来年度「図書・図書館史」を講義することになったので、ちょくちょく関連文献を読んでいる。それに関するノート。
図書館史では敗戦後に米軍の手によって図書館法が施行されて、近代的(すなわち「民主主義的」)な公共図書館を全国に普及させる基盤が整ったと見る。しかし、無料の原則といったよく強調される点を除けば、日本の戦前と戦後しばらくの公共図書館は目的において共通している。「社会教育」である。
教科書的な図書館史では、戦前の図書館は「思想善導」に利用された保守的で悪いものであり、戦後の図書館は「見識ある市民の育成」のために奉仕するリベラルで善なるものという図式を使って、両者の間に断絶を見る。しかし、公共図書館を教育機関として捉えている点では戦前も戦後も同じである。皇国のために奉仕する国民を造り上げることと、民主主義体制を維持するために「市民」を形成することは、公共図書館のもたらす便益が利用者の教化を通じて最終的には共同体に回収されるという点において、相似した構造を持っている。
断っておかなければならないが、こうした構造が悪だと非難したいわけではない。むしろ、公共事業としては正当な考え方であると言いたい。図書館利用の便益が個々の利用者に私的な利益に留まるならば、税金を使う事業としては肯定できない。もしそうならば、利用につきの課金を正当化するだろうし、そもそも民間に任せればいいということになる。個々の利用者が利用の便益の多くを受けるとしても、その効果は共同体の成員に薄いながらもトリクルダウンをもたらす、という論理があって、なんとか図書館サービスは公的支援に値する事業となるだろう。
付け加えておくと、この論理において、便益を受ける共同体のレベルは善悪と無関係である。日本では、共同体が地方自治体レベルだと善、国レベルだと悪という図式にはまってしまう。しかし米国では、普遍的権利に敏感なリベラルな図書館員と旧弊で保守的な地域共同体という対立になってしまい、日本とは逆転する。ここから、戦前と戦後の図書館評価の差異は、図書館が社会教育として盛り込む内容の問題であって、公共図書館サービスの構造的問題とは異なるものであることがわかる。
で、やっと本題なのだが、20世紀の図書館史において画期となるのは、やはり「公共図書館を知的自由と結びつける」ということをやってのけたことにあるだろう。これが画期だというのは、「社会教育」という目的と衝突するものだからである。理論上、知的自由という立場からは資料選択は相対主義的にならざるをえない。これ以前の図書館員ならば、資料選択においては教育的効果に関する専門家であることを主張できた。しかし、以降の図書館員は資料の価値判断を放棄しなければならず、専門家ではありえない。教育的役割を捨ててしまったので、かわって情報探索や検索の技能が図書館員の専門性の根拠となった。
この目的は図書館関係者の間で主張され、実際の公共図書館に運営に影響している──どの程度本気に取り組んでいるかは別として、だが。例えば、別のエントリで述べたように『市民の図書館』の記述に流れ込んでいる。また、図書館の資料選択を擁護する近年の議論は、資料の価値の高さからその選択を肯定するのではなく、「図書館の自由」を用いて肯定するのである。
言論の自由を守るというのは、少なくとも日本では選挙を経た政治家たちが課した公共図書館の目的ではない。それは法律で定められているわけではない。日本図書館協会という団体が勝手に主張していることである。米国の事情は詳しく知らないものの、その起源は全米図書館協会にあり、政治家を通じた草の根の民主的要求として実現されたものではないようである。すなわち、運動家の考える"私的な"「図書館の目的」であって、公的な「図書館の目的」ではないのである。
もっとも、そうした目的を掲げても、行政や議会で問題となってこなかったのだから、すでに公認されていると解釈することも可能だろう。おそらく、1930年代以降のニューディーラーによる福祉国家的リベラリズムにとって受け入れやすいものだったのだと推定できる。経済的弱者に公的支援を与えることで、彼らの選択の自由を促進するというよう自由主義である。日本での始まりの時期はやや遅れるが、その頂点が1960年代後半から1970年代というのは日米で共通している。
