有形文化財の指定に変更されています。境内には、都重宝の石造りの標識がそのまま建立して残っています。
氷川神社の御祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと「大国主神」)の3神が祀られています。
本殿を訪れた時、氷川神社で神前結婚を挙げられた一行が記念写真を撮りあっているのに遭遇しましたが、白無垢の花嫁姿と知人方の和服姿が厳粛な社の風情と似合い、一服の絵のようです。

氷川神社本殿2(左:氷川神社社殿説明板、中:氷川神社社殿が都重宝であった時の石標、右:厳粛な社での結婚式は一服の絵のよう)
・額堂
本殿を取り囲む内塀の南角にある額堂には、江戸末期から明治初期に活躍した代表的な浮世絵師の月岡芳年が描いた、肉筆の「ま」組の火消し絵馬が1879年(明治12年)に奉納され掲げられています。「ま」組は、氷川神社の北東から南側一帯の元赤坂町・赤坂裏伝馬町・赤坂田町・麻布今井町界隈の火消しを受け持ち、気負い立つ火消したちの姿がいきいきと描かれているそうです。また、額堂には「ま」組の火消し絵馬とともに、江戸時代末期から初期にかけての著名な画家・河鍋暁斎や月岡芳年・柴田是真の描いた絵馬が6点掲げられています。絵馬は、平成5年に港区の文化財の指定を受けました。

「ま」組火消し絵馬が掲げられている額堂(左:内塀の中の本堂横の額堂、中:7点の奉納絵馬が掲げられている額堂、右:「ま」組火消し絵馬説明板)
・石灯籠
氷川神社には石灯籠が沢山あります。神社の石灯籠の説明には、「門の内外に立つ2対4基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ2基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂1~2丁目)の講中が、1724年(享保9年)閏4月に奉納したものです。氷川神社が現在の地に遷座したのは同15年であるため、遷座前の「古呂故が岡」(現在の赤坂4丁目1付近)にあったときからのもので、遷座の際に移されました。門外の2基は、遷座の年に岡崎城主老中水野忠之が奉納したものです。」とあります。
説明の門内の本殿前に立つ2基の石灯籠は、形状から見ると写真(左)に写っている左側の石灯籠が享保9年に講中が奉納されたものと思われます。したがって、写真右側に写っている石灯籠は、水野忠之が奉納したものとなります。境内には正面参堂の2の鳥居の前にもかなりの年代の石灯籠があり、氷川坂口参堂の2の鳥居の前後にも石灯籠が見られる他、氷川坂口階段下にもあります。

赤坂神社境内には沢山の石灯籠がある(左:赤坂神社の古い石灯籠、中:正面参堂の2の鳥居の前の年代ものの石灯籠、右:氷川坂参堂の2の鳥居の前・後にある石灯籠)
・狛犬
氷川神社には狛犬も沢山あり、一社で7対もあります。正面参堂の狛犬には子獅子が両方にいる江戸獅子で、2番目に古く1846年(弘化3年)の建立で阿と吽の奉納者が異なり、阿が赤坂 弟大工安兵衛 司鎌太郎弟子中で、吽が麻布今井寺町大工九代目勘兵衛とあります。
豪華な狛犬は、氷川坂口参道の階段の上の江戸獅子の獅子山で子獅子がおり、建立は1882年(明治15年)で石工は木村藤兵衛です。神社の一番古い狛犬は、本殿の内塀近くに建立の1675年延宝3年に奉納されたものがあります。

氷川神社の狛犬(左:正面参堂の狛犬、中・右:豪華な獅子山の狛犬)
四合稲荷神社
四合稲荷神社は、氷川坂口参堂の階段を降りると左側の先に小さな鳥居があり、この場所に以前から鎮座していた地頭(じぬし)稲荷と、赤坂一ツ木の古呂故天神社境内に鎮座していた古呂故(ころこ)稲荷、氷川神社隣接の別当盛徳寺の地内に鎮座していた本氷川稲荷、赤坂門外の御堀端に鎮座していた玉川稲荷の4社を、1898年(明治31年)に遷座合祀した稲荷神社で、幕末に本氷川坂下に在住していた勝海舟により『四合(しあわせ)稲荷』と称えられたとのことです。四合稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られており、勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額が現存してあるとのことです。
その後、1913年(大正2年)には追加して、赤坂一ツ木町に鎮座の鈴降(すずふり)稲荷神社と赤坂丹後坂下に鎮座の縁起稲荷神社の2社も合祀され、さらに1934年(昭和9年)に赤坂新町に鎮座の明徳稲荷神社も合祀し、現在の四合稲荷神社には、7社の稲荷神社が遷座合祀されています。

