キャラウェイ弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた2



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新報社説は「内なる民主主義」がない5
キャラウェイ弁務官こそが沖縄社会の民主化を目指していた2



明治時代に八丈島からの開拓団が入植するまでは、大東島全島が無人島であった。南大東島の開拓を始めたのが玉置半右衛門だった。半右衛門は開拓団を募集し、その時に「30箇年の政府貸下げ期間経過後は、各耕作者に開墾した土地の所有権を与える」ことを口約束したといわれ、開拓団の人々はそれを励みに大木生い茂る亜熱帯の原生林を切り拓いていった。しかし、玉置半右衛門の病没後、南大東島が東洋製糖へ譲渡されてしまったことにより、耕作者に土地の所有権が認められない状態が戦後まで続いた。
戦前は大東島の土地はすべて製糖会社が所有していて学校教育や医療、交通制度もすべて製糖会社が運営していた。
1945年(昭和20年)終戦。南大東島も終戦までは戦争に翻弄され、空襲や激しい艦砲射撃を受けた。製糖工場が焼かれたことと、自給自足が必要となったことで、入植以来行われてきた製糖業も中断せざるをえなかった。
1946年(昭和21年)に米軍政府は製糖会社による経営という社会制度を排除し、村制が施行されて「南大東村」が誕生した。これまですべて経営する会社に頼ってきた学校教育や医療、交通制度は政府や村に委ねられることになった。新しい村づくりが始まり、村議会や婦人会、青年会も発足。郵便局や警察署も次々に設置された。南大東島の土地を所有している大日本製糖は本土に引き揚げ、大東糖業社が設立された。
新しい村が作られていく中で、島民の気掛かりは土地のことだった。村制が敷かれたとはいえ、土地は相変わらず大日本製糖の所有だったのだ。

戦前の大東島は企業が島をまるごと所有する状態だったため、通常の行政制度の適用を受けなかった。大東島諸島は行政区分としては島尻郡に属していたが、島ごとが社有地であるために、そこに生活する農民や「仲間」は形式上は社有地に仮住まいしているようなものだった。そのため、戸籍人口は一人もいないという特異な状況だった。

米軍政府によって会社員から村民となった南大東島の人々は土地の所有権を主張し1959(昭和34)年6月21日に「土地所有権獲得期成金」を結成し、国、琉球政府、民政府への陳情をくり返し訴えた。島の土地所有権を主張していた大日本製糖と村民は土地の所有権をめぐり裁判で争うことになった。 
1952年に琉球政府が設立され、行政、立法、司法の三権分立の沖縄になったから、長きにわたり解決しなかったこの土地問題は米民政府ではなく琉球政府の司法にゆだねられたのである。、しかし、59年から大東島村民の訴えは4年経過しても琉球政府は村民の土地所有権を認めるまではいたらなかった。
1961年(昭和36年)に南大東島の視察に来た時キャラウェイ高等弁務官に、島民達は半右衛門の口約束から始まったこの島の土地問題を直訴した。裁判が続く中で、キャラウェイ高等弁務官は米琉合同土地諮問委員会に調査を命じ、調査の結果、島民に土地の所有を認めた。
1964年(昭和39年)7月30日、キャラウェイ高等弁務官により島民の請求した農地や土地が無償で譲渡されることになった。島民の願いが叶えられたのである。入植から64年、南大東村にとってこの日は歴史的な日になった。歴史的な日の翌々日の1964年8月1日にキャラウェイ氏は第3代琉球列島高等弁務官を退官した。南大東村民の土地の所有権を認めたのがキヤラウェイ高等弁務官の最後の仕事になったのである。

61年に大東島の問題を知ったキャラウェイ弁務官は裁判の様子を見守っていただろう。しかし、琉球政府の裁判がもたもたして大東島の島民の立場に立っていないことに失望したキャラウェイ弁務官は退官するぎりぎりになって島民の土地の所有権を獲得させたのである。

「沖縄の自治は神話である」と言ったキャラウェイ弁務官が大東島では自治権を与えたことに不思議がる人は多い。

「アメリカによる沖縄統治の最高責任者である高等弁務官のキャラウェーは、沖縄人の自治を認めなかったにもかかわらず、大東島では農作業に従事していた人々に土地所有権を認めた。
これにより、沖縄で忌み嫌われたキャラウェーは、南大東島の沖縄人にとっては、神様のように評価されることになった。歴史の皮肉だ」
という評価が多いが、それはキヤラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話」の真意を理解していないからだ。
 キャラウェイ高等弁務官が沖縄に自治を認めなかったから「自治は神話」であるということではない。沖縄に自治権を与えても自治権は沖縄の人民のためではなく一部の人間の利権に使われてしまうからキャラウェイ高等弁務官は「沖縄の自治は神話である」と言ったのである。

 南大東島でも琉球政府が統治している状態では「沖縄の自治は神話」というのが現実であったのだ。
 米軍政府は大和製糖の支配から解放して南大東を自治村にして、南大東島の人たちに村運営権を移した。しかし、南大東の土地は大和製糖の私有であり、大東島で働いて生産する人々には私有権がなかった。それでは本当の自治村とは言えない。
 軍政府が大東村に与えた自治権ではあったが、それだけでは本当の自治村とはいえなかった。土地の所有権のない南大東村の自治はみかけであり、「南大東村の自治は神話」であった。神話から本当の自治にするには琉球政府が南大東村の人々に土地の所有権を認めることであった。しかし、琉球政府は認めるまでにはいたらなかった。琉球政府は南大東村を「自治は神話」にしたままだった。
 「南大東村の自治は神話」を排して自治を実現したのがキャラウェイ高等弁務官だったのである。

1946年 : アメリカ軍政開始により村制が施行され、製糖会社による島の支配から脱して南大東村となる。しかし、「自治は神話」の状態になる。
1964年 : 島内の耕作地の所有者が大日本製糖ではなく島民であることが最終的に確認される。
「自治は神話」が解消される。

多くの人たちはキャラウェイ高等弁務官の「沖縄の自治は神話である」を理解していない。キャラウェイ高等弁務官から見れば琉球政府が土地の所有権を認めていない南大東島村こそが自治の神話であったのだ。だから、神話を解消し、南大東村を本来の自治村にしたのである。

本土では1947年にGHQの指導の下で日本政府が行った農地の所有制度の改革を行った。
「1945年12月9日、GHQの最高司令官マッカー サーは日本政府に『農地改革に関する覚書』を送り、『数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する』ことを指示した。こ れ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を 作成、同法は1946年10月に成立した」。
この法律に基づき、不在地主の小作地のすべてと在村地主の小作地のうち広面積の小作地が政府によって強制的に安値で買い上げられ、小作人に売却された。その結果、農地に占める小作地の割合は46%から10%に減少し、地主制度は完全に崩壊した。キャラウェイ氏が南大東島村で行ったのは不在大地主から小作人である島民に土地の所有権を移すことであり「日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」GHQの農地改革と同じ行為である。それは奴隷制を徹底して許さない民主主義の原点である。
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