20世紀後半にこうした思想が意義をもったことを認めるのにやぶさかではない。しかし、21世紀においては言論の自由の主戦場はインターネットになり、実物の図書館は後景になったように見える(電子図書館は別だが、要は著作権問題である)。また、検索技術が発達して素人でも資料の入手が容易になると、資料の探索技能に専門性のアイデンティティを求めてきた図書館司書の地位も低くなるだろう。司書育成の場面において、相対主義に浸って主題や学術性を分析させるトレーニングをせず、資料評価の技能を洗練させてこなかったツケが将来禍根となると予想される。
さらに、福祉国家的リベラリズムもコミュニタリアンやリバタリアンの批判を受けざるをえない。まず、経済的弱者ではない、マイノリティとはいえ十分な資産や所得があるようなグループの持つ、市場で充足できる情報要求を満たすことがナショナル・ミニマムなのかと問われることだろう。また図書館員は単なる公務員であり、価値相対主義がもたらす図書館の量的拡大志向はレントシーキングとして解釈される。さらに、自治体の職員が自治体住民や彼らが選んだ首長に対して自律を主張し、自治体が求めたわけではない普遍的サービスを地域に提供するというのは、住民の疑問を引き起こすことだろう。これはプリンシパル・エージェント問題の枠組みにはまる。
結局、図書館利用者になんらかの方向で人的資本を形成してもらわなければ、図書館はレンタルビデオ店のように民間で運営されれればいいということになる。しかし、今になっても図書館の公営が放棄されないというは、読書の教育的効果が信じられているからであろう。私的に求める情報をただでアクセスできるからという論理では、図書館を利用し‘ない’者を説得できない。
上のような理由で、図書館と言論の自由の結びつきは、21世紀の公共図書館の運営を隘路に導くと予想される。月並みだが、価値の高い、良質な資料の提供が還るべき公共図書館の場所だと思う。
図書館史では敗戦後に米軍の手によって図書館法が施行されて、近代的(すなわち「民主主義的」)な公共図書館を全国に普及させる基盤が整ったと見る。しかし、無料の原則といったよく強調される点を除けば、日本の戦前と戦後しばらくの公共図書館は目的において共通している。「社会教育」である。
教科書的な図書館史では、戦前の図書館は「思想善導」に利用された保守的で悪いものであり、戦後の図書館は「見識ある市民の育成」のために奉仕するリベラルで善なるものという図式を使って、両者の間に断絶を見る。しかし、公共図書館を教育機関として捉えている点では戦前も戦後も同じである。皇国のために奉仕する国民を造り上げることと、民主主義体制を維持するために「市民」を形成することは、公共図書館のもたらす便益が利用者の教化を通じて最終的には共同体に回収されるという点において、相似した構造を持っている。
断っておかなければならないが、こうした構造が悪だと非難したいわけではない。むしろ、公共事業としては正当な考え方であると言いたい。図書館利用の便益が個々の利用者に私的な利益に留まるならば、税金を使う事業としては肯定できない。もしそうならば、利用につきの課金を正当化するだろうし、そもそも民間に任せればいいということになる。個々の利用者が利用の便益の多くを受けるとしても、その効果は共同体の成員に薄いながらもトリクルダウンをもたらす、という論理があって、なんとか図書館サービスは公的支援に値する事業となるだろう。
付け加えておくと、この論理において、便益を受ける共同体のレベルは善悪と無関係である。日本では、共同体が地方自治体レベルだと善、国レベルだと悪という図式にはまってしまう。しかし米国では、普遍的権利に敏感なリベラルな図書館員と旧弊で保守的な地域共同体という対立になってしまい、日本とは逆転する。ここから、戦前と戦後の図書館評価の差異は、図書館が社会教育として盛り込む内容の問題であって、公共図書館サービスの構造的問題とは異なるものであることがわかる。
