国家の第一は民主主義である。美しさとか品格はまやかしの国家論である。新聞に掲載されている論文を中心に批判する。
品格より民主そして自由
革新と正面から対峙しない沖縄自民党―それが沖縄の深刻な問題
「沖縄内なる民主主義5」(A4版・60ページ)発売中。
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ブログ 狼魔人日記
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目次
〇沖縄の狂った話1・・・琉球民族主義は民族差別主義だ
〇沖縄の狂った話2・・・米軍がいるから戦争に巻き込まれるは妄想
〇ブログ
「狼魔人日記」より・・・末松氏大敗の意味
〇彼女は慰安婦ではない 違法 少女売春婦だ2
〇「狼魔人日記」河野談話撤回の好機!
〇「狼魔人日記」と「沖縄に内なる民主主義はあるか」は島袋氏を応援したけれど
〇名護市民は「県外移設」が不可能であることを証明した
〇ブログ
沖縄に内なる民主主義はあるか 沖縄の識者の腐敗
「県民金で転ばぬ」というが
〇軍命令はなかったのに なぜ集団自決は起こったのか
〇特別寄稿・ドキュメント
集団自決を追って 星雅彦(作家)
〇バーデスの五日間
裏表紙です。名護市街地は辺野古から10km離れています。しかも、間には山があります。
辺野古が安全であり、普天間基地がいかに危険であるかは写真を見れば一目瞭然です。
この事実を多くの人に知ってもらいたいと思って、このような裏表紙にしました。
買わなくてもいいから、裏表紙を見てほしい。
この三つの写真を見ても、辺野古移設に反対するのは「命どぅ宝」の精神が欠けている証拠です。
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革新と正面から対峙しない沖縄自民党―それが沖縄の深刻な問題
翁長雄志那覇市長が十三日の記者会見で、十一月の知事選に向け県政野党五団体でつくる候補者選考委員会から出馬要請や意見交換などを求められた場合の対応について「(話があれば)当然聞いて、政治家として、あるいは那覇市長として市民・県民と話し合ったことを踏まえて意見交換する。私の考えを申し上げながら話し合いたい」と話し合いに前向きに応じる姿勢を見せた。
それは翁長市長の知事選出馬宣言とみていいだろう。
県知事になるのが翁長市長の悲願である。県知事になるためには手段を選らばない、保守としての理念も捨てる。それが翁長雄志という政治家である。
革新の売りであるオスプレイ配備反対を掲げ、「オール沖縄」を主張し、県民大会、東京行動の先頭に立ったのは革新との対立をうやむやにして、那覇市長選に勝つためであった。翁長氏の狙い通り、翁長氏との対立点を見いだせない革新側は対抗馬を立てることができなくて翁長氏が圧勝した。その勢いに乗って県知事選で勝利するのが翁長氏の筋書きであった。
しかし、順風漫歩だった翁長市長の県知事への道に狂いが生じた。
民主党政権から自民党政権に代わり、安倍氏が首相になり、普天間飛行場の辺野古移設を強行したことである。これは翁長氏にとって想定外だっただろう。辺野古移設が来年であったなら、翁長氏の思惑通り、「県外移設」「オール沖縄」を看板にして知事選に立候補し、当選していただろう。
知事になって数年後に自民党本部と和解して辺野古移設を認めるというのが翁長氏の筋書きだったと私は思っている。
選挙に勝つためには革新との争点をぼかすやり方が政治理念のない自民党の戦術であり、その戦術をけん引してきたのが翁長氏であった。
仲井真知事が最初に知事選に立候補したときの選挙公約をあなたは覚えているだろうか。なんと、「普天間飛行場の三年以内閉鎖」であった。糸数革新候補が公約にしたのをそっくり真似たのだ。保守政党が三年以内閉鎖を公約にするのは驚きであるが、沖縄自民党は選挙に勝つためには兵器でこんなことをやる。そして、当選すれば公約をうやむやにしていくのだ。
二回目に立候補した時には「普天間飛行場の県外移設」を公約にした。辺野古移設を主張し続けてきた仲井真知事は「県外移設」に反対したが、選対委員長である翁長氏が「県外移設」を公約にしないと選挙に勝てないと主張し、強引に「県外移設」を公約にした。そして、仲井真知事は圧勝した。
革新側との対立点をうやむやにして選挙に勝つのが沖縄自民党の常套手段であったし、その戦術で知事選、那覇市長選は圧勝してきた。
ただ、この選挙戦術で勝利するには条件がある。公約が現実問題にならないことである。「米軍基地の三年以内閉鎖」は非現実的であり、仲井真氏が知事になって三年経過した時、誰も問題にしなかった。
辺野古移設も現実問題にならなければ、「県外移設」が公約として使え、翁長知事誕生が実現していた。
しかし、安倍政権は辺野古移設を現実問題にした。県外移設を主張していた国会議員を辺野古移設容認に変更させ、辺野古移設は現実となった。同時に、翁長氏が主張し続けて沖縄二紙の紙面に絶えず掲載していた「県外移設は県民総意」が消えた。
安倍政権の辺野古移設推進が、保守も革新も「オール沖縄」に巻き込んで知事選に勝利するという翁長氏の方程式を打ち砕いたのである。県外移設を主張し続けた翁長市長が自民党から立候補する可能性はなくなった。
ところが、深刻な人材不足に悩んでいる革新側が翁長氏擁立に動いた。
「革新側からすれば私が一番の敵だと思う。その私を候補の一人として挙げたのは、やはり地殻変動がじわりじわりあるのではないか」と改めて指摘。「従来のオール沖縄は、建前としては皆持っている。(知事選はしがらみを抜きにして考えている方が、どのように判断するかが一番大きな問題になる)との見方を指摘した。
沖縄タイムス
翁長市長がいうように地殻変動がじわりじわりあるのは確かである。しかし、地殻変動の原因は翁長市長が思っていることとは違う。
沖縄で地殻変動は起きている。それが表面化したのは二〇一二年(平成二四年)二月に行われた宜野湾市長選だった。知事選に敗れたとはいえ、宜野湾市長の経験があり、知名度が抜群の伊波洋一氏が楽勝であると誰もが思っていた。ところが新人で無名に近い佐喜眞淳 (47) 氏が勝ったのだ。
佐喜眞淳 47 無所属 新 自由民主党、公明党、新党改革 推薦
○22,612票 50.60%
伊波洋一 60 無所属 元 日本共産党、社会民主党、沖縄社会大衆党 推薦
○21,712票 49.40%
宜野湾市長選の佐喜眞淳氏の当選は地殻変動が起きている証拠だった。これをきっかけに沖縄自民党は保守政党の理念をしっかりさせて革新と対峙するべきであっただろう。しかし、沖縄自民党のリーダー的存在である翁長市長は、革新と対峙するのではなく、革新の主張を取り入れて革新との対立をうやむやにして仲良くする方法を選んだ。
それがオスプレイ配備反対の陣頭指揮を執り、「オール沖縄」の旗を掲げて県民大会、東京行動の先頭に立ったことである。そして、辺野古移設に反対して県民総意は県外移設である主張した。それは革新の主張を取りいれて争点をぼかして那覇市長選に勝つための戦術であった。翁長市長の戦術は成功し、翁長市長との対立軸を見つけることができなかった革新は対立候補を立てることができなくなり、翁長市長が圧勝した。
翁長市長の選挙戦術は革新の弱体化に一役買ったのは確かである。しかし、それとは違う大きな波があり、県民の革新離れは起きている。
本土では共産党・社民党の衰退が続き、維新の会、みんなの党、結の党などの保守政党が台頭してきて保守の二大政党時代が築かれようとしている。
もう、資本・民主主義かそれとも社会主義かという冷戦時代の政治対立は終焉している。国民からの支持をうしなってきた社会主義政治は衰退し、これからは資本・民主主義をどのように発展させていくかの時代になっている。本土ではそれが顕著になっている。野党の保守政党がひとつの政党にまとまれば新しい二大政党時代の始まりだ、沖縄でもその流れが押し寄せているのだ。
県知事選、宜野湾市長選、浦添市長選、石垣市長選、沖縄市長選で保守系が勝利したのを見れば沖縄も本土の流れが押し寄せ地殻変動が起こっていることを感じることができる。
地殻変動は地殻変動でも保守と革新が融和する地殻変動ではなく、革新が衰退し保守・民主主義が台頭している地殻変動である。
残念なことに沖縄自民党はそのことに気付いていない。それどころか、革新に洗脳されている。県外移設を主張し、辺野古移設に反対し、米軍基地が返還されたほうが沖縄経済は発展すると信じている自民党政治家がなんと多いことか。仲井真知事も県外移設が早いなどとぼけ老人になったのかと危惧する発言を繰り返していた。
十一月の県知事選で翁長市長が革新の推薦で立候補した時、保守と革新の矛盾が噴出する。しかし、その矛盾を突くことが沖縄自民党にできるだろうか。
翁長市長は安保を認め、米軍の日本駐留を認めている。だから県外移設を主張してきた。しかし、共産党と社民党は安保廃棄であり、米軍の日本駐留に反対である。だから、普天間飛行場は閉鎖・国外撤去を主張してきた。
翁長市長が県外移設を主張すれば共産党・社民党は米軍の日本駐留を認めたことになる。政治理念が180度転換することになる。翁長市長が共産党と社民党の主張を取り入れれば県外移設を止め、安保廃棄に賛成することになる。保守政治家から革新政治家に転身しなければならない。
翁長市長を担ぎ出したい革新は、妥協案として辺野古移設反対だけを主張して、県外移設、閉鎖・撤去を封印しようとしているようだが、そうなった時に自民党は翁長氏を攻撃することができるだろうか。
「翁長候補は辺野古移設反対といっているが、賛成か反対かが本当の問題ではない。普天間飛行場をどうするかが問題だ。県外移設なら何十年も後になる。閉鎖、国外撤去ならいつになるかわからない。辺野古移設に反対するということは普天間飛行場の固定化を主張するのと同じである。翁長候補は普天間飛行場の固定化を主張している」
と革新と手を結んだ翁長候補を徹底して攻撃しなければならないと思うが、果たして沖縄自民党にそれができるだろうか。
尖閣は我が国の領土だと領海侵犯を繰り返し、ベトナム、フィリピンの諸島は侵略している中国を見れば多くの県民は米軍が沖縄駐留していることを理解するだろう。
沖縄自民党が保守として真っ向から革新と対峙することができないどころか革新に洗脳されている。それが沖縄の深刻な政治問題である。
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うらそえ文藝問題は大阪の中学校内人事を教員が決めるのと同じ
うらそえ文藝問題は大阪の中学校内人事を教員が決めるのと同じ
うらそえ文藝で星編集長の対談の第二部をカットすることを編集委員の圧倒的な多数でカットすることを決めた。そして、民主主義のルールに従って決めたのだからカットするのが当然であるから星編集長にカットするように強引に迫っている。これは大阪府で明らかになった校内人事を教員が選挙で決めるのと同じである。
