玉城デニー沖縄県知事 第1回「2歳から親元を離れて生活

<font size=4>玉城デニー沖縄県知事 第1回「2歳から親元を離れて生活。育ての親や地域の人たちに支えられて成長」</font>
https://select.mamastar.jp/880941


玉城デニー知事1
青い海に個性ある島々、そして南国のおいしい食べ物。以前ママスタセレクトで行った「いつか住んでみたい地域はどこ?」アンケートで、圧倒的最多だったのが、沖縄県です。ママスタセレクトでは、沖縄県の玉城デニー(本名:康裕)知事にインタビューしました。


参考:いつか住んでみたい地域はどこ?約1,400人の回答で断トツだったのは?<ママのリアル調査>
現在、沖縄県知事として活躍しながらも、プライベートでは「おじいちゃん」でもある玉城デニー知事。幼いころは、シングルマザーとして遠くで働く母とは別に、育ての母がいたといいます。インタビュー第1回は、沖縄の戦後の歩みとともにあった、知事の幼少期について伺いました。
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日本人の母とアメリカ人の父のもとに生まれるも
──玉城知事は沖縄でどのような幼少期を過ごされたのですか?


玉城デニー知事(以下、玉城知事):私は1959年10月に与那城村、現・うるま市に生まれました。沖縄は、日本が終戦を迎えた1945年から沖縄本土復帰までの約27年間、アメリカの統治下におかれていました。


私の父親は当時、沖縄の米軍基地に駐留していたアメリカ兵で、母は沖縄生まれの日本人です。母が私を身ごもっているとき、父はアメリカに帰ることになりました。母は、身重な体で長距離移動は体に負担がかかると考え、私を出産してからアメリカにわたるつもりでした。そのため私の名前をデニスと名付けたのです。


──出産後、お母様はアメリカに渡ったのでしょうか?


玉城知事:母はアメリカに行こうと思っていたようです。しかし、まわりが渡米を心配していたこと、母自身も慣れない土地で子育てをできるか不安に感じ、結局はアメリカ行きをあきらめたのです。アメリカにいる父には、手紙で別れを告げたそうです。


気の強い母は、未練を断ち切るためか、父の写真や手紙もすべて燃やしてしまったのです。だから私自身は、父の顔はもちろんのこと、どこの州の出身なのかなど、父に関する情報は一切わかりません。母に聞いても「全部忘れた」と言って教えてくれませんでした。


子育てをするほど十分な収入が得られない
──玉城知事のお母様は、シングルマザーとして子育てをされたそうですね。


玉城知事:母は女手ひとつで私を育ててくれました。私が生まれた1959年は、朝鮮戦争からベトナム戦争への移行時期で、沖縄にアメリカ軍の基地がありました。そのため沖縄には、アメリカ兵を相手にしたたくさんの飲み屋がありました。母は、飲み屋で働く女性たちの寮で、まかないを作る仕事をしていました。


ただ賃金は安く、母が必死に働いても親子2人が暮らしていくほど十分な給料を稼げなかったそうです。そのため母は与那城村にいる知人に私を預け、自分は辺野古で仕事をすることにしたのです。


母の知人=育ての母の家に預けられた幼少期
──何歳から預けられたのでしょうか。


玉城知事:2歳頃からです。与那城村から辺野古までは約50km。車で行くと片道1時間半ほどかかります。そのため母に会えるのは月1回程度。与那城村に住む母の知人は、私を実の子と同じように大切に育ててくれました。だから私には、生みの母と育ての母、2人の母がいるのです。産みの母は「アンマー」、育ての母を「おっかー」と呼んでいます。アンマーとは沖縄の方言で「お母さん」を意味する言葉です。


──寂しくはなかったのでしょうか?


