新報社説は「内なる民主主義」がない4



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新報社説は「内なる民主主義」がない4
1950年9月に沖縄群島知事選があった。沖縄の歴史で選挙で沖縄の首長を決めるのは1968年の行政主席選挙が初めてと思っていたが、なんとそれより17年前に知事選があったのだ。多くの県民がこのことを知らないのではないか。

沖縄群島知事選挙
1950年8月に知事公選の告示がなされた。
知事立候補者
松岡政保 沖縄民政府工務部長
平良辰雄 琉球農林省総裁
瀬長亀次郎 人民党委員長 

 立候補者に瀬長亀次郎が居たことには驚いた。知事公選があったことはことは薄々知っていたが具体的には何もわからなかった。まさか瀬長亀次郎が知事選に立候補していたとは・・・。それに三立候補の中で二人は政党に属していないで瀬長亀次郎だけが人民党という政党から出馬している。松岡政保氏は沖縄民政府工務部長という肩書であり、平良辰雄氏は琉球農林省総裁という肩書である。二人を推薦している政党がない。推薦している政党がないから二人を推薦する政党がなかったということではなく、その時の沖縄には人民党以外の政党が存在していなかったのだ。このことを知っている人は少ないと思う。知事選は軍政府が設定したものであり、沖縄側の要求によるものではなかった。沖縄戦による荒廃から立ち直っていない状況であったから政党がなくても不思議ではない。それに戦前は中央から知事を派遣していたから知事選はなかった。戦前もなかったのだから沖縄の人々には知事選は思い浮かばなかっただろう。知事選は米国流民主主義政治を軍政府が沖縄に導入したものである。だからその時の沖縄には人民党以外の政党はなかったのである。政党は知事公選以後にできる。
 人民党の実態は共産党である。共産党はロシア革命をきっかけにして社会主義革命を目指した革命党である。通常の政党とは性格が違うし。共産党は戦前から沖縄にあった。戦後米軍が統治すると共産党を容認しなかった。だから、瀬長亀次郎は共産党を人民党の名に代えたのである。本土は日本政府になると共産党を政党として容認したが米民政府が統治していた沖縄は復帰するまで共産党は容認されなかった。

選挙戦が始まった。知事の座を目指した選挙戦は熾烈をきわめ,終盤には泥仕合も演じられた。農連の監査に関連して平良候補が背任罪で告発されたり,初等学校の建設に関して松岡候補が利益誘導と非難されるなどの事態も出現した。これに対して,婦連,青連などの民間団体は,公明選挙のスローガンを掲げ,選挙浄化に乗り出した。また,軍政府もラジオや映画を活用して,選挙に関する啓蒙活動を展開した。候補者の政策に大きな争点が見出せないにもかかわらず,候補者を取り巻く人間関係をめぐって有権者の知事選挙に対する関心は,否応なく高まった。1950年 9 月,首里青年会が主催した首里での3候補による合同政見発表会で,最高潮に達した。予定時間の午後4 時までに,1 万人余りの人々が会場を埋めつくしていた。有権者の関心は高く,投票率は 88.8% に達した。
15万8000票余の得票を得て,平良辰雄が初の公選知事に選出された。(琉球銀行 250 頁)
投票率は 88.8%にも達した程に歴史的な選挙であった。しかし、多くの県民が過去に知事選があり、選挙によって知事が登場した事実を知らない。

平良氏は知事になってから、1950年10月31日、兼次佐一らと社会大衆党を結成した。当初は比嘉秀平(後の行政主席)や西銘順治(後の沖縄県知事)などの保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。社大党はやや左系であったのでその後、保守系の比嘉秀平や西銘順治が相次いで離党した。比嘉氏らは保守系の琉球民主党を結成した。のちに同党は自由民主党に合流した。保守政治家が離脱した社大党は革新色を強めていき、沖縄人民党とともに沖縄県祖国復帰協議会に加盟して沖縄本土復帰運動の中心に立っていった。

沖縄群島政府は,平良知事の就任とともに,1950年11月に発足した。新政府の誕生を祝い軍主催による知事就任式が,琉球大学本館前の広場で盛大に行なわれた。自治の門出を祝福して,多くの人々が那覇市に押し寄せ,街は戦後最大の人出となった。
知事就任式において,マクルーア軍政長官は
「沖縄の歴史において稀なこの盛典に参列するのは大きな名誉であり喜びにたえない。これまで沖縄の住民は,その政府の指導者を自らの意思で選ぶ機会を持たなかった。圧迫,隷属及び機会をほとんど与えられぬまま,数百年後の今日,沖縄の住民は,民主社会の大きな価値ある市民の権利と特権を持つ個人として浮かび出てきた。」
と祝辞を述べた。また,就任式に臨んだ平良知事は、
「我々は,自治を許される明るい希望を持つことができたが,この希望は義務と責任を自覚した自主性の充分な発揮によって果たされる。自治の責任と,財政経 済自立の義務を痛感し,軍の支援の下に軍民協力して 新沖縄の建設に邁進したい。」
との決意を表明している。こうして多大な民主的要素を賦与されて政治的に数段前進した群島政府が発足したのである。マクルーア軍政長官と平良知事の発言を見れば沖縄の民主自治政治の発展は確実のように思われる。新報社説が主張しているような米軍政府の植民地支配というのは最初からなかったのである。
 軍政府の目的は米軍基地常駐と沖縄の民主的な自治政府の樹立であった。沖縄に米軍を駐留させるか否かを決めるのは米軍ではない。アメリカ大統領である。アメリカ大統領はソ連、中国などの社会主義国家がアジアに拡大することを阻止するために、韓国、日本、フィリピンなどに米軍を駐留することを決めた。沖縄もその一つであった。
 米国は議会制民主主義国家である。植民地支配の政治はしない。沖縄を統治した軍政府は米政府の決定に従って米軍駐留の恒久化と沖縄の民主化と経済成長を目指した自治政府を設立した。軍政府が目指したのが沖縄を奄美、沖縄本島、宮古、八重山の四つの群島に分けることだった。