校内人事を教員が選挙 市教委「不適切」として全校調査へ 大阪市生野区の市立中学校
大阪市立巽中学校(生野区)が教務主任などの校内人事に関し、教員の選挙で決めるとする独自の規定を設けていたことが9日、市教委などへの取材で分かった。学校教育法は校内人事を校長の権限と定めているが、同校では平成24年度まで実際に規定に基づき選挙が行われていた可能性があるという。市教委は「不適切だ」としており、同様の規定が他校でもあるとみて、全市立学校約460校を調査する方針を決めた。
市教委関係者によると、同校では「校内人事に関する規定」で、「民主的な校内人事」を目的に教員が選挙管理委員会を設置し、教務主任や生徒指導主事、学年主任を選出し、その結果に基づき校長が任命すると定められていた。担任についても校長は教員でつくる調整委員会と協議して決めるとしている。
規定は昭和52年に改定されており、30年以上の長期にわたり存在してきたとみられる。学校関係者によると、平成24年秋に校内人事を決める際にも適用され、教員は名簿の中から適任だと思う人物の名前に丸印をつけたという。
校長公募で25年4月に着任した民間出身の北角(きたずみ)裕樹校長(38)が問題視。市教委に問い合わせたところ「不適切」と回答があり、規定の適用をやめた。
北角校長と教員らは学校運営などをめぐり関係が悪化。市教委事務局は3月、学校業務を停滞させたとして、北角校長を更迭する議案を教育委員会議に提出した。しかし、教育委員は「校長だけに責任があるのではない。今後も課題解決にあたってもらった方がいい」などとして、全会一致で留任を決めた。
産経ニュース2014年4月9日
「民主的な校内人事」を名目に教員が学校を支配している。もし、校長を公募しなければ、ずっと表には出ないで教員による学校支配が続いていた。これは大阪府だけではないだろう。全国的に教員による校内支配は存在しているはずだ。
校内人事案の教員間選挙、大阪市立61校が明記
大阪市生野区の市立中学校が校内人事案を教員間の選挙で決める規定を設けていた問題で、市教委が独自の人事規定を持つ市立学校(101校)を調査したところ、61校の規定に教員間の選挙が明記されていたことがわかった。
校内人事を校長の権限とする学校教育法に違反するとして、市教委は近く、問題のある規定を廃止させる方針。
調査ではほかに、30校で校長をメンバーに入れずに校内人事案を決める「人事委員会」の設置が定められていたことも判明。選挙と人事委員会の両方が明記されていた学校もあった。他に校長の権限を制限する問題がなかったか、今後さらに調べる。一方、9校については問題なかったという。
また、市教委の調査で44校に職員会議に関する規定があることもわかっていたが、このうち35校が様々な校務について会議で議決すると定めていたことが新たに判明。同法では職員会議を校長の補助機関に過ぎないと位置づけており、市教委は議決が校長の学校運営に影響を与える恐れがあるとして問題視している。
読売新聞 5月11日(日)
沖縄の学校でも大阪市と同じことが起きていて、うらそえ文藝の編集委員たちはそれを真似た可能性が高い。
沖教祖・自治労の支配は根強い。全国一学力が低くても沖教祖が教育の実権を握っているから教育改革はできない。
星編集長の後を継いだ新しい浦添文化委員長は革新系であり、浦添の文化がもっと左傾化していくだろうと星編集長は話している。
星編集長が潰されるか否かはこの一週間で決まる。
うらそえ文藝で星編集長の対談の第二部をカットすることを編集委員の圧倒的な多数でカットすることを決めた。そして、民主主義のルールに従って決めたのだからカットするのが当然であるから星編集長にカットするように強引に迫っている。これは大阪府で明らかになった校内人事を教員が選挙で決めるのと同じである。
校内人事を教員が選挙 市教委「不適切」として全校調査へ 大阪市生野区の市立中学校
大阪市立巽中学校(生野区)が教務主任などの校内人事に関し、教員の選挙で決めるとする独自の規定を設けていたことが9日、市教委などへの取材で分かった。学校教育法は校内人事を校長の権限と定めているが、同校では平成24年度まで実際に規定に基づき選挙が行われていた可能性があるという。市教委は「不適切だ」としており、同様の規定が他校でもあるとみて、全市立学校約460校を調査する方針を決めた。
市教委関係者によると、同校では「校内人事に関する規定」で、「民主的な校内人事」を目的に教員が選挙管理委員会を設置し、教務主任や生徒指導主事、学年主任を選出し、その結果に基づき校長が任命すると定められていた。担任についても校長は教員でつくる調整委員会と協議して決めるとしている。
規定は昭和52年に改定されており、30年以上の長期にわたり存在してきたとみられる。学校関係者によると、平成24年秋に校内人事を決める際にも適用され、教員は名簿の中から適任だと思う人物の名前に丸印をつけたという。
校長公募で25年4月に着任した民間出身の北角(きたずみ)裕樹校長(38)が問題視。市教委に問い合わせたところ「不適切」と回答があり、規定の適用をやめた。
北角校長と教員らは学校運営などをめぐり関係が悪化。市教委事務局は3月、学校業務を停滞させたとして、北角校長を更迭する議案を教育委員会議に提出した。しかし、教育委員は「校長だけに責任があるのではない。今後も課題解決にあたってもらった方がいい」などとして、全会一致で留任を決めた。
産経ニュース2014年4月9日
「民主的な校内人事」を名目に教員が学校を支配している。もし、校長を公募しなければ、ずっと表には出ないで教員による学校支配が続いていた。これは大阪府だけではないだろう。全国的に教員による校内支配は存在しているはずだ。
校内人事案の教員間選挙、大阪市立61校が明記
大阪市生野区の市立中学校が校内人事案を教員間の選挙で決める規定を設けていた問題で、市教委が独自の人事規定を持つ市立学校(101校)を調査したところ、61校の規定に教員間の選挙が明記されていたことがわかった。
校内人事を校長の権限とする学校教育法に違反するとして、市教委は近く、問題のある規定を廃止させる方針。
調査ではほかに、30校で校長をメンバーに入れずに校内人事案を決める「人事委員会」の設置が定められていたことも判明。選挙と人事委員会の両方が明記されていた学校もあった。他に校長の権限を制限する問題がなかったか、今後さらに調べる。一方、9校については問題なかったという。
また、市教委の調査で44校に職員会議に関する規定があることもわかっていたが、このうち35校が様々な校務について会議で議決すると定めていたことが新たに判明。同法では職員会議を校長の補助機関に過ぎないと位置づけており、市教委は議決が校長の学校運営に影響を与える恐れがあるとして問題視している。
読売新聞 5月11日(日)
沖縄の学校でも大阪市と同じことが起きていて、うらそえ文藝の編集委員たちはそれを真似た可能性が高い。
沖教祖・自治労の支配は根強い。全国一学力が低くても沖教祖が教育の実権を握っているから教育改革はできない。
星編集長の後を継いだ新しい浦添文化委員長は革新系であり、浦添の文化がもっと左傾化していくだろうと星編集長は話している。
星編集長が潰されるか否かはこの一週間で決まる。
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うらそえ文藝編集委員会議に乗り込んだ
うらそえ文藝編集委員会議に乗り込んだ
うらそえ文藝の編集委員たちは、四月三十日の編集委員会議で七対一の圧倒的多数で星編集長の仲程元琉大教授との対談の第二部をカットすることを決めた。
しかし、星編集長はカットしないことを主張し、編集委員と星編集長の対立が続いている。
昨日、五月九日に編集委員会議があることを聞いた私は、うらそえ文藝の会員として、二部カットに賛成する理由を書いてもらおうと編集会議が始まる前に乗り込んだ。
編集長の対談の後半をカットするということは重大問題である。会員は編集委員が反対する理由を知る権利がある。
私は編集委員に理由を聞き、私が準備した用紙にそれぞれの理由を書くように要求した。私は編集委員が書いた理由を全会員に通知すると宣言した。
編集委員は書くことを拒否した。しばらく押し問答が続いた。押し問答の中である編集委員がカットする理由を言った。二部は対談の題名にそぐわない内容であること、沖縄の文学の話であるはずなのに集団自決の話をした。特定の人物を傷つけているというのがカットする理由であるという。
部会長である垣花譲二氏は二部カットを画策した中心人物であるが、彼は、星編集長とは今までも色々なことがあったからなどと弁解した。
彼らのいう理由は全然カットする理由にならない。
カットは読者に読ませないことであり、明らかな言論封殺である。彼らがやっていることは思想が違う人間の言論を封殺することである。戦前の言論弾圧と同じ思想だ。
編集委員は公務員や教員出身者で占められている。いわゆる革新系の思想の人たちであり、慶良間の集団自決は軍命令があったと主張している連中である。それに対して、星編集長は集団自決に軍命令はなかったと主張している。
対談の二部では集団自決に軍命令はなかったと星編集長は発言している。革新系の編集委員たちは星編集長の主張を封じ込めるのか目的なのだ。
私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」がボーダーインク、沖縄タイムス、南山舎に自費出版を拒否されたことを言い、言論封殺には絶対反対であり、このことはうらそえ文藝の会員として全会員にも知らせると話した。
すると一人の男性が私はまだ会員ではないと言った。一月に申し込み書とお金を払ったのにだ。
どうやら星編集長の紹介で入会をした私をうさんくさい人間に思ったのだろう。編集委員の幹部は私の入会を引き延ばしていたのだ。卑劣な連中である。
会員ではないと言われたらそのまま居座ることもできないので、星編集長の対談の二部カットについては徹底追及すると言って私はその場から去った。
星編集長に電話して事情を話し家に帰ろうとしたら、もう少しで到着するので待ってくれと頼まれた。
星編集長が到着し、事情を話すと、一緒に行って編集委員会議を傍聴してくれと頼まれた。
私は星編集長と編集委員会議に行った。私が傍聴をしたいと言い、星編集長は賛成したが垣花部会長が断った。編集委員会議は垣花部会長が権限を握っていて星編集長の主張は却下されて私は出ていかざるをえなかった。
うらそえ文藝の編集委員会議が傍聴を許さない秘密会議であるとは驚きである。文学は表現の自由を重んじイデオロギーや政治の圧力があってはならない。だから、編集会議はオープンであるのが当たり前だ。