玉城知事:僕は一人っ子でしたが、育ての親である知花家には、育ての母のほかに18歳年上の兄をはじめ、普段はなかなか会えないけれど、アメリカに嫁いだ姉や、金武町に嫁いだ次女がいました。近所には同じくらいの年の子たちがいたため、寂しくはなかったです。


── 何歳から産みのお母さんと一緒に生活するようになったのでしょうか。


玉城知事:小学4年生の頃です。産みの母親の生活が安定してきて、やっと一緒に暮らせるようになりました。ちょうど同じ年、家庭裁判所に申し出て名前をデニスから康裕に変えました。


私が子どもの頃は、貧しくてもみんなで助け合って生活をしてきました。沖縄では、今も貧困問題で苦労している人たちもいます。だから私は、貧困で大変な思いをしている家族が少しでも笑顔で暮らせるようにと貧困対策に力を入れています。

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東京都知事選は保守の二大政党の可能性を明確にした

東京都知事選は保守の二大政党の可能性を明確にした


 都知事選で立憲の蓮舫氏は三位になった。二位は東京では無名である広島市の石丸氏であった。知名度が高い蓮舫氏が無名の石丸氏に負けたのである。都知事選で明らかになったのは保守の二大政党が実現する可能性であった。
 都知事選の得票は、一位が小池氏で291万8015票だった。2位は石丸氏で165万8363票、3位は蓮舫氏で128万3262票だった。  
大注目することは一位と二位が保守であることだ。左翼の蓮舫氏は三位になった。知名度が高く立憲の幹部である蓮舫氏が無名の石丸氏に負けて三位になるのは考えられないことである。しかし、蓮舫氏が三位になったのは事実である。石丸氏は保守である。保守が1位と2位になったのだ。もし、衆議院の議席数であったなら、保守の二大政党が成り立つ。知事と衆議院とは性質が違うから、都知事選の結果を衆議院選に当てはめることはできない。しかし、参考にすることはできる。
 
 蓮舫氏が3位になった原因は左翼宣言をしたからだ。立憲民主党は保守の希望の党と左翼の立憲民主が合同した政党である。だから、保守と左翼が半々の政党である。立憲は保守の維新、国民と政策で連携したし、左翼の共産や民社とも連携した。保守、左翼と連携する立憲であったが、都知事選に立候補した蓮舫氏は共産、社民と強く連携した。共産党とは一体になり、左翼宣言したに等しい選挙運動を展開した。蓮舫氏の都知事選は立憲、共産、社民が一体になったと思わせる選挙運動であった。東京都民から蓮舫は共産党と同じ左翼と思われただろう。
 立憲は保守と左翼の混合政党であるが都知事選では共産党と合体した左翼とみなされたのである。いわゆる立憲共産党である。
 立憲は保守と左翼が同居している政党であるから保守を支持する都民でも立憲を支持している。共産党は違う。左翼であるから保守を支持する都民は共産党を支持しない。立憲支持の都民も共産党と一体となった蓮舫氏を支持しなかっただろう。立憲支持の半分を占める保守系は蓮舫氏に投票しなかった。だから、蓮舫氏は三位に落ちたのだ。
 蓮舫氏を三位にしたのはマスコミでもなければ政治家でもない。一般人の東京都民である。保守系の都民は左翼である蓮舫氏に投票しなかった。




1996年には共産党は26議席、社民は15議席だった。25年後の2021年には共産11議席と半分以下になり社民は1議席で15分の1になった。2021年の衆議院選では立憲も109議席から96議席と13議席も減らした。注目すべきは落選した立憲の議員のほとんどは左翼系議員だった。辻元清美代表代行も大阪の衆議院選で落選した。東京の参院選で比例復活した。
国民は保守支持がどんどん増えているのだ。だから、立憲、共産、社民の議員は減り続けている。このような時代の流れの中で都知事選があったのである。都知事選で蓮舫氏は共産、社民と合体して左翼連合をより強固にした。強固にした選挙運動であったから都民の支持は低下し、無名の新人の保守候補に負けたのである。


2021年の衆議院選そして2024年の東京都知事選ではっきりしたことは多くの国民は左翼を支持していないことである。
これからの衆議院選でも都知事選のように立憲、共産、社民の左翼連合なら大敗北するだろう。立憲は保守と左翼が同居しているから100議席に近いのだ。旧社会党のように左翼だけだったら50議席もないだろう。


