満州・サイパン・沖縄の集団自決







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


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満州・サイパン・沖縄の集団自決



満州・サイパン・沖縄の集団自決

 沖縄戦では悲惨な集団自決があった。恩納村十一人、読谷村のチビチリガマなど百二十一人以上、沖縄市美里三十三人、うるま市具志川十四人、八重瀬町玉城七人、糸満市、カミントウ壕など八〇人、座間味島二三四人、慶留間島五十三人、渡嘉敷島三二九人などとされている。これは沖縄戦における住民死者九万四〇〇〇人の一%強にあたる。
 
満州でも多くの集団自決が起こっている。

〇新京看護婦集団自決 - 満州国新京でソ連軍の残虐行為に抗議した看護婦二十数名の集団自決

   昭和二十一年六月二十日の満州・新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松岡喜身子さん  (七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
   その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と“応援”に行っていた大島はなえ看護婦(二二)が、十一発もの銃  創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。
  「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人を送ってはいけません」
   大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わな  いのか…」
  だが、悪夢はその翌朝も待っていた。
   二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられ  た。
  「患者は来ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」
  「そんなはずはありません。見てきます」
  胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたき  には靴がきちんとそろえてあった。
   線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。満州赤十字の制服姿で胸に手  を当て、眠っているようだった。寝乱れないよう、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていた。
   「死んでいる…」。満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っ  ていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。

  〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉

   これにはソ連側も驚き、翌日には「日本女性とソ連兵は、ジープその他の車に同乗してはいけない」など綱紀粛正の  通達を出す。
   命と引き換えにした抗議の、ささやかな代償だった。
   一方、病院からは小さな花束が一つ贈られただけ。葬儀資金にも困ったが、張さんが「火葬、分骨して故郷の両親に  届けてあげなさい」と、一人当たり当時の金額で千円もする火葬代を払ってくれた。
  葬儀を済ませ、四十九日を迎えたころ、喜身子さんは、いまだ帰らない看護婦たちが、ダンサーをしているとうわさに  聞き、そのダンスホールへ向かった。

   名前を告げ入り口で待つと、五人が現れた。肌もあらわなイブニングドレスに濃いルージュ。いかにもダンサー然と  しているが、青ざめた顔はまるで病人のよう。
  「こんな所にいないで、早く帰ってきて」
  喜身子さんは説得するが、五人は首を横に振るばかり。ついカッとなり、「好きでこんなことをやっているの。そこま  で堕落したの」とひっぱたいた。
  すると、彼女たちは涙を浮かべ、決意を語り始めた。
  「私たちはこの体で帰れましょうか。今は一人でも多くの客をとり、この性病をソ連兵にうつして苦しめたい」
  喜身子さんは翌日、薬を手に再び訪ねた。が、看護婦である彼女たちは、自分の症状が治るものではないと知ってお   り、受け取りも拒んだ。
   二年あまり過ぎた二十三年十一月、喜身子さんらが日本へ引き揚げるとき、五人は稼いだお金を駅まで持ってきた。  「旅費にしてください」と無理やり渡し、話も交わさずに去った。そのうち三人はピストルで自殺したという。
                          青葉慈蔵尊由来記

〇敦化事件 - 満州国敦化でソ連軍の暴行に抗議した日満パルプ工業の女性たちの集団自決

   八月二十六日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入  すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡し  たり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れ  たが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。
 
   このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まること  はなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。社宅と塀  を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜  入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性た  ちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおか  れている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。ソ連  兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は八月二十七日の深夜になっても収まることはなかった。このため、二十八人の  婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった[。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣  室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持  っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、二十三人が死亡、五人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵  に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

   八月二十七日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性た  ちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ  以上の暴行は中止されることとなった。

〇真岡郵便電信局事件 - 樺太における女性電話交換手の集団自決。
   太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、  ソ連軍と日本軍の戦闘が、一九四五年八月十五日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局  では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。八月二十日に真岡にソ連軍が上陸する   と、勤務中の女性電話交換手十二名のうち十名が局内で自決を図り、九名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめ  ゆり(事件)とも呼ばれる。

〇麻山事件 - 麻山区における集団自決事件。
   太平洋戦争末期の一九四五年(昭和二十年)八月十二日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻  山区)において、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃されて集団自決した事件。四二  一人が死亡した。

