キャラウェイ高等弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた3



アマゾンで注文・購入できます。
アマゾン・ヒジャイ出版
本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします。

:掲示板
沖縄内なる民主主義19新発売中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新報社説は「内なる民主主義」がない5
キャラウェイ高等弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた3
キャラウェイ高等弁務官はAサイン制度を1962年に制定・1963年に施行した人物である。Aサイン制度を制定したことによってAサイン店は1957年の約670店から250店にまで激減した。キャラウェイ高等弁務官の厳しくなった新基準によって生活に大きな打撃を受けた住民は後を絶たなかった。キャラウェイ高等弁務官を嫌った沖縄住民は多かった。
 Aサイン制度を施行したことでもキャラウェイ高等弁務官は嫌われている。しかし、キャラウェイ高等弁務官がAサイン制度を制定した裏には琉球政府の風俗営業に対するずさんがあった。
 本土では売春禁止法が1957年4月1日に施行されたが琉球政府は売春禁止をしなかった。そして、ずさんな管理で米兵の性病は蔓延した。
 
 コザ市に米兵相手の特飲街が最初にできたのが八重島である。八重島特飲街ができたのは ,経済的な理由の他に,米兵から婦女子を守るという目的も兼ね備えていた。当時,基地周辺地域では米兵による婦女暴行,致死事件が多発していたので,基地と一般居住地域との間に緩衝地域を設けることにより,米兵の犯罪を防止しようとする動きがあり、住宅地から離れた場所にある八重島に特飲街をつくった。
米軍側も性病の媒体となる売春婦を囲い込むことができるので両者の利害が一致した。
朝鮮戦争勃発直前にできた八重島特飲街は岩山や森によって人目につきにくく、特飲街として絶好の場所だったので,住民地区から隔離され た売春街 として注 目され,当 時の沖縄の大繁華街へと発展した。
朝鮮戦争の効果もあって,八重島は1950年末頃には50軒の飲食店が軒を並べて昼夜米兵の遊場となり,1951年から1953年にかけて,ホステス300人,人口1000余人とふくれあがり,コザの「不夜城」などと呼ばれたりしていた。

1950年になると朝鮮戦争が勃発する。朝鮮戦争の戦火が激しくなるにつれて嘉手納飛行場の米兵が激増する。米兵相手の特飲街は八重島以外にも増えていった。BCストリートにも米兵達を目当てとした商店やレストランが軒を並べるようになり,コザに大きな経済効果を及ぼした。
コザの特飲街には,沖縄本島や宮古・八重山などの離島,奄美大島など各地から,生きるために職を求める女性達が集まってきた。特飲街だけに限らず,売春は日常的に行われていた。生活するために場当たり的に売春を行う「街娼」や「パンパン」「ハーニー」「密淫」と呼ばれる女性が多く存在した。
米軍側を悩ましたのが性病の蔓延だった。性病になった米兵は兵士として役に立たないから米兵に性病が蔓延すれば戦力が落ちる。米民政府の民政長官は書簡で,性病撲滅の手段として,米軍要員の居住地域を米軍施設内に制限し,住民との接触を断ち切る手段を講じるかもしれないと伝えた。米兵が街に出なくなるという経済的影響を考えるならば,住民側で性病撲滅にもっと積極的に取り組むだろうという狙いがあったからである。
米民政府の狙い通り書簡に驚いた業者は性病撲滅対策を考えるようになった。対策として出てきた意見が,八重島特飲街のように一定地域に街娼を集め、性病感染防止策として定期的に検診する「検バイ制度」を完全実施をすることであった。しかし,米軍側からすると,性病に感染した売春婦達との接触が問題であり、そのような売春婦との接触を禁じたかったので,沖縄側の応急処置のような考えと抜本的改革を求める米軍側との間では意見が違った 。