都知事選ではっきりしたことは左翼を支持する都民は少ないことだ。自民党と維新などの保守政党によって二大政党ができることを都知事選は予測させる。

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東京都知事選は保守の二大政党の可能性を明確にした

東京都知事選は保守の二大政党の可能性を明確にした


 都知事選で立憲の蓮舫氏は三位になった。二位は東京では無名である広島市の石丸氏であった。知名度が高い蓮舫氏が無名の石丸氏に負けたのである。都知事選で明らかになったのは保守の二大政党が実現する可能性であった。
 都知事選の得票は、一位が小池氏で291万8015票だった。2位は石丸氏で165万8363票、3位は蓮舫氏で128万3262票だった。  
大注目することは一位と二位が保守であることだ。左翼の蓮舫氏は三位になった。知名度が高く立憲の幹部である蓮舫氏が無名の石丸氏に負けて三位になるのは考えられないことである。しかし、蓮舫氏が三位になったのは事実である。石丸氏は保守である。保守が1位と2位になったのだ。もし、衆議院の議席数であったなら、保守の二大政党が成り立つ。知事と衆議院とは性質が違うから、都知事選の結果を衆議院選に当てはめることはできない。しかし、参考にすることはできる。
 
 蓮舫氏が3位になった原因は左翼宣言をしたからだ。立憲民主党は保守の希望の党と左翼の立憲民主が合同した政党である。だから、保守と左翼が半々の政党である。立憲は保守の維新、国民と政策で連携したし、左翼の共産や民社とも連携した。保守、左翼と連携する立憲であったが、都知事選に立候補した蓮舫氏は共産、社民と強く連携した。共産党とは一体になり、左翼宣言したに等しい選挙運動を展開した。蓮舫氏の都知事選は立憲、共産、社民が一体になったと思わせる選挙運動であった。東京都民から蓮舫は共産党と同じ左翼と思われただろう。
 立憲は保守と左翼の混合政党であるが都知事選では共産党と合体した左翼とみなされたのである。いわゆる立憲共産党である。
 立憲は保守と左翼が同居している政党であるから保守を支持する都民でも立憲を支持している。共産党は違う。左翼であるから保守を支持する都民は共産党を支持しない。立憲支持の都民も共産党と一体となった蓮舫氏を支持しなかっただろう。立憲支持の半分を占める保守系は蓮舫氏に投票しなかった。だから、蓮舫氏は三位に落ちたのだ。
 蓮舫氏を三位にしたのはマスコミでもなければ政治家でもない。一般人の東京都民である。保守系の都民は左翼である蓮舫氏に投票しなかった。




1996年には共産党は26議席、社民は15議席だった。25年後の2021年には共産11議席と半分以下になり社民は1議席で15分の1になった。2021年の衆議院選では立憲も109議席から96議席と13議席も減らした。注目すべきは落選した立憲の議員のほとんどは左翼系議員だった。辻元清美代表代行も大阪の衆議院選で落選した。東京の参院選で比例復活した。
国民は保守支持がどんどん増えているのだ。だから、立憲、共産、社民の議員は減り続けている。このような時代の流れの中で都知事選があったのである。都知事選で蓮舫氏は共産、社民と合体して左翼連合をより強固にした。強固にした選挙運動であったから都民の支持は低下し、無名の新人の保守候補に負けたのである。


2021年の衆議院選そして2024年の東京都知事選ではっきりしたことは多くの国民は左翼を支持していないことである。
これからの衆議院選でも都知事選のように立憲、共産、社民の左翼連合なら大敗北するだろう。立憲は保守と左翼が同居しているから100議席に近いのだ。旧社会党のように左翼だけだったら50議席もないだろう。


都知事選ではっきりしたことは左翼を支持する都民は少ないことだ。自民党と維新などの保守政党によって二大政党ができることを都知事選は予測させる。

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