しかし、うらそえ文藝の編集委員会議は非公開であるのだ。原因は革新イデオロギーで星編集長に圧力をかける会議であるからだ。
表現の自由であるべきはずのうらそえ文藝は、いまや革新イテオロギーの巣窟となっているのだ。
星編集長の孤独な闘いが続いている。対談の二部がカットされるかされないか。今が正念場だ。
うらそえ文藝の編集委員たちは、四月三十日の編集委員会議で七対一の圧倒的多数で星編集長の仲程元琉大教授との対談の第二部をカットすることを決めた。
しかし、星編集長はカットしないことを主張し、編集委員と星編集長の対立が続いている。
昨日、五月九日に編集委員会議があることを聞いた私は、うらそえ文藝の会員として、二部カットに賛成する理由を書いてもらおうと編集会議が始まる前に乗り込んだ。
編集長の対談の後半をカットするということは重大問題である。会員は編集委員が反対する理由を知る権利がある。
私は編集委員に理由を聞き、私が準備した用紙にそれぞれの理由を書くように要求した。私は編集委員が書いた理由を全会員に通知すると宣言した。
編集委員は書くことを拒否した。しばらく押し問答が続いた。押し問答の中である編集委員がカットする理由を言った。二部は対談の題名にそぐわない内容であること、沖縄の文学の話であるはずなのに集団自決の話をした。特定の人物を傷つけているというのがカットする理由であるという。
部会長である垣花譲二氏は二部カットを画策した中心人物であるが、彼は、星編集長とは今までも色々なことがあったからなどと弁解した。
彼らのいう理由は全然カットする理由にならない。
カットは読者に読ませないことであり、明らかな言論封殺である。彼らがやっていることは思想が違う人間の言論を封殺することである。戦前の言論弾圧と同じ思想だ。
編集委員は公務員や教員出身者で占められている。いわゆる革新系の思想の人たちであり、慶良間の集団自決は軍命令があったと主張している連中である。それに対して、星編集長は集団自決に軍命令はなかったと主張している。
対談の二部では集団自決に軍命令はなかったと星編集長は発言している。革新系の編集委員たちは星編集長の主張を封じ込めるのか目的なのだ。
私は「沖縄に内なる民主主義はあるか」がボーダーインク、沖縄タイムス、南山舎に自費出版を拒否されたことを言い、言論封殺には絶対反対であり、このことはうらそえ文藝の会員として全会員にも知らせると話した。
すると一人の男性が私はまだ会員ではないと言った。一月に申し込み書とお金を払ったのにだ。
どうやら星編集長の紹介で入会をした私をうさんくさい人間に思ったのだろう。編集委員の幹部は私の入会を引き延ばしていたのだ。卑劣な連中である。
会員ではないと言われたらそのまま居座ることもできないので、星編集長の対談の二部カットについては徹底追及すると言って私はその場から去った。
星編集長に電話して事情を話し家に帰ろうとしたら、もう少しで到着するので待ってくれと頼まれた。
星編集長が到着し、事情を話すと、一緒に行って編集委員会議を傍聴してくれと頼まれた。
私は星編集長と編集委員会議に行った。私が傍聴をしたいと言い、星編集長は賛成したが垣花部会長が断った。編集委員会議は垣花部会長が権限を握っていて星編集長の主張は却下されて私は出ていかざるをえなかった。
うらそえ文藝の編集委員会議が傍聴を許さない秘密会議であるとは驚きである。文学は表現の自由を重んじイデオロギーや政治の圧力があってはならない。だから、編集会議はオープンであるのが当たり前だ。
しかし、うらそえ文藝の編集委員会議は非公開であるのだ。原因は革新イデオロギーで星編集長に圧力をかける会議であるからだ。
表現の自由であるべきはずのうらそえ文藝は、いまや革新イテオロギーの巣窟となっているのだ。
星編集長の孤独な闘いが続いている。対談の二部がカットされるかされないか。今が正念場だ。
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星雅彦氏は一九七一年に軍命はなかったことを書いていた
星雅彦氏は一九七一年に軍命はなかったことを書いていた
「沖縄内なる民主主義5」の「軍命はなかったのになぜ集団自決は起きたか」から転載した。
星氏が軍命令はなかったことをすでに知っていたことが分かる。
集団自決について掲載しているサイトを探していたら、偶然、星雅彦氏が一九七一年に書いた「集団自決を追って」を掲載しているサイトを見つけた。「集団自決を追って」を読んで驚いたのは、集団自決は軍の命令ではないと書いてあることだった。一九七一年は前の年に「沖縄ノート』(著者:大江健三郎)が出版されて「集団自決」は軍命令であったと沖縄の人たちに広がっていた時である。その時に、軍命令はなかったことを沖縄の作家が書いていたのだ。驚くべき事実である。
私はWEBで「集団自決を追って」の出所を調べた。すると一九七一年十一月号の雑誌「潮」に特別企画・「沖縄は日本兵に何をされたか 」に掲載されていたことをつきとめた。同時に掲載してあったのが前号の「沖縄内なる民主主義4」に掲載した赤松嘉次氏 (元海上挺進第三戦隊長)の「私は自決を命令していない」である。前号でも赤松戦隊長が自決命令を出していなかったことを証明したが、星雅彦氏の「集団自決を追って」でも赤松戦隊長が自決命令を出していないことを書いている。それだけではない。赤松隊長が自決命令を出していなかったにも拘わらず村民が集団自決をしたいきさつも書いてある。非常に貴重なドキュメントである。
私は星雅彦氏にお願いして、「集団自決を追って」をこの本に掲載させてくれるようにお願いした。星さんは快諾してくれた。それだけでなく、「雑感」を書いてくれた。
雑感
私が沖縄戦に関心を抱き、執筆するようになったのは、一九六九年の夏頃からだ。県資料室長の名嘉正八郎から「沖縄県史」戦争記録の仕事の依頼を受けたのがきっかけである。早速「沖縄県史第九巻 沖縄戦記録1」に収めるための録音・テープお越し、文章化の仕事などに取り掛かった。
そのためには事務局の方でセットした各市町村へ出向き、戦争体験者たち数人が区長宅へ集められ、座談会形式で戦争体験を収集するところから始めなければならない。
多くの話者は痛ましい話ながら坦々と語ったが、ためらいがちに訥々と語る人や、思い出しながら切羽詰って涙ながらに語る人も居た。それでも話し終わった人々の顔は、すっきりとした安堵感が漂っていたと思う。
現在も証言集の作成は続いているが、四十年前とはかなり違っているようだ。昨今、戦争の話の中に政治やイデオロギーが絡み合って複雑な話し手の心境が伺えるのだ。
例えば、何かの話の内容に疑惑が入り込んでいたり、虚構性の対象にされたりする。事実らしく書いてあっても事実でない場合があったり、嘘っぱちを書いていながら、事実として受け取られる場合が少なくない。
その点からすると、昔の「潮」(一九七一年十一月号)に私が執筆した「集団自決を追って」は率直そのままの記録だと思う。ただ、周辺の革新系の友人たちに多少気兼ねがあったようで、ふがいなくも私は若干逃げ口上を記してしまった。「悲劇の再現とは、口はばったい言い種である。ただひたすら二十六年前(一九四五年)の悪夢を想像してみたままである」と付記したが、それでもその説話スタイルの中に真実が込められているだろうと自負している。
数年前のある日、大田昌秀氏から電話があって、「あの内容は現地で調べて書いたのか」と問われた。私は「泊りがけで調べました」と答えた。大田氏との対話はそれっきりである。
集団自決を現地で調べた私には一種の使命感があった気がする。
星雅彦
雑誌「潮」一九七一年十一月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
集団自決を追って
ドキュメント
集団自決を追って
星雅彦(作家)
(本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら二十六年前の悪夢を想像してみたまでである)
目次
砲弾とどろく渡嘉敷島
米軍上陸で動揺する村民
闇の雨中を西山盆地へ集結
"玉砕するしかない"
「みんな一緒に死のうね」
修羅場と化した西山盆地
二十六年前(一九四五年)に、沖縄戦の最初の上陸地点、慶良間列島の中の渡嘉敦島で、想像を絶するような陰惨な悲劇があった。それは、日本の末端の皇国の民の、玉砕という名のもとに引き起こした"集団自決。である――
砲弾とどろく渡嘉敷島
集団自決があったのは、前夜の雨がやんだ後のくもり空が、茂った木の葉の間から見える西山盆地の雑木林の中で、三月二十八日の午後一時ごろだった。
三月二十三日には、初めての本格的な空襲で、村の役場や郵便局が焼けたので、ほとんどの村民はそれぞれの壕に避難したり、荷物を運んだりした。二十四日も空襲で、二十五日には、艦砲射撃も加わって、島は遠く近く砲弾のとどろく音と地鳴りにあけくれた。
夜になって、無気味な静けさの中で、防衛隊が二人、壕の入口まできて、ウシ(三十七歳の主婦)に向かって「阿嘉島にアメリカーが上陸したそうだ」「阿嘉島の人たちは、みんな玉砕したそうだ」と知らせてくれた。三人の子供をかかえたウシは、この渡嘉敷島の暗い運命を予感して、大変なことになったと思った。
古波蔵村長(三十三歳)は、在郷軍人であった。このさい、日本軍に協カして戦いたい気持ちもあったが、日本の特幹隊は遠くトカシクに本部をおいていて、すぐに行けもせず、また彼は家族といっしょに壕に避難していたので、家族のことも気になって、何度も壕を出たりして、若い青年たちを走らせ情報をキャッチすることに努めていた。が、阿嘉島がやられているとは聞いたが、玉砕したとは聞いてなかった。
安里駐在巡査(二十九歳)は、沖縄本島に妻子を置いて単身一月下旬に赴任したばかりで、島の地形も日本軍のこともよくわからなかった。しかし彼は二、三日前から、赤松隊長を探し出すために、トカシクの山の中を歩き回っていた。日本軍の動きはあわただしく、阿波連に向かって移動していたので、馴れぬ山道をあっちこっち歩いたが、二十五日も二十六日も赤松隊長には逢えなかった。
大本営からの阿嘉島は玉砕した(注.誤報であった)という情報は、安里巡査の耳にも入っていた。誰から聞いたかは憶えてないが、とにかく、巡査よりも村民のほうが先に、戦況やそうした近海の米軍の動きなどをよく感じ取っていた。
敵の軍艦が慶良間海峡に侵入していることは山の上から見ればすぐわかったが、大町大佐が阿嘉島から阿波連の海岸に立ち寄ったということは、極秘中の極秘のはずだが、防衛隊が彼に教えてくれた。安里巡査はあせっていた。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これから先どうあらねばならぬか、安里巡査は赤松隊長に相談したかったのだ。村長も一刻も早く隊長と相談してこいということだった。