各群島の知事
奄美群島知事(中江実孝)
沖縄群島知事(平良辰雄)
宮古群島知事(西原雅一)
八重山群島知事(安里積千代)
各群島議会の議員定数
奄美群島議会(13名)
沖縄群島議会(20名)
宮古群島議会(9名)
八重山群島議会(7名)
 
 1945年から始まった軍政府による沖縄統治の仕上げとしての4群島の自治政府設立であった。

軍政府は1946年から1951年までに琉球に対する基金の支出は1億5000 万ドルにのぼる。このうちの90%近くが,伝染病の防遏と治安維持,経済復興に使われた。そして、残りが行政管理に使われた。
経済発展になくてはならないのが資金を提供する銀行である。米国は戦争が終わってわずか3年後の1948年(昭和23年)5月1日に琉球銀行を設立している。戦後のインフレ抑制と沖縄経済の正常な発展のために「金融秩序の回復と通貨価値の安定」を目的とし、米国軍政府布令に基づいて資本金の51%を米国軍政府が出資し琉球銀行は設立された。米国による経済援助もガリオア資金の他に,1949年にはエロア援助も加わった。1950年には琉球大学を開学した。
米軍政府は戦争が終わってわずか5年で、企業資金を準備し、琉球銀行設立、琉球大学設立して、沖縄の政治・経済の復興の準備を整えたのである。

新報社説が問題にするのは米軍基地の存在である。米軍基地が存在するゆえに沖縄は米軍に植民地支配されていると主張している。しかし、米軍政府は沖縄の経済復興、自立政治に向かうための準備をしたのであり、軍政府を引き継いだ米民政府も経済復興。自立政治を目指していた。それが米国流の政治である。米国は新報社説のいう軍事植民地支配をやろうとしたのではない。もし、植民地支配をしたかったらガリオア資金も琉球銀行も琉球大学も設立しなかったはずであるし、群島知事選挙もしなかったはずである。沖縄が民主社会になり豊かになることを目指していたからやったのである。沖縄民政府記録を見ることによってそれが理解できる。

米極東軍司令部に琉球軍政局が新設され,長官にウエッカリング准将が就任したことにともない,長官の沖縄視察が行なわれた。1948年9月来沖の目的を琉球の実情,人民の実生活,復興の必要条件などを視察するためであると述べている。また,同行の軍政局予算関係担当のフレミング主任は,戦後相当の復興救済資金を投入しているが,今回,軍政府が面目を一新した機会に,出来るだけ住民と接触して,琉球が可能な限り自給自足の態勢をとれるようにしていきたいとし,戦前から沖縄にある自立と勤勉の精神により,優れた熟練の技能を活用して,知事と協力して復興を進めたいと述べている。(沖縄民政府記録 2 49 頁) 
ウエッカリング准将は,アメリカが琉球を重視していることを視察にあたって強調した。アメリカは,琉球の住民の救済には特に力を入れてきたが,これからは援助の程度の減少が予想され,将来的には自給自足の実現が求められている。戦災による破壊の復興を進め経済的にも自立させたい。琉球軍政局の目指すところは,琉球の復興と住民の福祉の増進にある。1952 年を目途に多くの復興事業を計画しており,専門家 15 名に研究をさせている。辺戸岬の丘の上まで棚田が作られているのを見て,これからは水産業も興すべきだと述べた。(沖縄民政府記録257頁)

軍政府は沖縄の政治経済発展の準備を整えた上で群島知事選挙を行った。軍政府の計画通りに進めば沖縄は4群島の自治政府が定着し、日本復帰まで続いていた可能性がある。。しかし、現実は違った。軍政府の統治が終わると同時に群島知事制度も終わった。終わらしたのは民政府である。群島知事制度を終わらせたのは制度に大きな欠点があったからである。軍政府を引き継いだ民政府は群島知事制度を廃止して、中央自治政府を設立した。
群島政府は4群島がそれぞれ自立しているから、4群島をまとめる中央政府が必要である。群島は米国ではいえば州にあたる。しかし、群島は小さい。4群島でも米国の州よりはるかに小さい。軍政府を引き継いだ民政府は群島制度を廃止して、市町村を統治する琉球政府を設置したのである。4群島制度を引き継いでいたら4群島の上に中央政府としての琉球政府を設置しなければならなかった。すると、沖縄本島には知事を中心とした群島政府と中央政府としての行政首席、立法院、裁判所の琉球政府が存在しなければならなかった。沖縄本島に人口は集中しているし、沖縄群島政府と中央政府がダブったてしまう。人口の少ない沖縄には群島政府は必要がないと考えた民政府は群島を廃止したのである。

私たちは米国統治時代の軍政府や民政府がなにをやったかを正確には知らない。沖縄二紙や政治家、識者は批判するだけで正確な情報を伝えることがなかったからだ。軍政府、民政府がやったことを知ることができたのはネットのグーグルのお陰である。グーグルがなければ知ることができなかった。
軍政府にも民政府にも「内なる民主主義」があった。「内なる民主主義」を基本にして行ってきたことを独裁支配にしか見ることができなかった沖縄の側に「内なる民主主義」がなかったということである。
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