日本の建築技術の展開-6・・・・古代から中世へ:屋根・軒の構成法の変化

2007-03-25 03:16:33 | 日本の建築技術の展開

[補足追加:10.00AM]

 先回の「追記」で、小屋の「筋違(すじかい)」について触れた。
 転載した室内の写真の原本を見ると、「又首(さす)」が棟木を支えていることが分かるが、解体したところ「棟束(むなつか)」を先行させ、それを左右から斜めに支える箇所があり、その一見「又首」様の斜め材を「筋違」と呼んでいるようだ。そう理解すると転載した記述の意味がよく分かる。
 このような方法は、後で触れるが、屋根:軒の構造が変り、「束」が多用されるようになった当初に使われたと考えられている。
 
 古代以来、日本の建物の軒の出はきわめて深い。それは「妻室」の側面図を見ても分かる。この例では、2.5mは出ているだろう。

 軒の出を深くする理由は、「見かけ」の問題ではなく、むしろ「用」のためであったと考えた方がよいように思える。つまり、いかに風雨を建物の壁にあてないようにするか、そのための策と考えるべきだろう。

  註 防水材、塗料、シーリング材などを信用するからだろうか、
    最近の建物は、軒の出が少なすぎるように思う。

 先回図を示した「斗組(ますぐみ)」も、いかに梁を受けるか、という工夫でもあるが、同時に、何段にも重ねる「斗組」により、順に迫り出し、軒を深くする工夫でもあった。
 この「斗組」による軒の出の確保は、「桔木(はねぎ)」の出現により大きく変る。
 大分前に(昨年11月7日の「天井の話」)、当初、室内には天井がなく、小屋組をそのまま表していたが、次いで「化粧小屋組+野屋根」の工法へ変り、室内高の調整に「天蓋」を設ける方法も現れ、空間が大きくなるにつれ、室内全面に「天蓋」が張られる、つまり天井で小屋組が「隠れる」ようになる。
 天井は、当初は、小屋組を「隠す」ことが目的ではなく、あくまでも空間の高さの調整ためだったようだ。

 しかし、結果的に小屋組が隠れることになると、そこで新たな工夫、すなわち、従前のように「斗組」で軒を迫り出すのではなく、天井裏を利用して軒を出す方法が考案される。それが「桔木」である。「桔木」には、「丸太」がそのまま使われる(元が軒先:図参照)。

 これには、小屋組の「又首」方式から「束立(つかだて)」方式への変化が関連する。
 先の「法隆寺・妻室」では、「又首」の棟木の下に「束(つか)」が組み込まれている。「又首」には本来「棟束」は不要。棟木はそれで支えられるからだ。
 「又首」方式は、基本的にはいわゆるトラス、原理的には、あるいは梁間が小さいときには、力は部材の材軸方向だけにかかると見てよいが、梁間が大きくなると、屋根の重さで「又首」の部材が撓んでくる。瓦屋根なら特にその可能性が大きい。おそらく「束」の発想は、この「撓み」に対する「つっかえ棒」から生まれたものと思われる。

  註 1月13日に紹介した長野県塩尻市郊外の「小松家」の小屋組は、
    又首:合掌の撓みを押える斜め材を入れた好例である。

 「つっかえ棒」が常用されれば、あえて「又首」を設ける必要がないことに、直ぐに気付くだろう。何本かの横架材を束で支え、その上に「垂木」を架ければ済む。そこで「又首」組から「束立」組への転換が急に進んだものと思われる。
 また、「束立」組は「又首」方式に比べ、小回りがきく利点もあるから、それも転換を進めた大きな要因の一つでもあったろう。

 しかし、垂直に立つ「束」は、倒れやすい。そこで斜めの材で梁から「束」を支えればよい、というわけで「又首」様の「筋違」が生まれたのだろう。これには、当然、従来の「又首」方式がヒントになっているはずである。

  註 現在、普通は「束立」組を「和小屋」と呼ぶ。
    これは、明治になり西欧の「トラス組」:「洋小屋」が移入され、
    それとの区別で生まれた呼称である。
    しかし、西欧に「束立」組がないわけではない。 
  註 「束」は「束柱」の略。
    「束」の語義は、「短い」という意味。「束の間」の「束」である。
    つまり、「短い柱」のことを「束柱」と言う。

 この方法は、鎌倉時代の中ごろまで、つまり、「貫」の方法が普及するまで使われたようだ。
 上掲の図は、「桔木」を使う工法が分かりやすい奈良の郊外にある「秋篠寺(あきしのでら)」の断面図である。
 この建物の建設年代ははっきりしないが、鎌倉時代に建てられ何度かの改造で変容していたものを、明治年間に修理したのが現状の建物である。
 そして、諸資料を基に復原推定断面図では、桔木上に束立で小屋を形成する初期の姿が示され、棟木を支える束を斜めに支える「筋違」があったものと推定されている。つまり、これは「法隆寺・妻室」と同じ考え方、垂直に立つ「束」を支えるための考案にほかならない。

 しかし「筋違」の使用は、小屋の「束」にも「貫」が使われるようになり、自然と消滅して行った。
 作業性から言えば、「筋違」の方が明らかに簡単だ(「貫」を貫通させる孔を彫る作業は、機械加工が可能な現在とはちがい、数等面倒な仕事であった)。

 だから、「貫」に変って行ったのは、「貫」の性能、その信頼性が高く評価されたからだと考えてよい。

 「桔木」で軒が支持されるようになると、もはや、従前の「斗組」は不要になる。しかし、「斗組」の形式は「様式」として継承される。ただ、すでに構造的な用はなくなっているため、まさに形式的になり、小ぶりになる。同様に、垂木も、実際に屋根を受ける垂木は「野垂木」になり下からは見えず、見えるのは化粧の垂木:「化粧垂木」となり、これも小ぶりになる。もっとも、「桔木」を受ける「枕」は、上図のように「化粧垂木」の上に載せられている。

 この「化粧」材と「野物」材による架構法が、古代末以降、しばらく続くことになる。

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