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今日(金曜日)7時30分から沖縄の真実(ニコニコ生動画)に出演する。

テーマはー「かみつくⅢ」に書いている、私の学習塾時代の体験と沖縄の学力
問題、韓国の慰安婦問題、小説「港町のスナックはてんやわんや」に書いてある
辺野古問題だ。

私は学習塾時代に赤字覚悟(確実に生徒数は少ない。実際に一クラス一人から三人であった)で「基礎学力特訓コース」をつくった。
私の思惑とは違い、「特殊学級」の知的障害の生徒だけが入り、一年で止めた。

基礎学力とはなにか。
効果ある学習指導とはなにか。
学習塾を辞めてもそのことについては追求し続けてきた。

沖縄の学力が低い原因ははっきりしているし、解決方法もはっきりしている。

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なぜ、赤松戦隊長は使者を処刑したか







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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なぜ、赤松戦隊長は使者を処刑したか


 投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。
                 《私記》私は自決を命令していない           

 敵が三十メートル近づくまで小銃を撃つのを禁じたという。米兵は弾薬が豊富であり数百メートル離れていても機関銃をどんどん撃っていた。わずか三十メートルまで引きつけるというのは兵士にとって死を意味する。三十メートルまでに見つかれば米兵の機関銃から無数の弾丸が撃ち込まれる。たとえ、米兵が三十メートル以内に入って銃を撃ち一人の米兵を倒したとしても後続の米兵に攻撃される。わずか三十メートルの距離では逃げることができない。赤松戦体長は弾薬が少ないために死を覚悟した戦いを強いられていた。
 
 赤松戦隊長は投降した過程を説明している

 十二日 ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。

十五日 夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云   のことぱが聞かれた。

十六日 払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こ   せという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連   合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。

十八日 私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令   がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。

二十四日 すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の    川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくしての武装解除の調印のはこびとなった。

 八月十六日に日本が降伏を知ったが赤松戦隊長は投降しなかった。日本軍の軍律では上官の命令でしか投降してはならない。その軍律を最後まで守ったのである。赤松戦隊長は最初から最後まで日本の軍人に徹したのだ。

 村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。
                 《私記》私は自決を命令していない

 投降までの過程を見ると、若き赤松戦隊長が徹底して軍律に従って行動したかが分かる。赤松氏の「一点のやましさもない」は信じてもいいと思う。


「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。
集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編)

住民を惨殺したというが

 第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。

 それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。
 男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。
 第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調べに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。

 陣地内の配置を米軍が知ると効率的な攻撃ができる。米軍が赤松隊の壊滅を狙って攻撃する可能性は高い。陣地内を見た島民を米軍の元に帰すことができなかったのは当然である。処刑をせざるをえなかった。
 陣地内の様子を米軍にばれるのを恐れて処刑したことを非難する識者が沖縄には多いが、それは戦争の厳しさを知らない、そして日本の軍人を軽視しているからである。軍人も人間である。軍人だから死んでもいいと考えるのは人間軽視に等しい。陣地内の様子を米軍にばれるのを恐れて処刑したことを非難することはできない。
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