赤松戦隊長は自決命令をしていなかった







「かみつくⅢ 」の目次
目次

維新の会が沖縄の政治を変革する  又吉康隆

生徒に一番必要なのは学力だ  三
大坂維新の会と沖縄の政党そうぞうが協定を結ぶ 一一
維新の会が沖縄の政治を変革する  一三

橋下市長と慰安婦問題  二八

関西ネットワークの大嘘はまる隠しされた  四九

ブログ・狼魔人日記  江崎孝

稲嶺名護市長、選挙違反で告発さる  七九
浦添市長選「無党派」松本哲治氏(四十五)初当選 八五

ブログ・光と影  古代ヒロシ

那覇から普天間に民間空港を移転できないか?  八八

じんじんのブログ  じんじん

米統治により、
沖縄は近代化されたことを忘れてはダメ   九三
                        
ブログ・沖縄に内なる民主主義はあるか
                     又吉康隆

二年連続教え子へのわいせつ行為ができる島・沖縄 九五


短編小説  又吉康隆
港町のスナックはてんやわんや  九九


「かみつくⅢ」は、
狼魔人日記でネット先行販売しています。
書店販売はもう少し待ってください。
申し込みはメールでできます。


ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
みなさんの意見・感想は
ヒジャイ掲示板へ

ヒジャイ掲示板


なぜ集団自決が起こったか2



赤松戦隊長は自決命令をしていなかった


 集団自決で悪名高いのが赤松戦隊長である。
 渡嘉敷島の島民には集団自決を命じたのに、自分は山の中にこもり、戦うこともしないで終戦まで生き延びた。それだけではない。米軍の使いで投降を呼びかけに行った島民を処刑した。
 これが赤松戦隊長の定説である。私もそう思っていた。臆病で自己保身のために平気で島民を殺す赤松戦隊長を私はずるい中年の男だと思っていた。新聞を読めばそう思うのが当然だ。ところが赤松隊長は中年男ではなかった。二十五歳の若い将校だった。部下はなんと十六~十八歳の特別幹部候補生だった。人数は百四名で編成していたが、開戦時には病気、事故などで百名を割っていた。
 渡嘉敷島の日本軍が二十五歳の若い将校と十代の少年兵たちであることが分かれば、新聞に書いていることを鵜呑みにしなかったかも知れない。それに彼らは○レ(マルレ)という特攻艇で敵艦にぶつかるために渡嘉敷に来た。彼らは二年近く特攻訓練をして、死ぬために渡嘉敷島にきたのだった。そういうことを知っていれば、島民に集団自決を命じたことに疑問を感じたり、終戦まで生き延びたことにも何らかの理由があるかも知れないと考えただろう。

 驚いたことに、と言っても「集団自決」に特に深い関心があるわけではなく、沖縄紙を読むだけだったのだから、驚くのは当然であるのだが、実は四十三年前の一九七一年十一月号の雑誌「潮」で赤松氏は「集団自決」について詳しく弁明している。

雑誌「潮」一九七一年十一月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
《私記》私は自決を命令していない
"極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい
赤松 嘉次  元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営

《私記》は次のように始まる。

怒号のアラシの出迎え

「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」
「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」

 耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。
 戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。
ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。
 それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。
日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。

 私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。

 いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。
                《私記》私は自決を命令していない                   

 赤松氏は肥料店を経営していた。廃墟と化した戦後の日本で生活のために必死に仕事をしていただろう。仕事に忙しくて「集団自決」の噂などを調べる余裕はなかった。沖縄の事情を知らないまま慰霊祭参列のための訪沖した赤松氏は抗議デモに遭遇し大きなショックを受けたのである。一九六九年に、警察官を蹴散らせて立法院になだれ込み「教公二法」の採決を阻止したくらい沖縄の教職員・公務員の政治運動は活発であり、政治力も強かった。教職員・公務員による激しい抗議デモに赤松氏は大きなショックを受けただろう。
赤松氏は渡嘉敷の村民の招待で慰霊祭参列のために沖縄に来た。赤松氏と村民の間には恨みつらみはなかった。むしろ親しい関係にあった。村民の心を無視したのが革新政治家や教職員・公務員の運動家たちであった。沖縄人である渡嘉敷村民の心を踏みにじったのは同じ沖縄人である。彼らは自分たちの主張を一方的にやるだけで同じ沖縄人である渡嘉敷村民の心を理解する考えは毛頭なかった。

「ここはお国を何百里・・・・ではじまる。「戦友」という歌がある。子供の頃はこの歌が好きで歌っていた。映画で「戦友」の歌詞に合わせた挿入映像の映画もあった。私は「戦友」は軍歌だと思っていたが、そうではなく放送禁止の歌だったらしい。

