大田氏の琉球王朝の平和主義のまやかし

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太田氏は「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」と述べている。
太田氏の述べていることは本当なのだろうか。世界の歴史は領土争いの歴史であり、武力で勝る者が弱い者を滅ぼして領土を拡大するのが世界の歴史である。沖縄の歴史も例外ではなかった。
琉球王朝の歴史を見てみよう。
1187年頃舜天、中山(沖縄本島中部)王に即位。
1406年尚思紹父子、武寧を滅ぼして、尚思紹が中山王になる。
1416年尚巴志、北山を滅ぼす
1429年尚巴志王、南山を滅ぼして全島を統一する。
1500年八重山のオヤケ・アカハチの乱を平定。
1571年尚元王、奄美大島を征服。
1609年薩摩の島津家久が琉球に侵攻し、尚寧王を連行する。


1406年に尚思紹父子が武寧を滅ぼしたという記録がある。滅ぼしたということか暴力を用いたということであり、尚巴志王は暴力を用いて三山を統一したのだ。1406年に尚思紹父子が武寧を滅ぼしたという記録がある。滅ぼしたということは暴力を用いたということであり、尚巴志王は暴力を用いて三山を統一したのだ。三山を統一して沖縄本島は琉球王朝となる。琉球王朝になるまで武器を持った戦争を繰り返したのであり、かつての琉球の人々は武器を持ち領土争いをしていたのだ。
沖縄の過去の歴史を見る限り、太田氏のいう「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」ような歴史の証拠は1187年以後にはない。太田氏は「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」というが、そんな歴史的伝統は沖縄の歴史にはなかった。

1609年に薩摩藩の支配下に置かれた後は、琉球王朝は武器を持つことを禁じられ、戦争をする能力は奪われた。そして、薩摩藩とは話し合い交渉をするようになった。もし、太田氏が琉球王朝が薩摩の植民地になった以後のことをさして、琉球の人々は武器を持たないで話し合いで解決したというのなら、それは大きな誤解である。
薩摩に支配された琉球王朝は、「武器を持たなかった」のではなく「持てなかった」のだ。そして、話し合いで琉球王朝は薩摩藩にお願いをしたのだ。

謝名 親方は薩摩藩から起請文にサインするように強制された際に「自由なくして生きるかい無し」として、ただ1人断り処刑されている。
「自由なくして生きるかい無し」と言って謝名親方が処刑されてから、琉球王朝には自由がなくなったのである。

薩摩藩の支配下になった琉球王朝は軍事力を剥奪され、戦争をする能力はうしなわれた。
太田氏のいうように「かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌った」という歴史的な事実はないし、「いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決した」ような歴史的な証拠もない。琉球王朝が薩摩に支配されて、弱者であるがゆえに武力を行使できなかったことを隠蔽して「伝統的な平和文化を培ってきた」と太田氏は述べているにすぎない。

沖縄の多くの政治家や知識人が、かつて琉球の人々は、いかなる武器も持たず戦争を忌み嫌い、いかなる紛争をも暴力を用いずに話し合いで解決する伝統的な平和文化を培ってきた」というが、それは間違いなのだ。
学者でもある太田氏がなぜこんなみえみえの嘘をつくのか私は不思議でならない。
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