日本軍は性病の蔓延を防ぐために「娼妓取締規約」を適用した慰安婦制度を制定し、日本軍が指定した慰安所のみで売春を許可した。「娼妓取締規約」には自ら警察官署に出頭して申請すること。医師の定期的な検診を受けること、性病になれば仕事をしないことなどを明記している。性病を予防するために日本軍の慰安所では必ずサックを使用することを義務付けていた。もし、琉球政府が戦前の「娼妓取締規約」を参考にして売春規約を制定していたなら性病は蔓延しなかっただろう。琉球政府は「娼妓取締規約」のようなものを制定することもなく売春を野放しにしたのである。

売春行為によって「花柳病(性病)」が米兵たちの間に蔓延し始め,朝鮮戦争に派兵される兵士の数に影響を与えたため,これ以上の拡大を防ぐ目的から米軍はオフ・リミッツを発令した。オフ・リミッツとは,米軍人・軍属の沖縄の住民地域への立ち入りを禁止する措置のことである。米民政府公安局は1952年1月15日にオフ・リミッツを売春関係の地域に発令したのである。もし、オフ・リミッツを宣言された地域に入った全ての米軍要員には適切な懲罰措置が下されることになる。
ところがオフ・リミッツの発令目的である性病の感染防止は,その当事者であるとされた街娼などが立入禁止地区の対象外であるほかの地域へ移動してしまうので,地域を限定したオフ・リミッツの発令では,その効果が発揮されることがなかった。性病の蔓延をなくす目的のオフ・リミッツであったが効果はなかったのである。

街娼をオフ・リミッツ地域の歓楽街へ収容することが不可能であることを知った米民政府だった。米民政府はオフ・リミッツで性病の蔓延を防ぐことを諦めた。基地に依存する人々としては,オフ・リミッツ発令は死活問題であった。実際に倒産にまで追い込まれる人もいた。業者たちは早急なオフ・リミッツ解除を米軍に陳情するようになった。オフ・リミッツを解除させるために特飲街で働く特殊職業婦人の性病感染防止策である検バイ制度などの徹底を図ることを米軍に約束した。
米軍はオフ・リミッツを解除した。検バイ制度などの徹底を図ることがオフ・リミッツの解除の理由と業者側は思ったが、実はそうではなかった。オフ・リミッツでは性病の蔓延を防ぐことはできないと知ったからだった。オフ・リミッツでは出入りを禁じた地域から別の地域に街娼は移動するので街娼の売春を防ぐことはできない。オフ・リミッツでは性病防止の解決にはならないことを知った米民政府はオフ・リミッツの逆の方法を考え出した。
米軍は1953年11月に飲食店や風俗営業と12のホテル業者に米軍人・軍属が立ち入ってもいいというAPPROVED(許可済み)の営業許可証を発行した。米兵は許可済みの店だけに出入りでき、
非営業許可の店には出入り禁止にした。米兵の出入りを禁止するやり方ではなく、出入りできる店を限定したのだ。APPROVEDの頭文字がAなので営業許可済みの店をAサイン店と呼ぶようになった。