翌二十七日も砲弾のとび交う中を、腰にぷらさげたサーベルをカチャカチャ音させて歩き回り、やっと西山のほうへ移動したばかりの赤松隊長の居所をつきとめた。その間に、出会った防衛隊や朝鮮人軍夫や村民から、特攻舟艇の破壊作業のことや、米軍の上陸や、日本軍が迎撃する交戦の模様を、伝え聞いた。
支那(北支から中支)で軍隊生活をおくった経験のある安里巡査は、これまでに阿度か軍隊生活を話題にし、日本軍が「こっぴどく支那人をやっつけた」ことを話したことがあったが、あの残虐なことが、あすはわが身にふりかからねば幸いだがと、ふと不安に思った。なにしろ兵隊たちの間から、米軍の捕虜になったら間違いなく戦車で礫き殺されるという風聞が出ていて、それは疑う余地がないようだった。
ただ一方には、日本が最後には勝つ、という信念があった。がしかし、それは惨澹たる道程の果てに、最終的に勝利の結果を産むという、悲壮な意味を含んでいて、自分たちは犠牲にならねばならぬかもしれぬという気持ちが同居していた。そうした心情は村民の一般的傾向であった。
米軍上陸で動揺する村民
三月二十六日の朝、米軍が阿波連から上陸したことが村民に知れたったとき、村民のほとんどは動揺し、壕から壕へ移動した。
ウシは子供たち(長女十二歳.二女七歳.長男三歳)を連れて、屋敷内の壕から、港に向かって西側の川向こうの山の麓の壕に行った。そこにはすでに二家族が入っていた。その家族の中の十六、七歳になる少年たち二人が、あわただしく出たり入ったりして落ち着かず、しきりに死ぬ覚悟で何かしなければならぬといったりしていた。竹ヤリを持ち歩く姿は、頼もしい感じであった。ウシたちは、ガテカル(嘉手刈)の壕で一夜をあかした。
翌二十七日になると、敵が攻めてくるのが感じられたし、阿波連から避難してきた人たちも敵が押し寄せてきていると話していたので、ウシたちは、ウンナガーラ(恩納川)近くに叔父たちが掘った壕があるのを思い出して、そっちへ向かった。その途中で、山のほうのミーヤーの上のところで、アメリカーが何やら作業しているのが見えた。
ウンナガーラのイチャチチというところの壕に着いたら、叔父や十八歳になるその息子は「いざとなったら、天皇陛下万歳をいって死ぬんだ」と語し合っていた。けれども、敵機の爆音は、ひっきりなしに聞こえるし、遠くから砲弾の炸裂音が近づいてくるように聞こえるので、みんなひどくおぴえていた。ウシは「死ななくても、すむよ、友軍がついているから大丈夫よ」と逆に元気づける始末だった。
安里巡査は、朝から敵機に見つからぬよう隠れたりしながら、午後も夕方近くなって、やっと西山の谷間の日本軍の陣地を探しあてて、そこではじめて赤松隊長と逢った。そこへたどりつくまでに、空襲ですっかり焼けたや山林の中を歩いているとき、安里巡査は沖縄本島にいる妻子の安否を思った。渡嘉敷に赴任してから、一度は宇久校長(沖縄本島出身)といっしょに御真影を保管するために沖縄本島に渡ったことがあったが、あのとき帰ってこなければよかったと、彼は後悔したりもした。
西山のトトンジャーラ(イシッピ川)の奥地の日本軍の陣地は、移動してきたばかりで何もできてなくて、朝鮮人軍夫や兵隊たちが、盛んにタコ壷を掘っていた。陣地壕はまだほとんど掘られてなかった。赤松隊長は、陣地構築の指図をしていた。(注・防衛隊や軍夫や村民の幾人かは、集団自決の後日、壕掘り作業に出ている―小嶺善吉らの証言。二十七日に地下壕内で将校会議か開かれたという記録は間違いで、将校は分散したタコ壺の中か外で戦闘配置についていた。村民をどうこうするという会議を開く余裕はまったくなかった―知念朝睦〈少尉〉の証言)
そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。
そのとき赤松隊長は、次のようにいった。島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう(注・比嘉喜順、旧姓・安里、元駐在巡査の証言)。そこで安里巡査は早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。彼自身も、各壕を回っていい伝えて歩いた。
防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほば正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって伝わっていったが、村民のあるものは赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だといった。
注(又吉) 四十二年前に、星氏は、赤松隊長が「島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい」と言ったと書いている。このドキュメントを多くの沖縄の人々か読んで居たら、「集団自決」に対する認識は違っていただろう。
闇の雨中を西山盆地へ集結
ウシたちの壕には、防衛隊の一人がきて、「村長命令だ、ウンナガーラから西山にのぼれ」といった。そこで迷いながらも、ウシたちはともかく出掛けるしたくをしていた。こんどは三人の防衛隊がきて「もうすぐそこに敵がきている」「みんな西山に登ってください」「村長命令です、西山に集まってください」と口々にいった。その三人の防衛隊は、ウシの弟、モリスケ叔父、ミサトの叔母の妹の夫で、三人とも輿奮してせきたてていた。村長命令とあらば、どんなことでも従うほかはないと、ウシは思った。
ウシたちが恩納川を登って行くうちに、雨はどしゃぶりになった。ウシは三歳の息子をおぶって、七歳の二女の手を引いて歩いた。十二歳の長女(本誌119ページの安座間豊子さん)は、三日分の食糧(米と黒砂糖とカツオ節)を入れたランドセルを背負って、ウシの後につづいた。ウシたちは、ずぶぬれになって暗い谷川のふちを歩き、ときどき滑って水の中へ落ちこんだりした。ぬれた赤土はよく滑るし、もう夜になっていて、何も見えなかった。
ざわめくような足音や、親子の名を呼び合う人声で、多数がぞろぞろ西山へ向かっていることが判った。ウシは長女に三日分の食糧だけを持たせてあったが、一日か二日、西山に避難するつもりだった。後でわかったことだが、ある人たちは、クワやナタやカマを持っていた。それらの農具は、西山で壕や小屋をつくることを予想して持ち運ぱれたのだ。多数が持っていた一メートルほどの棍棒は、荷物を肩にかけて持ち運ぶときに使われた。
恩納川の上流の谷間の上のほうが、西山の盆地だった。日本軍の最後の本部となった陣地は、小高い山を一つ隔てた小さいもう一つの谷間(トトンジャーラの上流)にあった。この二つの谷間の川は、渡嘉敷からは別々に並行しているが、上流に行くにしたがって接近し、西山高地に達するところで、深い谷底に小さい溝のようになって消えていた。西山の頂上の平たんな雑木林は、この二つの谷間の北方にあった。そこが西山盆地で、戦後、村民が玉砕場と称するところである。
その日の、雨の降りしきる夜半、渡嘉敷村の約三分の二の人たちが、ウンナーガーラ(恩納川)にそって苦心しながら北上した。そして、ほとんどが、上流の谷間の林の中で一夜を明かした。そのあたりには、以前に建てた避難小屋が三軒あったが、大多数は身を隠す場所が見つからず、野ざらしであった。ウシたちは、大きな木の葉を手探りで集めて、それを敷いてその上に横になり、眠るともなくうつらうつらしていた。
そのころ、阿波連の人たちは、約一時間遅れて西山にようやく到着していた。その多数は、阿波連から上陸した米軍に追われて渡嘉敷へ向かっている途中で、人々の口から「西山に集まれという村長命令が出ている」と聞かされ、渡嘉敷の人たちの後につづいたのだった。阿波連の人たちのほとんどは、それぞれ山の壕に避難していたが、食糧や衣類などは壕に残したまま、荷物らしい荷物は持たず、手ぶらの人も少なくなかった。また、壕やトカシクの野戦病院に、ケガ人を残してきた人もいた。
一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防 衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決せよということであった。
注(又吉) 明治維新により琉球王国から沖縄県になったが、まだまだ古い封建社会のしきたりが強い社会だった。特に地方は琉球王国時代の豪族が明治以後も村の長であった。ウシのような平民にとって村長はリーダーであり支配者であった。村長の命令には従わなければならなかった。今のように自由というものは村民にはなかった。
玉砕するしかない
三月二十八日は曇天だった。木の葉の間から、チラチラと朝の光が見え、まどろんでいた村民は起きて、雨で黄色く濁った谷川の水で顔を洗ったり水を飲んだりした。ウシは弁当箱に水をくんできて、子供たちに飲ませたり黒砂糖をなめさせたりした。食事らしい食事は誰もしなかったし、そんな準備をする余裕も元気もなかった。みんな打ち沈んでいた。こんもりと潅木のおい茂っているその谷間いったいには、見渡すかぎり村民が終結していた。朝の七時ころになって、防衛隊の数人がどなるように、「みんな上のほうに集まれ」「西山盆地に集まれ」と叫んだ。それで村民は命令どおり、そこからわずか二百メートルほど離れた平たんな場所に移動した。
ウシたちが、そこの雑木林にたどり着いたときには、すでに多数の渡嘉敷の人たちが入りこんでいて、みんな十人か十五人ぐらいずつかたまって、地べたにすわっていた。しぜんに肉親を中心に親族同士が寄り集まっていた。後から後からぞろぞろと、阿波連の人たちもつづいて入ってきて、およそ千人の集団となった。それから約三時間、集められた村民はそのまま放ったらかされていた。
その間、集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら、約十数人が寄り集まって、何やらしきりに協議していた。そのころになると、上空には敵の偵察機がぐるぐる回っていた。茂った木の葉から、ときどき敵機がよぎって行くのが見えた。「これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃れられなくなった」(比嘉喜順らの証言)
そこで気丈夫な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見が出たが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか」と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊三人が出掛けることになった。