で、やっと本題なのだが、20世紀の図書館史において画期となるのは、やはり「公共図書館を知的自由と結びつける」ということをやってのけたことにあるだろう。これが画期だというのは、「社会教育」という目的と衝突するものだからである。理論上、知的自由という立場からは資料選択は相対主義的にならざるをえない。これ以前の図書館員ならば、資料選択においては教育的効果に関する専門家であることを主張できた。しかし、以降の図書館員は資料の価値判断を放棄しなければならず、専門家ではありえない。教育的役割を捨ててしまったので、かわって情報探索や検索の技能が図書館員の専門性の根拠となった。
この目的は図書館関係者の間で主張され、実際の公共図書館に運営に影響している──どの程度本気に取り組んでいるかは別として、だが。例えば、別のエントリで述べたように『市民の図書館』の記述に流れ込んでいる。また、図書館の資料選択を擁護する近年の議論は、資料の価値の高さからその選択を肯定するのではなく、「図書館の自由」を用いて肯定するのである。
言論の自由を守るというのは、少なくとも日本では選挙を経た政治家たちが課した公共図書館の目的ではない。それは法律で定められているわけではない。日本図書館協会という団体が勝手に主張していることである。米国の事情は詳しく知らないものの、その起源は全米図書館協会にあり、政治家を通じた草の根の民主的要求として実現されたものではないようである。すなわち、運動家の考える"私的な"「図書館の目的」であって、公的な「図書館の目的」ではないのである。
もっとも、そうした目的を掲げても、行政や議会で問題となってこなかったのだから、すでに公認されていると解釈することも可能だろう。おそらく、1930年代以降のニューディーラーによる福祉国家的リベラリズムにとって受け入れやすいものだったのだと推定できる。経済的弱者に公的支援を与えることで、彼らの選択の自由を促進するというよう自由主義である。日本での始まりの時期はやや遅れるが、その頂点が1960年代後半から1970年代というのは日米で共通している。
20世紀後半にこうした思想が意義をもったことを認めるのにやぶさかではない。しかし、21世紀においては言論の自由の主戦場はインターネットになり、実物の図書館は後景になったように見える(電子図書館は別だが、要は著作権問題である)。また、検索技術が発達して素人でも資料の入手が容易になると、資料の探索技能に専門性のアイデンティティを求めてきた図書館司書の地位も低くなるだろう。司書育成の場面において、相対主義に浸って主題や学術性を分析させるトレーニングをせず、資料評価の技能を洗練させてこなかったツケが将来禍根となると予想される。
さらに、福祉国家的リベラリズムもコミュニタリアンやリバタリアンの批判を受けざるをえない。まず、経済的弱者ではない、マイノリティとはいえ十分な資産や所得があるようなグループの持つ、市場で充足できる情報要求を満たすことがナショナル・ミニマムなのかと問われることだろう。また図書館員は単なる公務員であり、価値相対主義がもたらす図書館の量的拡大志向はレントシーキングとして解釈される。さらに、自治体の職員が自治体住民や彼らが選んだ首長に対して自律を主張し、自治体が求めたわけではない普遍的サービスを地域に提供するというのは、住民の疑問を引き起こすことだろう。これはプリンシパル・エージェント問題の枠組みにはまる。
結局、図書館利用者になんらかの方向で人的資本を形成してもらわなければ、図書館はレンタルビデオ店のように民間で運営されれればいいということになる。しかし、今になっても図書館の公営が放棄されないというは、読書の教育的効果が信じられているからであろう。私的に求める情報をただでアクセスできるからという論理では、図書館を利用し‘ない’者を説得できない。
上のような理由で、図書館と言論の自由の結びつきは、21世紀の公共図書館の運営を隘路に導くと予想される。月並みだが、価値の高い、良質な資料の提供が還るべき公共図書館の場所だと思う。