レストラン・飲食店は「赤のAサイン」,バー・クラブなどは「青のAサイン」,加 工 食 品 は「黒 のAサイン」というように3つの色で区分していた。特に飲食店に限っては「赤のAサイン」の許可表示がない店には米軍人・軍属の立ち入りを厳しく取り締まった。Aサイン制定は,設備の改善など高額な費用がかかり,また銀行の資金停止も重なり,オフ・リミッツの影響を受けた八重島特飲街の業者にとって,四苦八苦の状態になった。八重島では1956 年を境に衰退の一歩をたどる一方,入れ替わるようにして BCストリートは次第に活気が溢れるようになっていった。
ただし,A サイン制度で店の衛生環境の質に変化が生じたものの、一歩路地に入ると売春行為が続けられていた。それに民間地域の中に特殊飲食店が散在する状態であった。そして、飲酒はしないで売春のみを商売とする遊郭も登場した。それがコザの吉原である。
1953年に,東京の有名な遊郭である吉原にあやかって,吉原風俗営業組合が結成され,八重島の近くに吉原がつくられた。民間地域の中に特殊飲食店が散在する他の特飲街とは異なった独立した組合の営業によって,民家に直接悪影響を及ぼさない立 地条件を強みに、「白人相手の風俗店街」を目的に商売を始めた。しかし,1954年7月に米軍は吉原をオフ・リミッツ地域に指定した。オフリミッツが実施されて以来,吉原は苦境に立たされた。そこで,「白人相手の風俗店街」から一転して,「沖縄人相手の風俗店街」として商売をするようになった。吉原のオフ・リミッツは1955年4月に解除されたものの,その時には沖縄人相手に繁盛するようになっていた。吉原は完全に沖縄人のみというわけではなく,1956年9月頃にはポツポツと外人客が姿を見せ,琉米両方を相手に商売をしていたが, A サインなしでも米兵を入店させる店もあった。Aサイン制度の導入をしても事態は急変することに至らなかったのだ。米民政府は,Aサインの施設の数を減少させることによって,監視活動を容易にでき,認可基準を厳格にしていく考えを明らかにするようになっていく。そうなれば米兵相手の商売は大きな痛手になるだろう。
米民政府が実施しようとしていたAサインの施設の数を減らす計画は実施されなかった。それだけではない。1959年にはAサインも停止するようになった。原因は琉球政府社会局(1961年8月から厚生局)が飲食店の許可・衛生審査を適切に管理する条件の下に,当時のブース高等弁務官が未認可施設へのオフ・リミッツをすべて解除したからである。制度停止に際しては,米民政府公安局・厚生局が琉球政府の保健職員とともに検討を行った結果,琉球政府による健康・衛生・検査に関わる制度と手続きが改善・厳格化されたと評価したからである。
琉球政府による営業認可制度で米軍向け営業も十分に保証できると判断した米民政府はオフ・リミッツとAサイン制度を廃止して、飲食店営業可制度を琉球政府へ移管した。売春・性病予防対策として,オフ・リミッツを経てAサイン制度といった施策を導入したものの,売春・性病根絶を果たさないまま制度を停止して、管理はすべて琉球政府に任せたのである。しかし、 琉球政府の飲食店営業管理は米民政府の期待を裏切った。
琉球政府の飲食店営業管理になると、風俗営業関係の業者は乱立し,コザの街は性病蔓延が再び過熱していった。風紀は米民政府の期待を裏切り乱れていったのだ。それに、琉球政府の認可した施設の多くが米軍要員およびその家族の健康と福祉にとって有害なものとなっていった。