 戦友   真下飛泉・作詞  三善和気・作曲       

一)ここは御国を何百里 離れて遠き満州の
  赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下
二)思えば悲し昨日まで 真っ先駆けて突進し
  敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
三)ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
  にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて
四)軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
  しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾の中
五)おりから起こる吶喊に 友はようよう顔上げて
  御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙
六)あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
  それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
七)戦い済んで日が暮れて 探しに戻る心では
  どうか生きていてくれと 物なと言えと願うたに
八)虚しく冷えて魂は 国へ帰ったポケットに
  時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
九)思えば去年船出して 御国が見えずなった時
  玄界灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて
一〇)それより後は一本の 煙草も二人分けてのみ
  着いた手紙も見せ合うて 身の上話繰り返し
十一)肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ
  死んだら骨を頼むぞと 言い交わしたる二人仲
十二)思いもよらず我一人 不思議に命永らえて
  赤い夕陽の満州に 友の塚穴掘ろうとは
十三)隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって
  友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙
十四)筆の運びは拙いが 行燈の陰で親たちの
  読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく

 突然、集団自決とは関係のない「戦友」の歌詞を掲載したのには理由がある。日本軍の軍律が厳しかったことを知ってもらいたいからだ。軍律が厳しいことを知っていれば赤松戦隊長が渡嘉敷でどのような行動をとったかを想像しやすくなるからだ。
「戦友」は全体的に戦争の虚しさを感じさせる歌であるが、歌詞の四番では、軍律を破って「これが見捨てておかりょうか」と倒れた友を抱き起こしている。これは兵士として許されない行為であり、だから、軍国主義国家では放送禁止にされたのだ。「日本軍の軍律は普通であり、厳しくはない」と考えている日本軍幹部に「「軍律厳しい」の歌詞は反感を買ったということだ。それに戦いを放棄して倒れた戦友に駆け寄るような歌詞はとんでもないことであり日本軍はそのような歌詞は一切許さなかった。日本軍の軍律が厳しかったという証拠である。

「戦友」が放送禁止になったことからも分かるように日本軍の軍律は非常に厳しかった。本島にある軍本部の指揮に従わなければならない赤松戦隊長が独断で行動することは許されなかった。すべての行動は連絡ができる限り本部の許可が必要であった。また、軍の行動記録を書き残すのも義務であった。赤松戦隊長の軍隊も常に本部と通信で連絡し、現状報告をしていた。本部からの命令に従いながら赤松戦隊長の軍隊は行動をしていたのだ。

二、転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス
  勤ム隊主力整備隊一部並ニ水上勤ム隊ノ主力ハ船舶團長ノ意考ニ依リ渡嘉敷島ニ残留敵ヲ邀撃ニ訣ス

二二:二○部隊全員ヲ以テ舟艇泛水ノ作業を実施ス

 ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。
                《私記》私は自決を命令していない
 このように赤松戦隊長の舞台は本部との連絡を常時やっているし、上官が視察もやっている。赤松戦隊長の独断で行動していたのではない。

「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」
 以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。
                《私記》私は自決を命令していない
 船舶団長(大町)が艇の収容揚陸の命令に対して、赤松戦隊長は揚陸は不可能と判断して、団長に命令を取り消すように懇願したが団長は受け入れなかった。上司の命令は絶対である。だから団長の命令に従って全員で揚陸作業を行なった。だが、敵機の襲撃で揚陸できなくなり自沈した。赤松戦隊長の独断で艇を自沈したのではないことが理解できる。

作詞
作曲 作者不詳

1お国のためとは言いながら
 人の嫌がる軍隊に
 志願で出てくるバカもいる
 可愛いスーちゃんと泣き別れ
2朝は早よから起されて
 ぞうきんがけやらはき掃除
 いやな上等兵にゃいじめられ
 泣く泣く送る日の長さ
3乾パンかじるひまもなく
 消灯ラッパは鳴りひびく
 五尺の寝台わらぶとん
 ここが我等の夢の床
4夜の夜中に起こされて
 立たなきゃならない不寝番
 もしも居眠りしたならば
 行かなきゃならない重営倉
5海山とおく隔てては
 面会人とてさらになく
 着いた手紙の嬉しさよ
 可愛いスーちゃんの筆の跡