勝海舟所縁の四合稲荷神社(左・中・右写真拡大)
西行稲荷神社
西行稲荷神社は、四合稲荷神社の左側の鳥居の先の高台の岩にお稲荷様が祀られた祠があり、祠の上に稲荷神社が鎮座しています。この稲荷神社の由来は、氷川神社の説明によると、享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」として1921年(大正10年)に遷宮したとあります。

西行稲荷神社(左・中・右写真拡大)
氷川神社氷川坂参道
氷川神社境内の氷川坂参道口の階段付近には、かなり目立つ大きな包丁塚の石碑があります。包丁塚石碑の趣意には、「そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覚の境地にあそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損ないし刃物は和洋を問わず数多なり、そを情けあつき人々相つどい組合設立二千五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり」とあります。赤坂・青山の料理飲食業組合の関係有志が1968年(昭和43年)頃に建立したようです。
また、氷川坂参道口の階段を降りると傾斜地に水が枯れた池があり、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられています。さらに、氷川坂参道を出口方向に進むと鳥居の先には狛犬と石灯籠があり、氷川坂の道路に出ます。

氷川神社氷川坂参道(左:包丁塚石碑、中:太鼓橋、右:氷川坂口参堂の鳥居と狛犬)
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 へ
<前回 小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2) へ
次回 小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1 へ
< 総合INDEX へ
創建から1000年以上を経た氷川神社境内(地図参照)には、1952年(昭和27年)に東京都有形文化財の指定となった社殿と、境内社の神社下に在住の勝海舟が称えた四合稲荷(しあわせいなり)神社、赤坂田町四丁目から移された西行稲荷神社、山口稲荷神社に桶新稲荷神社の4社が祀られています。
氷川神社本殿
正門の鳥居を潜り右側の大イチョウを見ながら正面参道を進むと、氷川坂入り口からの参道と合流します。この合流点には二の鳥居があり、左手に手水舎がありますので口を漱いで楼門を潜り、内塀の中に入り突き当たりの歴史ある本殿に参詣しました。

氷川神社本殿1(左:手水舎、中・右:本殿)
本殿は木造、銅板葺きの一間社流造りで、八代将軍吉宗が1730年(享保15年)に建立した拝殿は三間四面の漆朱塗りで、当時の質実、簡素な政策をそのまま表現し、社殿の建築には組物・彫刻を施さない質素な社で、都重宝文化財から東京都有形文化財の指定に変更されています。境内には、都重宝の石造りの標識がそのまま建立して残っています。
氷川神社の御祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと「大国主神」)の3神が祀られています。
本殿を訪れた時、氷川神社で神前結婚を挙げられた一行が記念写真を撮りあっているのに遭遇しましたが、白無垢の花嫁姿と知人方の和服姿が厳粛な社の風情と似合い、一服の絵のようです。

氷川神社本殿2(左:氷川神社社殿説明板、中:氷川神社社殿が都重宝であった時の石標、右:厳粛な社での結婚式は一服の絵のよう)
・額堂
本殿を取り囲む内塀の南角にある額堂には、江戸末期から明治初期に活躍した代表的な浮世絵師の月岡芳年が描いた、肉筆の「ま」組の火消し絵馬が1879年(明治12年)に奉納され掲げられています。「ま」組は、氷川神社の北東から南側一帯の元赤坂町・赤坂裏伝馬町・赤坂田町・麻布今井町界隈の火消しを受け持ち、気負い立つ火消したちの姿がいきいきと描かれているそうです。また、額堂には「ま」組の火消し絵馬とともに、江戸時代末期から初期にかけての著名な画家・河鍋暁斎や月岡芳年・柴田是真の描いた絵馬が6点掲げられています。絵馬は、平成5年に港区の文化財の指定を受けました。