沖縄統治の最高責任者は琉球列島民政長官(極東軍総司令官)で、副長官に琉球軍司令官が任ぜられ、その補佐役に民政官がおかれていたが、1957年6月、米大統領行政命令で高等弁務官制度が施かれ、ムーア副長官が初代の高等弁務官に就任した。米民政府の最高責任者は米軍ではなく米国大統領になった。

米民政府がオフ・リミッツをしたのは性病が蔓延しないためであったが、1954年に性病対策ではなく政治的な理由でオフ・リミッツを中部一帯に敷いたことがあった。原因は米国民政府のプライス勧告だった。1954年3月にアメリカ民政府は,アメリカ側評価による地価相当額の一括払いによる永久借地権の設定を勧告した。これに対し地主は反対し、琉球立法院は,地代の一括払い反対,適正補償,賠償,および新規接収反対の4原則を打ち出した。四原則要求は島ぐるみの反対運動に発展していった。
島ぐるみ反対運動に対して、
「第30号線以北から東部の屋嘉及び西部の仲泊以南にある全住民地域及び諸施設は、無期限にわたり全米軍要員の“オフリミッツ”に設定された。この禁令は全軍要員に適当な通告を与えるため、8月8日の午前9時までは実施されない。この処置は、この地域内で計画される住民大会やデモ(示威行進)における煽動的意見、または行進の結果発生するかもしれない琉球人と米人間の衝突をさけるための予防措置としてとられたものである。」
と米民政府はオフ・リミッツ発令の警告をした。
警告した日の翌日に琉球大学の学生会を中心とした集会がコザの諸見小学校で開かれた。学生たちはデモも計画していたが、集会の途中、10数人のコザの風俗業者が、コザ市長からの要請ということでデモの中止を求めてやってきた。業者の要求でデモは中止した。しかし、反対運動はなおも盛り上がっていき、米民政府は忠告通りオフ・リミッツを発令した。そして、琉球大学の6人の学生が米民政府の圧力で除籍処分を受けた。
オフ・リミッツを発令してもプライス勧告反対島ぐるみ運動は鎮まることがなく、反対運動は4年間続いた。1958年6月、第2回土地問題渡米折衝団(当間重剛琉球政府行政主席ら)が現地で米陸軍長官と解決策を協議し、軍用地料はプライス勧告時の6倍に引き上げ、原則として地代は年払い、5年ごとに土地の評価替えをして更新することが決まり、反対運動は終わった。
 軍用地主の収入は増え、産業も復興し、米兵相手の夜の産業もどんどん発展していった沖縄はかつてないほどに経済発展していった。そして、金の亡者たちが暗躍し政治は腐敗する時代になっていった

そんな状況の中、1961年にポール・W・キャラウェイ氏が高等弁務官に任命された。

キャラウェイ高等弁務官は性病が蔓延しているのを防ぐ目的ですぐに新しい制度つくりの検討に入った。そして、新基準によるAサイン制度が1962年に制定され1963年に施行されたのである。新Aサイン制度の認可要件は,立地,建築,内装,設備,衛生,保管,冷凍,食器類,全般といった10項目からなり,各項目にさらに多くの細目が付記されていた。
新基準拠項目は,まず主要道路沿いの立地,街灯の存在,下水溝の覆い,業務地区内の立地,歩道の安全,集合店舗の禁止,地区の美貌といったAサイン店集積地区の物理的構成と外観の整備を要求し,続いて詳細な施設建設,内装,設備の条件を規定した上で、新基準を加えた。
特に注目する新基準はトイレに関する2項目であった。
「トイレは居住地区域に対して開かれていてはならず、適切な照明を備えなければならない」
「男性用と女性用に別の設備がなければならない」であった。これは当時売春が店舗のトイレと通ずる奥の部屋で行われていたことに対する措置であった。キャラウェイ高等弁務官はAサインの店舗では売春ができないようにしたのである。これらの基準はAサイン施設・区域内からの売春行為の「空間的」排除を意図するものであった。Aサイン制度は以前と比べ,物的環境において厳格な基準が設けられることとなったのである。   
キャラウェイ高等弁務官によるAサイン復活は,コザの業者を大混乱させた。というのは,新しいAサインの検査基準というのは,衛生面が重視されており,検査基準に合わせるためには何千ドルという資本金が必要になったからである。新基準によって従来までにはない高度な衛生観念を身につけることができたのだが,厳しくなった新基準を守っていない店は即オフ・リミッツが発令された。キャラウェイ高等弁務官の新しいAサイン基準は琉球政府の甘い管理になれていた業者たちの生活に大きな打撃を与えたのである。こうした厳格な新制度の適用によって,改築のための設備投資が可能であった業者のみが申請を行い,その数は1957年の約670店から250店にまで激減した。性病がなくならない限りオフ・リミッツは絶えないと判断した業者側も, 新Aサインによる衛生面を重視するようになった。そうすると,必然的にオフ・リミッツになることが少なくなった。このキャラウェイ 高等弁務-官による新Aサイン制度によって, 一挙に設備も衛生面も向上したAサイン店であった。

米兵に性病が蔓延するということは特飲街の女性に蔓延することであり、琉球政府が売春を野放しにしているということは沖縄に性病が蔓延するということである。そして、蔓延した。キャラウェイ高等弁務官がやったことは琉球政府が積極的にやるべきことであった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« キャラウェイ... 新報社説に見... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。