それから一時間後に、防衛隊によって、ひそひそと村民に「玉砕する」話がひろめられた。村の指導者たちは、バラバラになって、それぞれの家族や親戚の人たちに、「やさしく説得するように」玉砕のことを話した。阿波連の防衛隊たちは、少し離れて散在しているの人たちに、もっと中心に寄り集まるようにいい伝えた。
集まった村民は、恐怖に打ちおびえながらも、静かに親族同士で輪になってすわった。渡嘉敷の人たちは、比較的に荷物を持ち運んできていたので、死ぬ覚悟を決めて着替える人が少なくなかった。が、集団のはずれにいる人たちの中には、まだ暖昧な気持ちで、これから何が起こるか、何もわからず、集団自決を予想だにしない人たちがいた。
古波蔵村長は、次のような理由から、駐在巡査を通じて赤松隊長から玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた。西山にきて協議の緒果、いわぱ自発的に玉砕することになりはしたが、昨日、安里巡査一人が赤松隊長に逢ってきた結果、集合が決まったこと、それから安里巡査は一人死ぬのを避けるふうに、「自分は村民の玉砕を見とどけて、軍に報告したい」(米田惟好<当時の古波蔵村長>の証言)といって、いざというときには少し離れたところに彼一人立っていたというのである。(注・米田惟好の解釈―軍は持久戦を考えて食糧確保のため、村民に対し「ロベらし」「足手まとい」だと思ったにちがいない)
注(又吉) 村長、郵便局長、校長、助役、巡査、役場の人たち、防衛隊の幹部らが協議して集団自決を決めている。村長など地位ある人たちの多くは武士の子孫であっただろう。日本軍が勝利するためには村人が自決したほうがいいという選択をしたのはあり得ることだった。
「みんな一緒に死のうね」
「アメリカーが上陸して、家も焼かれてしまったし、帰るところもないし、どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい」とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、「手榴弾が破裂するときは手にしっかり握っていたほうがよい」と助言した。それから間もなくして、古波蔵村長がみんなの中央に立って、「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と、声をふるわせながらいった。
急にしーんと静まり返った。ウシはその気になって、誰かが持ってきた茶わんに水を入れて、みんなの前に差し出し、「みんないっしょに、あきらめて、死のうね」といい終わるか終わらないうちに、遠くで誰かが「発火用意、打て!」と叫ぶと同時に、ぱあーんぱあ-んぱあーんと、つづいて手榴弾の炸裂音が聞こえた、ウシはわなわな震えがきて、水をこぼしたとき、急に耳を強く打たれたようになって、何が何やらわからなくなった。
ウシが気がついたときには、彼女自身は三歳の子供を抱いたまま僻せになっていた。目の前に倒れている二人の娘も無傷でねぼけたような顔で起き上がった。が、手榴弾を持っていた弟は、断末魔の様子で、血だらけの片手をがたがたふるわせて倒れていた。その背後には、弟の妻が、両眼をほおの上にとび出させたまま、死んでいた。
ウシはわが目を疑い、からだをまるめて俯せたままで、まわりをながめた。と、たくさんの死体がころがっているのを見届けると同時に、まったくとつぜん、鳥が泣き叫ぷようないやな声が入り乱れて聞こえてきた。
「アキサミヨーアキサミヨー」(感嘆詞)「母ちゃんよー母ちゃんよー」「アンマーヨーアンマーヨー」(母親の呼称)と悲痛におおぜいが叫んでいた。頭上からはブーンブーンブーンと敵機の爆音が響いていた。ウシは動転し、しばらく目をとじていた。が、ふたたび周囲を見まわした。手榴弾を破裂させた弟は死に、そのすぐ側にいた自分たちは無事だったのだ。そして、まわりにいた親族の七、八人は即死していた。それからウシは、何やらうめきながら逃げて行く集団を見た。
赤い血を鮮明につけたケガ人たちや、恐怖のあまり泣き叫ぶ女子供たちをまじえて、約三百人あまりが、わさわさ押し合うようにしてそこから立ち去って行くのだった。その逃げて行く集団の中に、郵便局長と村長がいるのがはっきり見えた。
……集団自決の場所から群をなして立ち去ってきた約三百人は、日本軍の陣地のほうへ向かってなだれたが、三百メートルも行かぬうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。米軍の砲弾は、どこからくるのか判然としなかったが近くでどんどん炸裂した。その破片にあたって即死したものが幾人かいた。弾にあたって郵便局長の妻も倒れて死に、局長は子供を背負わなければならなくなった。その集団は、そこで立ち往生したまま、騒いでいた。
村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)
おりしも助けを求めてなだれこんだその集団は、日本軍陣地の百メートル近くまできていた。日本軍は戦闘配置についていたが、発砲は自滅に等しいとみて、ただ敵の様子をうかがっていた。そこへ泣き叫ぶ村民がなだれこんできたので、追い払うために、将校は一様に抜刀して威嚇した。たちまち村民は悪夢からさめたように静まりかえり、恩納川の谷間へと散り散りに去って行った。
修羅場と化した西山盆地
一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。
ウシたち親子四人は「ここは地獄だ、早く逃げよう」と、いったんそこから立ち去りかけたが、血相をかえた阿波連のお婆さんたちが下のほうからきて「下からオランダー(外人)が登ってくるよ、いまに耳や鼻を切り取られるよ」といわれ、こわくなって舞い戻った。アメリカ人につかまることへの恐怖感がつのった。ちょうど十メートルぐらい離れたところに、夫の妹たちが生き残っていて、茫然とすわっていた。そこには、ケガして歩けない人たちが二十人ぐらい集まっていた。ウシたちはそこへ助けを求める気持ちで行った。すぐ側で、イノハさん(医者)は、不発弾の手榴弾を何度も石にたたきつけていた。
彼はあきらめて、それを投げ捨て「何かないか」とキョロキヨロしていた。そのとき小学生の息子が、「お父さんポク肥後ノ守があるよ」と小刀を出した。するとイノハさんは、「お母さんからね」というとすぐ、自分の妻の首を切り、それから息子と娘の首も、つぎつぎと切って、見ているまえで、彼は木の股に小刀をはさんで、自分の首を押しあててずっと刺しこみつづけた。そして急にガクンとぐったりなってころがり倒れた。
それが契機となって、隣の家族は、急に殺気立って、妻がおびえている夫を叱った。「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」と中年の女は、ナタを振り上げ、すわっている四、五歳の女の子の頭をめった打ちにして殺し、それからうなだれている夫を、「エイ、エイ、エイ」と叫びながら同様に打ち殺した。すると連鎖的に、老人が孫の頭をつかんで、カマでその頸動脈をかき切った。血が倒れた首から噴き上げた。
「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」とウシは思わず叫んだ。だが老人は、振り向きもせず黙って木に登り、首つりのしたくをするのだった。
ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。
何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。
ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。その間、ウシは自分の顔いっぱいについている血糊をソデでふき、割れた前頭部からまだ血か流れるのを防ぐために、湿った赤土を取って傷口に塗りこんだ。それから娘がくんできた水を、抱いた子供の顔にかけた。すると子供は全身ひきつらせ、顔をぶるぶるけいれんさせて、元に戻った口から血のアワを出した。「生き返ったよ」と、ウシは思わず笑顔になった。
それからウシたち親子四人は、なんとか生きようと思い、谷間のほうへ下りて行った。
終わり
星雅彦氏のドキュメントは集団自決の現場の人物をリアルに描いている。集団自決をした理由はそれぞれの立場や思想や感情の違いがあり複雑であった。
〇古波蔵村長(三十三歳)
「玉砕しかない」「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」
古波蔵村長は在郷軍人であった。彼自身が熱烈な軍国主義者であっただろう。彼にとって戦争に勝つのが最大の目的であった。勝つためには日本軍の足手まといになる村人は自決しなければならないと考えた。
〇ウシ
「みんな一緒に死のうね」「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」
軍国主義の教育を受けていない。あるいは影響を受けていない人であった。しかし、上の人の命令は絶対であると考える琉球王国時代の農民の思想を持った人である。ウシにとっては村長の命令は絶対であった。村長の命令があったから自決しようとしたのである。しかし、ウシには自決しなければならない理由を心から理解することはできなかった。ウシにとっては強制された死であった。強制された死では自決することはできない。だから人に殺してもらおうとした。
〇村の女
「「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」
軍国主義教育の影響を受けた人である。国のために死ぬのが日本人としての誇りであると教えられ、それを信じた彼女は日本人になろうとして自決をしたのである。
〇医者のイノハさん
「何かないか」「お母さんからね」
エリートであるイノハさんは軍国主義国家では軍国主義に従わなければならないと考えていただろう。エリートであるがゆえに軍国主義を理解し、軍国主義に従ったのである。
〇渡嘉敷村の女子青年団
不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。
軍が政権を握ってからは軍国主義教育はますます強化されていく。若い人たちほど軍国主義教育の影響を強く受け、国のために自決する思想は強かった。
〇防衛隊
何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。防衛隊員も女子青年団と同じであった。
〇金城少年
「まだ生きているのか!」
成績が優秀であったがゆえに軍国主義教育をうのみにし軍国主義少年になった。国民は天皇ため、国のために死ぬと教えられ、それを心の底から信じていた。教育の責任の重さを知らなければならない。
