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公共図書館史における戦後民主主義

2008-05-15 10:20:18 | 読書ノート
石井敦, 前川恒雄『図書館の発見:市民の新しい権利』NHKブックス, NHK出版, 1973.

 既に新版が刊行されているが、ここでコメントするのは旧版のほう。二人の著者の正確な分担は明らかではないが、刊行当時の図書館の状況について述べた一・二・六章は前川の担当、日本の図書館史について述べた三~五章は石井の担当だろう。

 2008年に著作を読み返してみて引っかかることが多いのは、日本の図書館史の記述の方。そのトーンは、「一般民衆は自由に読書する機会を求めていたが、常に政府の図書館政策は不十分でかつ歪められていたため、これに応えることができなかった」というもの。明治から昭和にかけて、民衆は民間で読書クラブなどを作って図書館への需要を示していたが、一方で公共図書館は、蔵書が不十分で閉架式で課金があるうえに、思想善導などに利用されて、非常に駄目な機関だった、というストーリーになっている。

 この本は、現代の視点から過去の図書館を一刀両断し、当時の書籍の価値も考慮せず、また当時の図書館人にとってどういう選択肢があったのかも検討しない。この姿勢には、ちょっと鼻白む感もあるけど、これが1973年に書かれたことを考えればしようがないのかもしれない。そういう時代だったらしいから。

 ただ、民衆の需要を根拠に公共図書館の必要性を語ることはやっぱり説得力を欠く。そんな需要が強く存在するならば、普通の商品と同様に、貸本屋や読書クラブなどの民間の読書機関がそれに応えればいい。で、実際当時それらは存在した。その屋上に、またなぜ公共図書館を重ねる必要があるのか?

 そこで民主主義や真理への希求だのが出てくるのだが、いやだからそのような需要が本当に存在するなら民間が応えるでしょうということ。貸本屋は資本主義に毒されているので、公共図書館で行うべきなのか? しかしながら、この本では戦前の公共図書館はより悲惨だったかのように記述されている。だったら、非営利の読書クラブが活躍しただろうし、それらを図書館運営の理想像として提示すべきだった。読書クラブは公共図書館の前史扱いだが、この本の史観に従えば、役所が余計な介入をする公共図書館なんかよりもずっと理想的なものである。

 僕の考えでは、図書館が公共事業になるのは、民衆の需要が無かったからこそ。正確には、「当時での書籍の価格──貸本の料金や読書クラブの会費も含める──では、近代社会を形成するのに十分ではない(と政府が判断した)量の読書需要しか喚起できなかった。そのため、政府は、より安価に──究極には無料で──書籍へのアクセスを提供することを、公共事業としなければならなかった。」というもの。このほうが政府が乗り出す理由を説明できる。

 戦後民主主義史観の影響下にあるこの本では、「上からの改革」「下からの改革」にこだわり、英米の公共図書館が後者に属するかのようにほのめかされているが、やはりこれは史実に反する。英米でも公共図書館は支配階級が大衆の教化のために計画した施策であって、日本と大きく異なっているとは言えない。日本の公共図書館の遅れは民主主義といった理念の遅れではなくて、投入する予算も含めた、図書館の運営技術の問題に過ぎないように思える。

 以上、いろいろ考えさせてもらった。そのうちに新版についてもコメントしたい。ところで石井の史観は現在の図書館史でもスタンダードだと聞いたんだけど、本当なんだろうか?最近の「図書及び図書館史」教科書の記述がどうだったか覚えていないので、また読み返してみます。
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