〇小山克事件 - 満州国吉林省で暴民に襲われた婦女子が崖がら飛び降りた。

〇葛根廟事件 - 満州国興安総省でソ連軍に襲撃された避難民が自決した。


サイパンの集団自決

 1944年6月15日、サイパン島南西部4ヶ所に上陸した米軍(最終的には7万余人)の攻撃によって、ジリジリと島の北端に追い詰められて逃げ場を失い絶望した民間人達は、7月の8日から9日にかけて、「生きて虜囚の辱しめを受けず」という「戦陣訓」(これは、東條英機陸相が、戦時における陸軍将兵の心得を訓示したものだったが)に忠実に従い、投降を呼びかける米軍に背を向けて、太平洋に面する断崖の上から80m下の海へ、家族同士手をつなぐなどして身を投じて集団自決した場所の一つがバンザイ・クリフ(BANZAI・CLIFF バンザイの崖)。戦前は北岬と呼ばれていたが、集団自決する人々が、「天皇陛下万歳!」と叫びながら海へ飛び降りたことから、戦後、米軍兵士達によって、「バンザイ・クリフ」と名づけられ、今では、これが一般的な呼び名となっている。(なお、人々が海へ飛び降りるときの姿が、丁度、バンザイをしているように見えたことから、その名がつけられた、とする説もある)

 ここでは、その他に、手榴弾による自決、青酸カリによる服毒死、などを含めて、約2,000人が死亡したとされている。

 集団自決があったもう一つの場所は、スーサイド・クリフ(SUICIDE・CLIFF 自殺の崖)。戦前はマルピ山と呼ばれていたが、バンザイ・クリフより約1㎞南にある、その山の文字通りの北の外れは、標高250mの殆ど垂直に切り立った断崖絶壁になっていて、その150m直下には、岩場とそれに続く樹林が広がっており、人々はそこへ身を躍らせていった。ここでの死者も(バンザイ・クリフでと同じように、手榴弾などによる自決を含めて)千数百人にものぼるとされている。
 

沖縄県読谷村チビチリガマの集団自決

 三月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所にあり、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所といった意味から「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたと考えられている。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど内陸である。

 四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。
 米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。

それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。
 二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。
 前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。
前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。

 その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。
 煙で苦しんで死ぬより、アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。
 そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。
避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。
 数十人はガマを出て米軍に投降した。ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も殺されるのではないかと思っていた者もいた。

 ※※さんの思い出

 玉城※※(字儀間)

 昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。みんなは「※※ちゃん」とか「※※さん」とか呼んでいました。彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。

 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女に生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。国のためにという熱意にあふれて力強く話す姿は、今でいうと政治家の土井たか子に似ていました。

 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。

 そういった姿の一方では、彼女には女性らしい面も多くありました。戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。
 彼女は「満州」にいる恋人のことを思ってか、さびしく歌をうたったりすることもありましたが、あの姿を思い出すと今でも胸が痛くなります。でも暫くたってから、思いをふっきったのか「私は満州に行けなくなって良かった。家族の面倒がみれるから」と言っていました。

 彼女と一緒にいたのは僅かの間ですが、たくさんの思い出があります。本当に、大好きな人でした。
 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。

沖縄県読谷村集団自決を免れたシムクガマ

 なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら六〇〇m離れたシムクガマに避難した約一〇〇〇人は英語の喋れる男性の誘導で一人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は一九八三年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。読谷村の集団自決については読谷村史がWEB上で公開されている。
 シムクガマは波平又川原(マタガーバル)に洞口を開いた天然の鍾乳洞です。資料によると、「洞口はアガリシムクとイリシムクの二つあり、総延長二五七〇メートル」とあります。
 一九四五年(昭和二十)三月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約一〇〇〇人の字民がこの洞窟に避難するようになりました。
 やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、アメリカ軍は読谷山村の西海岸から怒濤(どとう)のような勢いで進撃してきて、戦車をともなったその一部は、シムクガマに迫って来ました。
 アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。
 その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時七十二歳)と比嘉平三(当時六十三歳)の二人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、一〇〇〇の人前後の避難民の命が助かったということです。
 この事実に基づいて波平では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立してあります。
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