〇赤松隊長
「そんな武器は持ち合わせてない」
マルレで敵艦に特攻して死ぬために渡嘉敷島に来た赤松隊長は若干二十五歳の若き日本軍将校であった。軍人は天皇陛下と国のために戦うという信念の強い彼は米軍と戦うことしか念頭になかった。国民である村人は軍隊が守るという考えだったから集団自決は赤松隊長にとっては考えられないことだった。
渡嘉敷島の集団自決が起こったのは軍命令があったからではない。日本が軍国主義国家になったこと、軍国主義教育が浸透していったこと。米国との戦争で敗北していったこと、渡嘉敷が離島であったこと、沖縄の古い思想が残っていたことなどが複雑に絡まって起こったのだ。集団自決の場では多くの人間模様があり、自決の原因もそれぞれに違う面があった。
日本の勝利のためには「村人の玉砕しかない」と村人を集めて、真っ先に自決しようとした古波蔵村長であったが自決に失敗した。その後は再び自決をしようとはしないで戦争を生き延びている。人間には死の本能はない。生の本能がある。「命どぅ宝」である。自分で自分を殺すというのは人間の本能に逆らうことであり、そのためにはぎりぎりまで自分を追い詰めなければできないことである。大変なエネルギーが必要である。自決に失敗した村長たちにもう一度自決をするというエネルギーは残っていなかった。だから生の本能によって生き延びたのである。
軍国主義思想、軍国主義教育、沖縄の古い思想が入り混じった離島社会に米軍が進攻して起こった悲劇が慶良間島の集団自決であった。軍命令で集団自決をしたというような単純なものではなかった。集団自決の現場は自殺と殺害が交錯した凄惨な修羅場であった。
集団自決の深層に素直な目で入っていきそれを受け止めることが私たち沖縄人のやるべきことである。
最近、沖縄二紙やマスコミでは「『集団自決』(強制集団死)」という表現をするようになった。強制集団死とは軍が強制したから「集団自決」をしたのだという意味である。「集団自決」という表現では、自ら死んだという印象が強く、軍の強制で死んだというイメージが弱いと考え、軍の命令で死んだという印象を強くするために(強制集団死)を使っているのだろう。
自決の思想を浸透させた戦時中の教員、公務員、政治家、識者などの責任を回避し、集団自決の真実から目を背け、なにがなんでも日本軍に責任を押し付けようとして(集団強制死)という文言がつくられた。
自決は人間の生の本能を断ち切る極限の決断であり非常に重いものである。(集団強制死)は日本軍の命令に自決した人々がロボットのように従った印象を与えるものであり、集団自決の真相に蓋をするものである。人間の生の本能を軽視するものである。
(集団強制死)が集団自決を軽視した残酷な文言であるあることを知るべきである。
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星編集長の対談の後半カットは現実となるのか
星編集長の対談の後半カットは現実となるのか



星雅彦氏は去年「沖縄文化功労者」を受賞している。星氏の名詞には「浦添市文化協会会長」「国際美術評論家連盟会員」「日本ペンクラブ会員」「日本現代詩人会会員」「日本詩人クラブ会員」が書かれている。「浦添市文化協会会長」は今年で辞めたらしい。
名詞の肩書で分かるように星氏は文学や美術に精通していて、その関連で沖縄県の文化発展に寄与してきた。特に沖縄の美術界を発展させた功績は大きい。
星氏は政治には無関係なところで活動してきた人である。だから県や浦添市でも受け入れられてきた。
しかし、「集団自決に軍命令はなかった」と発言するようになってから、状況が変わってきた。星氏を革新は忌み嫌うようになった。タイムスや新報からも干された。
「集団自決に軍命令はなかった」を繰り返す星氏の口封じを革新は画策したのだ。それがうらそえ文藝の対談の後半部分をカットすることだった。
一昨日、星氏はK氏と会い、後半部分も掲載するように交渉したが、「編集委員会の決定」を理由に受け入れなかったそうだ。
革新の陰謀はいたるところに張り巡らされていることを実感せざるを得ない。
星雅彦氏は去年「沖縄文化功労者」を受賞している。星氏の名詞には「浦添市文化協会会長」「国際美術評論家連盟会員」「日本ペンクラブ会員」「日本現代詩人会会員」「日本詩人クラブ会員」が書かれている。「浦添市文化協会会長」は今年で辞めたらしい。
名詞の肩書で分かるように星氏は文学や美術に精通していて、その関連で沖縄県の文化発展に寄与してきた。特に沖縄の美術界を発展させた功績は大きい。
星氏は政治には無関係なところで活動してきた人である。だから県や浦添市でも受け入れられてきた。
しかし、「集団自決に軍命令はなかった」と発言するようになってから、状況が変わってきた。星氏を革新は忌み嫌うようになった。タイムスや新報からも干された。
「集団自決に軍命令はなかった」を繰り返す星氏の口封じを革新は画策したのだ。それがうらそえ文藝の対談の後半部分をカットすることだった。
一昨日、星氏はK氏と会い、後半部分も掲載するように交渉したが、「編集委員会の決定」を理由に受け入れなかったそうだ。
革新の陰謀はいたるところに張り巡らされていることを実感せざるを得ない。
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星編集長の言論封殺は革新の陰謀
星編集長の言論封殺は革新の陰謀
二〇〇九年の上原正稔氏との対談は沖縄言論界に大きなショックを与えた。
集団自決に軍命令はなかったと、上原氏だけでなく星氏も語ったのである。
星氏は長年県や浦添市の文化の発展に貢献した人である。多くの人が星氏に敬意を持っていて、星氏の発言の影響は大きい。
その後も星氏は「集団自決に軍命令はなかった」と主張し続けている。星氏に動揺したのが県や市に巣食う革新連中である。
うらそえ文藝の目玉である対談の後半をカットするというえげつない方法で星氏の口封じをやったのである。
星氏は今年で浦添市の文化委員長を辞めている。なぜ辞めたのかは知らない。高齢が原因なのか「圧力」が原因なのか・・・・・。
「来年はうらそえ文藝の編集長でなくなるかも知れない」と漏らしたことがあった。
星氏の対談の後半カットに編集委員の中の一人以外はみんな賛成したという。「みんなK氏の味方になっている」らしい。星氏は編集委員会での孤立に嫌気がさしている。
二か年連続で対談の半分をカットされたのでは星氏がうらそえ文藝の編集長で頑張る意味がない。このままだと星氏がうらそえ文藝から去る可能性がある。
革新の狙いはそこにある。「集団自決に軍命はなかった」と主張し続けている星氏の発言の場を奪うのが革新の目的だ。陰湿なやり方である。
二〇〇九年の上原正稔氏との対談は沖縄言論界に大きなショックを与えた。
集団自決に軍命令はなかったと、上原氏だけでなく星氏も語ったのである。
星氏は長年県や浦添市の文化の発展に貢献した人である。多くの人が星氏に敬意を持っていて、星氏の発言の影響は大きい。
その後も星氏は「集団自決に軍命令はなかった」と主張し続けている。星氏に動揺したのが県や市に巣食う革新連中である。
うらそえ文藝の目玉である対談の後半をカットするというえげつない方法で星氏の口封じをやったのである。
星氏は今年で浦添市の文化委員長を辞めている。なぜ辞めたのかは知らない。高齢が原因なのか「圧力」が原因なのか・・・・・。
「来年はうらそえ文藝の編集長でなくなるかも知れない」と漏らしたことがあった。
星氏の対談の後半カットに編集委員の中の一人以外はみんな賛成したという。「みんなK氏の味方になっている」らしい。星氏は編集委員会での孤立に嫌気がさしている。
二か年連続で対談の半分をカットされたのでは星氏がうらそえ文藝の編集長で頑張る意味がない。このままだと星氏がうらそえ文藝から去る可能性がある。
革新の狙いはそこにある。「集団自決に軍命はなかった」と主張し続けている星氏の発言の場を奪うのが革新の目的だ。陰湿なやり方である。
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「うらそえ文藝」で星編集長が言論封殺されている
「うらそえ文藝」で星編集長が言論封殺されている
四月三十日が最後の編集会議であった。編集会議の主な仕事は添削である。それ以外に編集委員の仕事はない。最後の編集会議であるなら本の編成はすでに決まっているから、原稿の最終チェックをするだけである。
私は前回の編集会議に参加し、新しい会員になったことを編集委員たちに言い、自己紹介をした。そして、自分の原稿の添削をした。
四月三十日が最後の編集会議も添削であろうから、手伝うつもりであったが、K氏は編集会議だからといって私を追い出した。
その日の目的は最終チェックではなくて、星編集長の対談の半分をカットするのが最大目的であったのだ。
最後の編集会議で星編集長の対談の半分カットを決定したのは星編集長に巻き返しをする余裕を与えないための極めて陰湿なやり方である。
多勢に無勢の星編集長は孤立状態である。
思想的な差別をしないで、右系も左系も受け入れるのが「うらそえ文藝」の真骨頂だった。それが星編集長の方針であった。ところが編集委員の中に革新イデオロギーが台頭してきて、「集団自決に軍命令はなかった」と公言している星編集長の言論を封殺し、編集長の座から引きずり下ろそうと画策しているのだ。
その策略が対談の後半カットである。実に巧妙なやり方だ。読者は星編集長の対談が掲載されているので、星氏が健在であると思っている。
しかし、星氏にとって半分もカットされれば対談した意味がないと感じる。対談をする気が失せるのは当然だ。星氏が編集長を辞退するのは時間の問題である。
彼らは表と裏を使い分けて、表面上は星氏自らの判断で編集長を辞退したと読者に思い込ませたいのである。
星氏を追放した後は、保守系や革新に批判的な投稿を排除して、革新系の「うらそえ文藝」するつもりであるのは見え見えである。実はこの計画も着々とやっているようだ。
今度の「うらそえ文藝」に新しく漫画を掲載するそうだ。漫画と聞いて私の頭に浮かんだのは、タイムスか新報に掲載していた「琉球処分」を巡る漫画だ。ロコツな革新よりの漫画だった。その人の漫画が掲載されるだろうと私は予想している。
浦添市は保守系の若い市長が登場したというのに、底辺では革新イデオロギーが根強く拡大している。
絶対に革新イデオロギーの支配する「うらそえ文藝」してはいけない。
星編集長の方針通り、表現の自由を重んじ、右系も左系も歓迎する「うらそえ文藝」でなければならない。
星編集長の対談カットを許してはならない。
四月三十日が最後の編集会議であった。編集会議の主な仕事は添削である。それ以外に編集委員の仕事はない。最後の編集会議であるなら本の編成はすでに決まっているから、原稿の最終チェックをするだけである。
私は前回の編集会議に参加し、新しい会員になったことを編集委員たちに言い、自己紹介をした。そして、自分の原稿の添削をした。
四月三十日が最後の編集会議も添削であろうから、手伝うつもりであったが、K氏は編集会議だからといって私を追い出した。
その日の目的は最終チェックではなくて、星編集長の対談の半分をカットするのが最大目的であったのだ。
最後の編集会議で星編集長の対談の半分カットを決定したのは星編集長に巻き返しをする余裕を与えないための極めて陰湿なやり方である。
多勢に無勢の星編集長は孤立状態である。
思想的な差別をしないで、右系も左系も受け入れるのが「うらそえ文藝」の真骨頂だった。それが星編集長の方針であった。ところが編集委員の中に革新イデオロギーが台頭してきて、「集団自決に軍命令はなかった」と公言している星編集長の言論を封殺し、編集長の座から引きずり下ろそうと画策しているのだ。
その策略が対談の後半カットである。実に巧妙なやり方だ。読者は星編集長の対談が掲載されているので、星氏が健在であると思っている。
しかし、星氏にとって半分もカットされれば対談した意味がないと感じる。対談をする気が失せるのは当然だ。星氏が編集長を辞退するのは時間の問題である。
彼らは表と裏を使い分けて、表面上は星氏自らの判断で編集長を辞退したと読者に思い込ませたいのである。
星氏を追放した後は、保守系や革新に批判的な投稿を排除して、革新系の「うらそえ文藝」するつもりであるのは見え見えである。実はこの計画も着々とやっているようだ。
今度の「うらそえ文藝」に新しく漫画を掲載するそうだ。漫画と聞いて私の頭に浮かんだのは、タイムスか新報に掲載していた「琉球処分」を巡る漫画だ。ロコツな革新よりの漫画だった。その人の漫画が掲載されるだろうと私は予想している。
浦添市は保守系の若い市長が登場したというのに、底辺では革新イデオロギーが根強く拡大している。
絶対に革新イデオロギーの支配する「うらそえ文藝」してはいけない。
星編集長の方針通り、表現の自由を重んじ、右系も左系も歓迎する「うらそえ文藝」でなければならない。
星編集長の対談カットを許してはならない。
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「うらそえ文藝」で言論封殺が起こった
「うらそえ文芸」で言論封殺が起こった
私は今年からうらそえ文芸の会員になった。
去年、短編小説を掲載し、今年も掲載する予定である。来年も再来年も短編小説を掲載したいと思っている私は、星雅彦編集長のすすめもあって会員になった。
添削をする会合にも二度参加した。
会員になって驚くべき事実を知った。
去年の星雅彦編集長と福地氏の対談が編集員の賛成多数で後半部分がカットされたというのだ。
対談の後半がカットされるというのは考えられないことである。しかし、実際に「うらそえ文芸」で起こったのである。
大城立裕や上原正稔など星編集長の対談は多くの話題を提供し、うらそえ文芸の知名度にも売り上げにも貢献してきた。星さんの遠慮なしの鋭い突っ込みは対談相手を窮地に追い込んだり、反撃を食らったりして、馴れ合いの対談にはない緊張感がある。内容も深い。
対談を半分もカットするのは言語道断である。明らかな言論封殺である。絶対にあってはいけない。ところが去年に実際に起こったのである。
今年も去年と同じように星編集長の対談が半分カットされる恐れが出てきた。いや、このままだとカットされるだろう。四月三十日(水)の編集会議で賛成多数によってカットされることが決まったというのだ。
星編集長から私の小説にクレームがあり、コピーされた原稿を訂正して印刷会社に送った。二日後に、印刷会社から訂正したPDF原稿をメールで送ってきたが、FAXで送ったために写りが悪かったのだろう、ほとんどが訂正されていなかった。
私は印刷した原稿を赤ボールペンで訂正したが、訂正カ所が多く、四月三十日に最後の編集会議があると聞いたので、そこで私の事情を説明し、印刷会社と直接交渉して、もう一度添削したいということを伝えに行った。
メールの添付、PDF、ワード、プリンターについて知っていないと私の言うことは理解できない。丁寧に説明して理解してもらおうと思っていたら、K氏が大遅刻した。まずいことに弁当が出されたので私は食べた。食べながら星編集長の対談の原稿を読んでいた時にK氏が悠然と入ってきた。弁当は編集委員用であるのに私が食べているのにカチンと来たのだろう。
「今日は編集委員会議です。会議が始まったら出て行ってください」とK氏は言った。
私の説明は一切受け付けなかった。ただ、訂正した原稿を置いて出て行けという態度である。高邁な彼に説明してもしようがない。私はもう一度添削することをあきらめた。
編集会議が始まったので私は対談の原稿を星編集長に返して部屋を出ようとしたら、星編集長は最後まで読んでくれと言った。私は守衛のいる応接間に行き、原稿を読んだ。
仲程琉大元教授との対談は、一部は戦前の沖縄の近代文学、二部は戦後の沖縄文学についてだった。一部ででてくる文学者はほとんど知らない人物であり、内容的にも面白くなかった。
二部は戦後の小説家や詩人を肯定的に捉える仲程元教授と否定的に捉える星氏は意見が対立する。星氏は作家たちの現実認識が駄目だといい、集団自決などの話にもなる。
対談が進むうちに、仲程氏の場合は専門分野ではない知識は沖縄二紙に頼っていることが明らかにされていく。対談は一部二部合わせて40ページにも及び、長時間の対談であった。
星氏は1932年生まれで現在82歳である。老齢の星氏にとって負担が大きい対談であっただろう。
「余命も少ないし・・・・・・・」
電話で漏らした星氏の言葉である。弱音で言ったのではない。だからこそ悔いが残らないように真剣に対談をやっていくと星氏は言っているのである。命がけの星氏の対談を半分カットするなんて考えられない。
星氏にやる気を失わせ、編集長を辞退させようとしているとしか考えられない。
皆さんの抗議をお願いします。
浦添市文化協会事務局
電話・FAX 〇九八―八七八―四五五三
私は今年からうらそえ文芸の会員になった。
去年、短編小説を掲載し、今年も掲載する予定である。来年も再来年も短編小説を掲載したいと思っている私は、星雅彦編集長のすすめもあって会員になった。
添削をする会合にも二度参加した。
会員になって驚くべき事実を知った。
去年の星雅彦編集長と福地氏の対談が編集員の賛成多数で後半部分がカットされたというのだ。
対談の後半がカットされるというのは考えられないことである。しかし、実際に「うらそえ文芸」で起こったのである。
大城立裕や上原正稔など星編集長の対談は多くの話題を提供し、うらそえ文芸の知名度にも売り上げにも貢献してきた。星さんの遠慮なしの鋭い突っ込みは対談相手を窮地に追い込んだり、反撃を食らったりして、馴れ合いの対談にはない緊張感がある。内容も深い。
対談を半分もカットするのは言語道断である。明らかな言論封殺である。絶対にあってはいけない。ところが去年に実際に起こったのである。
今年も去年と同じように星編集長の対談が半分カットされる恐れが出てきた。いや、このままだとカットされるだろう。四月三十日(水)の編集会議で賛成多数によってカットされることが決まったというのだ。
星編集長から私の小説にクレームがあり、コピーされた原稿を訂正して印刷会社に送った。二日後に、印刷会社から訂正したPDF原稿をメールで送ってきたが、FAXで送ったために写りが悪かったのだろう、ほとんどが訂正されていなかった。
私は印刷した原稿を赤ボールペンで訂正したが、訂正カ所が多く、四月三十日に最後の編集会議があると聞いたので、そこで私の事情を説明し、印刷会社と直接交渉して、もう一度添削したいということを伝えに行った。
メールの添付、PDF、ワード、プリンターについて知っていないと私の言うことは理解できない。丁寧に説明して理解してもらおうと思っていたら、K氏が大遅刻した。まずいことに弁当が出されたので私は食べた。食べながら星編集長の対談の原稿を読んでいた時にK氏が悠然と入ってきた。弁当は編集委員用であるのに私が食べているのにカチンと来たのだろう。
「今日は編集委員会議です。会議が始まったら出て行ってください」とK氏は言った。
私の説明は一切受け付けなかった。ただ、訂正した原稿を置いて出て行けという態度である。高邁な彼に説明してもしようがない。私はもう一度添削することをあきらめた。
編集会議が始まったので私は対談の原稿を星編集長に返して部屋を出ようとしたら、星編集長は最後まで読んでくれと言った。私は守衛のいる応接間に行き、原稿を読んだ。
仲程琉大元教授との対談は、一部は戦前の沖縄の近代文学、二部は戦後の沖縄文学についてだった。一部ででてくる文学者はほとんど知らない人物であり、内容的にも面白くなかった。
二部は戦後の小説家や詩人を肯定的に捉える仲程元教授と否定的に捉える星氏は意見が対立する。星氏は作家たちの現実認識が駄目だといい、集団自決などの話にもなる。
対談が進むうちに、仲程氏の場合は専門分野ではない知識は沖縄二紙に頼っていることが明らかにされていく。対談は一部二部合わせて40ページにも及び、長時間の対談であった。
星氏は1932年生まれで現在82歳である。老齢の星氏にとって負担が大きい対談であっただろう。
「余命も少ないし・・・・・・・」
電話で漏らした星氏の言葉である。弱音で言ったのではない。だからこそ悔いが残らないように真剣に対談をやっていくと星氏は言っているのである。命がけの星氏の対談を半分カットするなんて考えられない。
星氏にやる気を失わせ、編集長を辞退させようとしているとしか考えられない。
皆さんの抗議をお願いします。
浦添市文化協会事務局
電話・FAX 〇九八―八七八―四五五三
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「沖縄内なる民主主義5」4月25(金)より発売
「沖縄内なる民主主義5」(A4版・60ページ)を4月25(金)より発売。
沖縄教販
BOOKSきょうはん 美浜店・BOOKSきょうはん やいま店・BOOKSきょうはん 宮古南店BOOKSきょうはん とよみ店・BOOKSきょうはん 安謝店
他の書店につては後日知らせます。
狼魔人日記でネット全国販売しています。
申し込みはメールでできます。
ブログ 狼魔人日記
メール ezaki0222@ybb.ne.jp
目次
〇沖縄の狂った話1・・・琉球民族主義は民族差別主義だ
〇沖縄の狂った話2・・・米軍がいるから戦争に巻き込まれるは妄想
〇ブログ
「狼魔人日記」より・・・末松氏大敗の意味
〇彼女は慰安婦ではない 違法 少女売春婦だ2
〇「狼魔人日記」河野談話撤回の好機!
〇「狼魔人日記」と「沖縄に内なる民主主義はあるか」は島袋氏を応援したけれど
〇名護市民は「県外移設」が不可能であることを証明した
〇ブログ
沖縄に内なる民主主義はあるか 沖縄の識者の腐敗
「県民金で転ばぬ」というが
〇軍命令はなかったのに なぜ集団自決は起こったのか
〇特別寄稿・ドキュメント
集団自決を追って 星雅彦(作家)
〇バーデスの五日間
裏表紙です。名護市街地は辺野古から10km離れています。しかも、間には山があります。
辺野古が安全であり、普天間基地がいかに危険であるかは写真を見れば一目瞭然です。
この事実を多くの人に知ってもらいたいと思って、このような裏表紙にしました。
買わなくてもいいから、裏表紙を見てほしい。
この三つの写真を見ても、辺野古移設に反対するのは「命どぅ宝」の精神が欠けている証拠です。
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「死活問題」窮状訴えは真っ赤な嘘


書店発売のお知らせとお詫び
発売日
A4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)は2月3日(火曜日)、県内書店で発売します。
お詫び
「かみつく」から「沖縄民主主義4」に改名しましたが、勝手ながら、さらに普及版としてA4版「沖縄内なる民主主義4」にしました。
狼魔人日記でネット発売
書店ではA4版「沖縄内なる民主主義」(600円税抜)のみの発売ですが、狼魔人日記ではA5版の「沖縄民主主義4」も600円で発売します。ご了承お願いします。

新発売・「かみつく3」は県内書店で発売中
クリックすると本の紹介画面へ
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「死活問題」窮状訴えは真っ赤な嘘
米軍牧港補給基地(浦添市)の倉庫施設をトリイ通信施設に移すことが沖縄防衛局から通知された。移設先は読谷村の楚辺、大木、渡久地の三区にまたがる約二〇ヘクタールである。一帯には約六〇人の黙認耕作者が農業を営み、琉球新報は「生計」を立てていると報道している。
軍用地収入と黙認耕作地収入の実情を知っている人間には新聞報道の嘘がすぐわかる。
黙認耕作地は設備設置が禁止されているので水道設備やビニールハウスなどを設置できない。そのために、さとうきびやさつま芋栽培がほとんどである。
移設先一帯の多くを占める楚辺区。施設内で黙認耕作者として農業を営むのは約五〇人で立ち退きが決まれば、最も影響を受ける区だ。同区の池原紀彦区長は一九五二年の施設移設に伴う強制立ち退きを振り返り、「度重なる土地接収に憤りを感じる」と怒りをあらわにする。死活問題だ。受け入れられない」と強調した。
琉球新報
「移設されれば五〇〇坪の農地を失う」と話すのは施設内でサトウキビを耕作する池原国夫さん(七六)。一六年にわたって施設内でサトウキビを栽培してきた。池原さんは「農地を奪う基地移設には反対したい」と訴えた
琉球新報
農業で生計を立てていると言うのは真っ赤な嘘である。私が子供の頃、つまり五五年以上も前から黙認耕作地内の農業で生計を立てている人はいなかった。軍作業や民間の仕事をしながら副収入として農業をやっている人がほとんどだった。農業では生活できないからである。
二〇ヘクタールの畑を六〇人でやっているから、一人あたりの畑は0.33ヘクタールである。
一ヘクタールあたりの収入はいくらになるかをWEBで探していたら二〇一一年一一月二五日に掲載している「TPP・さとうきび壊滅の嘘」という題名の私のブログに出会った。
TPP・さとうきび壊滅の嘘
TPP参加反対のJAはTPPに参加すればさとうきびは壊滅すると具体的な数字を示しながら主張している。学者や知識人はJAが述べているさとうきびの被害額に対して誰一人として反論を
しない。変である。いざとなったときの学者や知識人の理論の脆弱さを見てしまう。
新聞の記事を寄せ集めた情報を組み合わせればJAのさとうきび壊滅論が嘘であることがわかる。専門書を読む必要はないし、専門的な知識も必要ない。
県内のさとうきび農家の約8割が工作面積が1ヘクタール未満である。さとうきびは3300平方メートルで必要経費を引いた年収が約40万円 (国の交付金を含む)であるという。耕地面積が1ヘクタール(10000平方メートル)の畑なら年収が120万円となる。1ヘクタールの畑ではとても生活はできない。
沖縄のさとうきびの農家の80パーセントは1ヘクタール未満である。ということは80パーセントのさとうきび農家が年収120万円以下である。さとうきび農家80パーセントの農家はさとうきび栽培だけでは生活はできない。さとうきび農家のほとんどが他の仕事をしなければならい。というより、さとうきび栽培は小遣い稼ぎであり本業は他の仕事であるということだ。会社勤めをしながらついでにさとうきび栽培をしているのがほとんどのさとうきび農家である。さとうきびは手間がかからない。一週間に一度くらい畑に行けばさとうきびは栽培できる。だから、仕事をしている人は片手間でさとうきび栽培をしている。
80パーセントのさとうきび農家がさとうきび以外の仕事を本業としているから、TPPに参加して、さとうきびが壊滅的な打撃を受けても生活には困らないというのが現実である。
もっと注目すべき問題がある。TPPに傘下してもさとうきび農家はほとんど打撃を受けないということだ。
「第2の尖閣になる」に書いてあるようにさとうきびは1トン約2万円で農家から買い取るが、2万円の内の1万6000円が交付金である。国が1万6000円払い、製糖工場はたった4000で買い取るのだ。実に5分の4が交付金なのだ。もしTPPに参加して外国から安価な砂糖が入ったとしても、国が交付金をわずか4000円増やせばさとうきびの原価は0円になる。JAはこの事実を言わないでさとうきび壊滅論を展開している。農家は2万円で買ってくれればTPPの影響はない。
多和田さんは、「交付金がなければ、経費をどれだけ節減してもどうにもならん」とお手上げをしているが、アメリカや先進国は農家に援助をしているし、TPPに参加しても交付金は維持されるのは確実だ。多和田さんの心配は思い過ごしである。
TPPに参加しても2万円の買い取り価格は同じなのだから、さとうきび栽培が壊滅的な影響を受けるということはない。国の交付金を1万6000円以上にすれば輸入砂糖と競争することは十分できる。
しかし、80パーセントの農家が1ヘクタール以下の耕作面積しかないから、交付金1万6000円を維持しても、さとうきび生産はTPPとは関係なく衰退していく。
さとうきび生産で収益を大きくするには耕地面積を大きくして大農場経営にするか、下に掲載している「大東月桃加工事業」のように、黒砂糖を利用した加工事業を起こすことである。夏の暑さ対策として黒砂糖は有効であるということが広まったし、健康食としての黒砂糖が評価されるようになった。黒砂糖と落花生をまぶした菓子は昔から沖縄の名産である。黒砂糖を原料にした菓子つくりは将来性がある。「大東月桃加工事業」が島外の専門家を島に招いたように、黒砂糖を利用した加工の企業を起こし、専門家に協力を求めるのだ。
JAのTPP参加はさとうきびの農業の壊滅は嘘である。しかし、JA体制のさとうきび産業は衰退する運命である。さとうきびの将来は黒糖のオリジナル商品をつくることである。これからは、国内だけでなく外国への輸出もめざすべきである。
「TPP・さとうきび壊滅の嘘」
サトウキビの一ヘクタールあたりの収入は一二〇万円である。
トリイ通信基地の倉庫新設は二〇ヘクタールであり、農業をしている人は六〇人である。一人あたりの畑は0.33ヘクタールであるから収入は約三〇万円である。しかし、その中から肥料代、農機具代金などを引かなければならないから実質的な収入は二五万円そこそこである。さとうきびは一年一度の収穫だから二五万円の年収となる。月収にすれば二万円である。月収がたった二万円が死活問題というのはあり得ないことである。
「移設されれば五〇〇坪の農地を失う」と嘆いている池原国夫さん(七六)の収入は約二〇万円で必要経費を引くと一五、六万である。
知花地区でも同じように施設を移設する問題が起こっている。地区内の耕作地は約五〇ヘクタールで数百人の耕作者が居る。一人当たりの耕作地はトリイ通信施設よりも小さい。死活問題とは程遠い。
軍用地料と農業収入を明らかにしないから、「死活問題」だと言うるのである。明らかにすれば沖縄二紙の記事が大嘘であることが分かる。
黙認耕作地にはもうひとつみなさんが知らないことがある。耕作者のほとんどが地主ではないことだ。私の友人も他人の黙認耕作地を借りて農業をしている。
戦後七〇年近く経過し、軍用地は財産分与などで会社員をしている人が地主になるケースが多く、地主になっても畑を放置する人間が多い。畑をやりたい人が無料でそのような畑を借りて農業をするようになった。有料ではなく無料である。
トリイ通信施設にしろ知花地区にしろ、農耕者の多くは無料で畑を借りて農業をしている人たちである。立ち退きとは地主ではない彼らが無料で借りていた畑から立ち退くということである。彼らに立ち退き料や新しい畑を紹介する義務が防衛省にあるはずがない。
トリイ通信施設では数年前に楚辺区のおよそ三〇ヘクタールを返還している。その一帯も黙認耕作地であったが、跡利用に困っている状態である。返還地が住宅地や商業地になるなら地主の収入は確保できるし村の収入も増えるだろう。読谷村の経済発展にもなる。しかし、国道五十八号線沿いにも返還地があり、そこに大きな商業地ができる予定である。サンエーの大規模店舗が来年にもオープンする予定だ。そうなると楚辺区の返還地は住宅地にも商業地にもなれないで、畑用地にならざるをえない。軍用地返還は経済面で難しい問題を抱えている。
トリイ通信施設は近いので写真を撮ってきた。トリイ通信施設は作る時に、楚辺区、渡久地区を総移転させ、大木区古堅区の土地も接収した。トリイ通信施設は広大だった。原因はアジアの情報を集めるために鉄塔のように高い電波塔を百基近く建てたからだ。しかし、現在は写真のように白いドームのような衛星通信の電波受信基一台あればいい。
トリイ通信施設にとってほとんどの土地が必要なくなっているというのが実情である。事実、半分近くの土地は返還されている。
土地を返還されても、読谷村では住宅以外は畑をするしかない。
遠くに渡久地の住宅が見える。手前は畑だ。返還された土地の三分の二は畑である。地主の収入が激減したのは明らかである。
もし、嘉手納以南の倉庫などの移転がなければ、トリイ通信施設の軍用地のほとんどは返還されるだろう。読谷村にとって莫大な減収になる。倉庫施設の移転は経済面から考えれば受け入れざるを得ないというのが本当のところだ。
私は基地経済に賛成しているわけではない。沖縄の厳しい現実を見れば、基地経済に代わる経済を育てながら、経済が悪化しないように少しずつ返還したほうがいいと思っている。
中国は経済が発展すればするほど戦争ができない国になっていく。沖縄の米軍基地は中国の脅威が低下するに従って確実に縮小していくだろう。だから、基地経済に代わる経済を育てることが沖縄にとって深刻な問題である。経済問題を無視した基地返還論は沖縄を貧困にする理論である。
米軍基地賃貸料金は八〇〇億円である。沖縄の農業産出額も八〇〇億円である。米軍基地賃貸料金と農業産出額が同じであるのだ。軍用地料がどんなに莫大であるかが理解できると思う。しかも、農業も場合は肥料や設備、水道、電気料などの必要経費があるから軍用地料のほうが高い。
基地経済全体では三〇〇〇億円は下らない。本当の深刻な問題は米軍基地がなくなった時に沖縄経済が悪化することである。
沖縄二紙が沖縄の深刻な経済問題を隠して、基地返還がバラ色のように報道するのは県民を騙した欺瞞な行為である。
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