「ま」組火消し絵馬が掲げられている額堂(左:内塀の中の本堂横の額堂、中:7点の奉納絵馬が掲げられている額堂、右:「ま」組火消し絵馬説明板)
・石灯籠
氷川神社には石灯籠が沢山あります。神社の石灯籠の説明には、「門の内外に立つ2対4基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ2基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂1~2丁目)の講中が、1724年(享保9年)閏4月に奉納したものです。氷川神社が現在の地に遷座したのは同15年であるため、遷座前の「古呂故が岡」(現在の赤坂4丁目1付近)にあったときからのもので、遷座の際に移されました。門外の2基は、遷座の年に岡崎城主老中水野忠之が奉納したものです。」とあります。
説明の門内の本殿前に立つ2基の石灯籠は、形状から見ると写真(左)に写っている左側の石灯籠が享保9年に講中が奉納されたものと思われます。したがって、写真右側に写っている石灯籠は、水野忠之が奉納したものとなります。境内には正面参堂の2の鳥居の前にもかなりの年代の石灯籠があり、氷川坂口参堂の2の鳥居の前後にも石灯籠が見られる他、氷川坂口階段下にもあります。

赤坂神社境内には沢山の石灯籠がある(左:赤坂神社の古い石灯籠、中:正面参堂の2の鳥居の前の年代ものの石灯籠、右:氷川坂参堂の2の鳥居の前・後にある石灯籠)
・狛犬
氷川神社には狛犬も沢山あり、一社で7対もあります。正面参堂の狛犬には子獅子が両方にいる江戸獅子で、2番目に古く1846年(弘化3年)の建立で阿と吽の奉納者が異なり、阿が赤坂 弟大工安兵衛 司鎌太郎弟子中で、吽が麻布今井寺町大工九代目勘兵衛とあります。
豪華な狛犬は、氷川坂口参道の階段の上の江戸獅子の獅子山で子獅子がおり、建立は1882年(明治15年)で石工は木村藤兵衛です。神社の一番古い狛犬は、本殿の内塀近くに建立の1675年延宝3年に奉納されたものがあります。

氷川神社の狛犬(左:正面参堂の狛犬、中・右:豪華な獅子山の狛犬)
四合稲荷神社
四合稲荷神社は、氷川坂口参堂の階段を降りると左側の先に小さな鳥居があり、この場所に以前から鎮座していた地頭(じぬし)稲荷と、赤坂一ツ木の古呂故天神社境内に鎮座していた古呂故(ころこ)稲荷、氷川神社隣接の別当盛徳寺の地内に鎮座していた本氷川稲荷、赤坂門外の御堀端に鎮座していた玉川稲荷の4社を、1898年(明治31年)に遷座合祀した稲荷神社で、幕末に本氷川坂下に在住していた勝海舟により『四合(しあわせ)稲荷』と称えられたとのことです。四合稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られており、勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額が現存してあるとのことです。
その後、1913年(大正2年)には追加して、赤坂一ツ木町に鎮座の鈴降(すずふり)稲荷神社と赤坂丹後坂下に鎮座の縁起稲荷神社の2社も合祀され、さらに1934年(昭和9年)に赤坂新町に鎮座の明徳稲荷神社も合祀し、現在の四合稲荷神社には、7社の稲荷神社が遷座合祀されています。

勝海舟所縁の四合稲荷神社(左・中・右写真拡大)
西行稲荷神社
西行稲荷神社は、四合稲荷神社の左側の鳥居の先の高台の岩にお稲荷様が祀られた祠があり、祠の上に稲荷神社が鎮座しています。この稲荷神社の由来は、氷川神社の説明によると、享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」として1921年(大正10年)に遷宮したとあります。

西行稲荷神社(左・中・右写真拡大)
氷川神社氷川坂参道
氷川神社境内の氷川坂参道口の階段付近には、かなり目立つ大きな包丁塚の石碑があります。包丁塚石碑の趣意には、「そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覚の境地にあそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損ないし刃物は和洋を問わず数多なり、そを情けあつき人々相つどい組合設立二千五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり」とあります。赤坂・青山の料理飲食業組合の関係有志が1968年(昭和43年)頃に建立したようです。
また、氷川坂参道口の階段を降りると傾斜地に水が枯れた池があり、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられています。さらに、氷川坂参道を出口方向に進むと鳥居の先には狛犬と石灯籠があり、氷川坂の道路に出ます。

氷川神社氷川坂参道(左:包丁塚石碑、中:太鼓橋、右:氷川坂口参堂の鳥居と狛犬)
< 総合INDEX へ
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
カテゴリー別Index 小さな旅総目次 へ
<前回 小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2) へ
次回 小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1 へ