 可愛いスーちゃんの歌詞である。この歌でも日本軍は初年兵から厳しく鍛えていることがわかる。この歌も放送禁止だった。「戦友」も「可愛いスーちゃん」も私の好きな歌で昔から口ずさんでいた。厳しい軍律に反発しているある意味反戦歌だったからこの歌が好きだったが、日本軍の軍律が厳しかった証拠の歌として書くとは皮肉なもんだ。
 私は勝新太郎の大ファンで「悪名」-座頭市」「兵隊やくざ」のシリーズ映画をよく見ていた。「兵隊やくざ」は荒くれ者の勝新太郎とエリートの田村高廣が主人公だったが、新米の勝新太郎は上等兵に徹底してしごかれていた。そして、鉄砲などの手入れを怠ると「天皇陛下の賜物である鉄砲を・・・」と言ってまたしごかれた。規律を破るとすぐに鉄拳が飛んだ。娯楽映画であっても日本軍の規律が厳しく、日本軍が鉄砲から大砲まで軍需物資を徹底管理していたことは分かる。そのような日本軍の規律の厳しさを知らないから、特攻艇マルレを赤松戦隊長が自分勝手に自沈したと思うのだ。


 赤松氏は「集団自決」についても弁明している。

 自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書)

 糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。
私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。
                 《私記》私は自決を命令していない

 集団自決を命令していなかったと四十二年前に赤松氏本人が弁明している。本人の主張を完全に無視したのが頭から赤松戦隊長が自決命令を出したと決めつけている沖縄の新聞、識者、沖教祖、自治労である。
あの時赤松氏は二十六歳の若き将校であった。軍の規律に忠実にあろうとする年代である。国民を守るのが軍隊であるという精神はあったはずである。特攻攻撃をするために渡嘉敷島にやってきた若き赤松戦隊長が自分が生き残るために村民を犠牲にする考えは生まれてこなかったはずである。
 赤松戦隊長は村が米軍に占領された時に、村長と話し合って糧秣協定を結んでいる。米軍が占領している畑に侵入して芋を分け合う相談までやっている。そんな赤松戦隊長が集団自決を命令するのはあの得ないことである。

 数日前に、WEBで「《私記》私は自決を命令していない」を読み、赤松氏の軍隊の多くが十代の少年兵たちであることを知って、赤松戦隊長が玉砕覚悟の総攻撃をしなかった理由が分かった。

一、 特攻を目的に渡嘉敷島に来たので、戦闘用の武器弾薬は少なかった。
二、 米軍は渡久地から上陸したように、慶良間諸島は軍事戦略上占領する必要はなかった。だから、掃討作戦は行わなかったの      で、米軍から激しい攻撃はしなかった。
三、 特攻目的の訓練を受けた十代の兵士は戦闘能力がなかった。

 一、二、三の理由から赤松戦隊長は総攻撃をかけることも自決をすることもできないで終戦を迎えた。
渡嘉敷島にやってきた兵士のほとんどは特攻を目的に訓練されただけで地上戦の能力はなかった。兵士のほとんどは少年兵だったという。であるなら、彼らは特攻作戦のために召集された兵士たちであり、マルレを操縦して敵艦にぶつかる訓練だけを受けたはずである。
沖縄本島に向かった米艦隊を後方から攻撃する目的で赤松戦隊長率いる特攻隊は渡嘉敷島にやってきた。米軍が渡嘉敷島を攻撃するのは想定していなかった。ところが米軍は日本軍の作戦を見抜いていたかのように渡嘉敷島を攻撃してきた。そのためにマルレを全て自沈した。その時、赤松戦隊長は米軍の総攻撃を覚悟したと思う。ところが米軍は攻撃してこなかった。戦闘能力のない十代の兵士を抱え、有効な攻撃を計画できない赤松戦隊長は内心途方にくれたのではないだろうか。


 渡嘉敷島の集団自殺は三月二十九日である。まだ、沖縄戦は始まっていない。食糧物資なら本島から運べる手段があると考えるのが普通だ。それに米軍が総攻撃をかければ武器弾薬が不足し、戦闘能力のない少年兵が多いのだから玉砕する可能性のほうが高い。持久戦になるのか、玉砕するのか、それとも本島に避難するのか赤松戦隊長では判断できない状態であっただろう。そのような状態で持久戦になることを予想し、食糧確保のために島民に自決を命じることはあり得ない。
渡嘉敷島が持久戦になったのは米軍が総攻撃をしなかったのが原因だ。赤松戦隊長が、将校会議で「持久戦は必至である」と言ったのはあり得ない。それは渡嘉敷戦の結果が持久戦になったから言えることであり、赤松戦隊長の発言は戦後にねつ造されたものであるとしか考えられない。
四十二年前の「潮」に掲載された穴松氏の手記を読めば、赤松氏が自決命令を出していなかったと私は確信していただろう。
 

赤松氏は、米軍が派遣した投降勧告の使者を処刑したことについても言及している。そのことは次のブログで紹介する。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )