小坂鉱山―補足

2007-03-13 00:49:50 | 専門家のありよう

 20年ほど前、小坂鉱山のいわれを調べたことがある。東北一帯を歩いていて、何かを秘めているように感じたからである。
 調べてゆくにつれて次々に分かってくることは、まさに驚嘆の一語に尽きた。何でも自分たちでやってしまう、「専門」などないのである。しかも手抜きなし。 

 そのとき撮った写真の一部と、町史からの写真を紹介する。他にも紹介したいものは多々あるが(地元の大工さんが、多分、見よう見まねで格闘したトラスなど・・)・・。

 現在、小阪鉱山:同和鉱業は、鉱業から撤退し、IT機器廃棄物からレアメタルを抽出・精錬する事業に転換したと聞いている。

 なお、この調査結果は、和泉恭子氏(写真撮影者)が修士論文「産業の振興と地域の発展」(筑波大学)としてまとめている。諸データは同論文によるところが多い。彼女は、日本有数の女性パラグライダー選手でもあったが、論文をまとめた10年後の1998年、不慮の落下事故で急逝した。 

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「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

2007-03-11 20:15:59 | 専門家のありよう
 「水俣病」の認定問題が、最近話題になっている。国が決めた「認定基準」の是非が争点のようだ。

 水俣病は化学工場の惹き起こしたいわゆる「公害」だが、日本で最初の「公害」は、「足尾鉱山(銅山)」の鉱毒垂れ流し問題とされ、その追求に一生をかけた田中正造の名を、いまや知らぬ者はないだろう。

 足尾銅山は江戸時代から本格的に稼動した鉱山である。明治10年:1877年、古河市兵衛が経営権を取得、新鉱脈の発見とともに産出量が増大、精錬所も設けられ、経営が軌道にのる。精錬によって大量の廃液が出るが、その放流が渡良瀬川を汚染、いわゆる鉱毒問題を起しだす。最初に鉱毒による田畑の被害が生じたのは、明治23年:1890年という。
 この鉱毒問題についての地元農民とそれを支援する田中正造の再三にわたる要求にもかかわらず、古河の改善は遅々として進まず、政府も適切な手を打たず、業を煮やした田中が明治34年:1901年、「直訴」の行動に出たことは、いまや知らぬ者はないだろう(1897年:明治30年、政府は浄水場の設置を命じているが、その後に被害が発生していることから、対策は十分ではなかったと思われる)。

 そしておそらく、大方の人は、鉱毒・鉱害は技術的に除去の難しい問題である、あるいは、除去に莫大な費用を要するものである、田中の直訴がなければ、本格的な対応・対策は進まなかった:できなかった、かのように思っているのではなかろうか。

 けれども、そうではない。
 実は、田中正造が直訴に及んだまったく同じ明治34年:1901年、「足尾銅山」に比肩する秋田の「小坂鉱山(銅山)」では、「鉱毒濾過装置」が完成、供用を開始しているのである(小坂川、その下流の米代川流域では、現在まで、鉱害被害が発生したという記録はない)。
 またそのころ小坂では、すでに、精錬にともなう「煙害」対策として、植林等の事業も着々と進行していた。植林の樹種の選定も研究され、そこで選ばれたアカシヤは今では小坂のシンボルにもなり、アカシヤ蜂蜜は特産品になっている。足尾と小坂の周辺の山々の緑の復原状況も異なることは一見しても分かる。

 つまり、「公害」として騒がれる以前、田中正造の出現する以前に、「小坂鉱山」では、鉱害や煙害という鉱山・精錬所でかならず起きる問題に対して措置が講じられていたのである。今流に言えば、「小坂鉱山」は「公害対策先進企業」だったことになる。
 けれども、小坂鉱山の経営者たちは、そのような呼ばれ方、扱われ方を拒否したにちがいない。
 なぜなら、彼らにとって、「鉱毒濾過装置」の設置などは、「先進」でも何でもなく、「鉱山を経営するにあたって当然考えなければならない一工程」に過ぎなかったからである。
 そして、現在のように、情報が容易に得られる時代であったならば、小坂で行われていることは、速やかに足尾にも、そして、ときの政府にも伝わり、解決も素早く進んだにちがいない。

 では、小坂鉱山を経営していたのは、いったいどんな人たちだったのか。
  
 京都・南禅寺の境内の南端に煉瓦造のアーチ橋がある。琵琶湖から水を引く「疎水」のための水道橋である。島根県の石見銀山には、明治中期につくられた銀の精錬所の跡が残っている。建物はすでにないが、急な山肌に高低差およそ25mにわたり9段の石垣が残っている(城郭の石垣の技術が使われたのではないだろうか)。この二つの遺構は、当時大阪に本拠をおいていた「藤田組」が建設にかかわっている。
 そして、「小坂鉱山」もこの「藤田組」の経営だったのである(この名の会社は現存しない。あえて言えば現在の「同和鉱業」の前身にあたる)。
 明治政府は、近代化のため、当初は基幹産業を直轄で経営していたが、経営に行き詰まり、民間に払い下げるようになるが、「小坂鉱山」も、明治17年:1884年、石見銀山の実績を買われ、藤田組に任される。

 藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した会社だったが、小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出たため姓が異なる)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛をきわめる。
 しかし、銀鉱石の枯渇とともに急激に業績は悪化、ついに閉山に追い込まれる。その閉山手続きのために、庄三郎の子、28歳の久原房之助が小坂へ派遣される。ところが彼は(本人は技術者ではない)、現地に常駐すると、閉山業務ではなく、石見銀山から武田恭作を技師長に迎え、地元小坂出身の米沢萬陸、青山隆太郎、大学出たての竹内維彦らに銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたのである。
 この熱意が実を結び、明治33年:1900年精錬所が着工し、1902年稼動を開始する。その前年の1901年、つまり、本格的な銅の精錬を始める前に、先に触れた「鉱毒濾過装置」が建設されていたのである。

 このこと、つまり「後になってつくった」のではなく、「あらかじめつくった」、という点に着目したい。これが、この装置を、彼らが銅の精錬の一工程として考えていた明らかな証なのである。
 これに対して、足尾では、先ず成果物、つまり銅の生産量を確保することを優先したのである。言ってみれば、まさに《近代的経営》を行っていたのだ。

 これらの努力の結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山としての地位を得ることになる。
 小坂は、今でこそ東北道が通過し、交通便利な場所になったが、明治の頃はまさに東北の山間の僻地と言って過言でなかった。
 久原房之助率いる先の技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な水や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、・・・こういったありとあらゆることをすべて彼らだけで成し遂げてしまった。
 働く人びとの生活基盤として、住宅を整え(炭鉱の住宅などとは比較にならない質の良い住宅でペチカなどもある)、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくる・・という計画を立て、実現に向け動き出す。
 これらの整備を、あくまでも、鉱山経営の一環として行ったのである。その際、必要な資材、機材(煉瓦、鋳鉄、はては発電機・・)は一部に輸入品もあるが、ほとんど現地生産を行っている。

 このような経営は、現在なら、採算を考えない非合理的な経営として批判され、また病院や劇場をつくることは、企業の利益の「社会還元」としてもてはやされることだろう。しかし、彼らは、この指摘をともに否定するだろう。
 実際、明治末年頃になると、「資本主義」の定着につれ、久原以下のこのような経営は疎んじられるようになり、藤田組本体の経営にも変化が表われる。「生産第一主義」が浸透し、久原たちの経営は「非近代的」と見なされ始めた。

 久原房之助は、いち早くこの「変動」を察知、明治38年:1905年、小阪に見切りをつけ、茨城県・日立で新たな鉱山経営をすべく、小坂を去る。
 久原とともに歩んできた技術者集団も(40名を超えたという)、彼に続き続々と小坂を去り、日立へ移る。そして、竹内維彦は日立鉱山営む日本鉱業の社長、小平浪平は日立製作所を、米沢萬陸は日立鉱山所長に、青山隆太郎は同精錬課長に・・といった具合に、日立で活躍する。実は、これが後の「日立製作所」の発祥に連なるのである。

 一部が折損した有名な日立の大煙突は、煙害防止策の一環で、小坂にも煉瓦造の大煙突があった(現存しない)。日立市の武道館になっている「共楽館」(1917年建設)は、元は働く人たちのための劇場であった。病院も整備された・・。しかし、これらはすべて、すでに小坂で構想済みのものを、日立で実施に移したものなのである。
 小坂には、明治43年:1910年に建てられた「康楽館」という木造擬洋風の劇場が現在も保存・活用され(重要文化財に指定)、1908年には当時東北一と言われた木造の総合病院も建設されている(1949年焼失)。

 つまり、同じ「近代化」でも、経営者・関係者の思想一つで、大きく結果が分かれてしまう、という事実を、足尾と小坂は如実に示している。古河が《近代的》経営者だとすると、多分、久原は旧弊な経営者と見なされたにちがいない。久原には、まだ江戸期の人たち、特に「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」の心意気が残っていたのではなかろうか。 

  註 地方巧者については別途紹介予定。⇒下記[註記追加:2010年5月9日]
    地方巧者・・・・「経済」の原義
     

 所詮、技術を含め、すべてはかかわる人間の器量次第なのである。 

 久原は、後に、政商と言われるようになるが、小坂での彼の仕事はあまり知られていない。
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勝手のし放題・・・・最近の建物の外観・形状

2007-03-09 12:03:08 | 専門家のありよう
 一昨日、本当に久しぶりに東京へ出た。今年になって初めて・・。
 かつての「仲間」が30数年ぶりに会う会合。浦島太郎だ、などと言いながら集まった。
 しかし、東京の街並み、家並み、というよりビル並みの方が浦島太郎だった。久しぶりの街の風景に、目を白黒するばかり。僅かな間に、乱雑さが激しくなっていた。と言うより、設計者が、ますます勝手をし放題になっているように思えた。

 何よりも不快だったのは、外面にネットやフィルムを張ったような装いの建物、意味不明な曲面のガラス面を差しかけた建物の多さだ。
 つくば市のある大学にも、都会の流行に負けじとつくったのではないかと思われる建物が最近建ったが、ほぼ全面、真っ向から西日を受けるつくりで、その面全体に「ネット」が張られている。どうやらそれが「デザイン」の目玉らしい。というのも、そのほかの面は、どう見ても、気配りが感じられないからだ。このネットは、西日よけのためらしい。しかし、何も西日に面するようにしか建てられない敷地ではない。そんなことをしなくても十分西日を避けて建てられる。とすると、この設計者の目的は「ネットを張ってみたい」ということにあったことになる。

 農村には、防風ネット、防鳥ネット、遮光ネット、遮光フィルム、マルチ用フィルム、シート・・など、各種各様そして色とりどりのネットやフィルムそしてシート類がある。農業者は、それらを「用」に「応じて」使い分ける。その使い分けの根拠は、農業の必然だ。風当たりが強い畑には防風ネット、しかも風の強さに応じて網目を選ぶ。鳥には防鳥ネット、これも鳥に合わせる・・・。どうしてもこれを使いたい、使ってみたい、というような選択は、無意味だから、しない。だから、それらが用いられた田園を見ると、地勢や何をつくっているのか、おおよその見当がつく。

 ところで、ある土地・場所に建物をつくるということは、その「ある土地」の「既存の環境を改変する」ことだ。そして、既存の環境の改変は、単に物理的な環境のみならず、その場所に暮す人びとの暮しそのものの改変でもある。
 かつて、人びとは、このような改変を行おうとするとき、その土地に宿る神に、改変の許しを請うた(日本では、すべてのものに神の存在を見た)。それは、その土地は、あくまでも神のものであって、自分たち個々人のものではない、使わせていただくのだ、という認識だ。そして、そのために営まれたのが「地鎮祭」であった。無断借用・使用、妥当ではない使用は神の怒りに触れる、それが転じて現今の工事の無事祈願の儀式となったのだ。
 かつては、たとえ一個人のものであっても、建物づくりは、そこの既存の環境を見据えた、言い換えれば、そこに暮す人びとを見据えたものに自ずとなっていたのである。だからこそかつての街並みは暮しやすいのであり、日照権騒動などが起きるわけがないのである。つまり、「個」のものでありながら、「公」のものに自ずとなっていたのだ。

 しかしながら、その意味が分からない装いを持つ建物の、そうなる必然・理由は、私には、設計者の《造形意欲》あるいは《差別化願望》にしか求めようがない。建物づくりとは、そういうことだったのだろうか。
 私のような浦島太郎には、それはまちがいとしか映らない。もしも、どうしても自らの《造形意欲》を示し、《差別化》を表してみたいなら、自らの金で、普通の人の目に触れないところで(普通の人に迷惑をかけないところで)やってくれ!、同好の士の間だけでやってくれ!と言いたくなる。
 
 昨年12月8日、ベルラーヘの言動を紹介した。彼は19世紀末のヨーロッパの建物は虚偽に満ち溢れている、過去の各種の様式を、その意味も顧みずに皮相的に寄せ集め貼り付けた建物が横行している、として批判した。
 もしも彼が今の姿を見たら何と言うだろうか。19世紀末には、まだ過去(の様式)との何らかの脈絡はあった。しかし、今は、何の脈絡もなく、支離滅裂。

 19世紀末に生まれ、20世紀初頭に生涯を閉じたオーストリアの詩人リルケに、次のような詩がある。彼もまた、世紀末の世の様相に批判的だった。

  ・・・・・
  今の世では、嘗てなかったほどに
  物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
  それは
  それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな
  用具に過ぎぬからだ。
  拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
  内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
  おのづから忽ち飛散するだろう。
  鎚と鎚とのあひだに
  われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
  歯と歯とのあひだに
  依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
  ・・・・・・
                    「第九の悲歌」より
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園城寺・光浄院客殿 の補足・・・・さまざまな開口部

2007-03-07 02:05:33 | 建物づくり一般

 光浄院客殿の南面:広縁と室内の仕切りは、先進の三本引きの「遣り戸」だが、東面には、上の図のように、まだ古い時代の面影が残る(2月26日掲載の平面図参照)。
 すなわち、正式の玄関は古代同様の軸吊りの「両開き戸」(ただ、全体に薄くなり、金属製の蝶番で二枚に折り畳める)、他には「蔀戸」「半蔀」が仕込まれる。
 興味深いのは、そのいずれにも、内側に引き違いの「明り障子」が設けられていること。
 しかし、十分な見込みがとれないので、約1寸強の見込みを二つ割にした障子が一本の溝:樋端:に納まっている。一本の見込みは、縦框の片方だけ1寸強で、後は6分程度。桟は骨太である。互いが多少摺れるが、これで十分開閉できる。
 表側は古風だが、内側は最新なのである。

  註 「樋端」は「長押」に取付けられている(断面図参照)。
    なお、断面図から、「長押」により隠れるので、
    1.3~1.5寸厚の「貫」が使えることが分かる。

 平面図の東南隅の出っ張り:「中門廊」は、「寝殿造」の形式の踏襲で、一見ここが出入口かと思うが、正式の入口:玄関は東面の開き板戸の箇所である。そこに急な階(きざはし)が付いている(2月26日の写真参照)。

  註 「方丈」などでは、「寝殿造」の余韻を残し
    玄関は、中門廊の位置に設けられている。

 図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より抜粋、加筆した。

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園城寺・光浄院客殿・・・・ふたたび

2007-03-06 13:32:45 | 建物づくり一般

 園城寺(三井寺)光浄院客殿が書院造の原型と言われていることは先に触れた(2月26日)。
 写真でも分かるように、この空間を整えているのは、柱、付長押(内法長押、蟻壁長押の二段)からなる真壁の壁面、そこに設けられる開口部、そして竿縁天井である。

 竿縁天井は、上層階級の建物では、中世以降一般的に用いられるようになる方法である(11月7日に天井の変遷について大まかに触れた)。
 天井は空間の様態を左右するから、同じ竿縁天井でも、竿縁に面を付けるなど、様々な工夫がなされている。
 その中でも、竿縁の割付けには、特に気が配られる。
 光浄院客殿では、正面に向って竿縁が流されているが、押板と違い棚の境の柱:床柱に相当:の芯に竿縁がこないと見苦しい。しかし、左右の壁間を単純に等分すると、かならずしも柱芯に竿縁がくるとはかぎらない。むしろ、狂うのが普通である。
 この問題を解消するために考案されたのが「蟻壁」だと言われている。一旦、「付長押:蟻壁長押または天井長押」をまわして真壁と縁を切った後、その上部を大壁にして、その壁厚で竿縁の割付を調整するのである。
 この「蟻壁」が空間の上部、天井際を一周するため、ややもすると重くなる天井面が、軽快になる。
 こうなることを見込んでいたのか、結果としてこういう効果が生まれたのかは不明だが、この手法が好まれたことは確かである。

  註 昨今は、回縁で調節するようだ。
    なお、この建物では、床に向って竿縁が流れている。
    通常「床刺し」と称して嫌われるが、それは後世の「習慣」である。 

 また、「付長押」の裏側には、3寸×1.3~1.5寸程度の「貫」:重要な構造部材が通っている。

 開口部の上部は、内法貫下位置で、柱間に鴨居を渡し、両面に内法長押をまわす。下部は、床板上に柱間に敷居を渡す。敷居の厚さは畳厚と同寸。外側には「地長押」をまわす。
 この建物の場合、上掲の図のように、通常鴨居に彫られる「樋端(ひばた)」ではなく、別材を隠し釘で取付けてつくっている(「付樋端」)。樋端の幅は、遣り戸1本分の厚さ、通称ドブ。戸と戸の間に3分の隙間があくので、建具の端部に隙間を塞ぐ材が付けられている(召し合せの一種)。
 現在のような「樋端」になるのは、溝彫り工具が普及してからのこと。

 いずれにしても、少ない要素だけで、空間をまとめ、整えるのは、日本の建物づくりの特筆すべき点と言ってよいだろう。

 上掲の図、写真(モノクロ)は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」より転載、加筆したものである。
 カラー写真は「原色日本の美術」より。

 この建物は、寺務所に申込むことで、拝観できる。
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奈良時代の開口部・・・・開き戸の頃

2007-03-05 01:37:39 | 建物づくり一般

 [補足訂正を加筆:9.50AM][補足加筆:8.10PM]

 上掲は、「法隆寺伝法堂」(761年ごろ創建)の開口部まわりの写真と図である。
 この時代、礎石の上に据えられた軸組を「長押」で固めている(日本独自の技法と言われる)。「貫」が現われる四百数十年ほど前である。

 この建物では、「長押」は軸組の足元と頭部に二段設けられているが、開口部は、柱と二段の長押でつくられる長方形の間につくられる。
 横方向:開口の下に「敷見」、上に「辺付」が柱間に渡され(材は2枚に分けられ、両側から組み込む)、次いで、この二材の間に、縦方向に「方立」、その上下に「楣(まぐさ)」「蹴放(けはなし)」(いわば、上下の「戸あたり」に相当)が組まれ、開口が完成する。
 建具は、開口の外側に取付けられる「敷見」「辺付」に彫られた孔に、建具の上下に仕込んだ軸を差し込む「軸吊り」の「開き板戸」。今のピボットヒンジである。

  註 「敷見」は「しきみ」と読む。「閾」の字の当て字か?
    「閾」とは、内外を区画する横木。「敷居」「無目敷居」とも言う。
    「辺付」は何と読むのか、調べ中。
     調べた結果
    「辺付」は「へんづけ」と読む。
     既にある材に添えて設ける材を呼ぶらしい。
 
 ここでは、軸組に必要な材、建具を取付けるために必要な材が、それぞれ必要な寸面で設けられ、それがそのまま表われ、仕上がりとなる。
 素朴にして率直、言ってみれば、嘘偽りのない表現。大らかな感じを受けるのはそのためだろう。
  
 日本の特徴と言われる「引違い」の建具(「遣り戸」)が一般化するのは、中世以降であり、当初は、西欧等他地域同様、「開き戸」、しかも開口の外側に設けるのが普通だった(横開き、縦開き)。「つくる」という場面を考えてみれば、あたりまえな話ではある。開口の外側に、開口をふさぐ形で大き目の建具をつくれば済むからである。建具の変遷について、いずれ触れてみたい。

 なお、寺院等の板戸は、当初、一枚板、あるいは厚板を矧いでつくられていた。図中の「端喰(はしばみ)」は、厚板を矧ぐとき、材の狂いを防ぐ手法(現在でも使われる)。「端嵌め(はしはめ)」の転じた呼称である。
 厚板が使われたのは、当時、薄い板をつくることができなかった(道具がなかった)からである。これは、床に厚板が使われたのと同じである。
 だから、庶民には、板は高嶺の花であった。

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「化粧」にこだわる-2・・・・化粧か素顔か

2007-03-03 03:08:15 | 設計法

 昨日の続き。

 「化粧」で表面・表情をつくるのは、比較的容易。また面白い。上はそのいくつかの例。

 一方で、何か違和感は常に感じていた。
 たとえば、一番上の写真に見える円柱。中に細い鉄骨がある。それが構造体。つまり、この柱は張りぼてのつくりもの。これでは舞台のセット、書割りではないか。構造体と空間の乖離。これでいいのだろうか。
 もっとも、今ではこういう設計が普通らしいが・・・。

 その頃から、構造がそのまま空間となる、空間を支える構造が空間構成要素の一部となる、それが建物づくりの本来の姿ではなかったか、とあらためて考えるようになった(「浄土寺・浄土堂」に惹かれるのは、まさにそれを具現しているからだ⇒10月20日、11月29、30日)。構造体の柱を、ときには横材も、表しのままとする日本の建物づくりの技術が新鮮に見え出した。

 また、日本の建物づくりは、仕事の進め方にも無理がないことにも気が付いた。
 たとえば、天井。ごく普通の竿縁天井、これをつくる場合、下向きの姿勢で仕事ができる。先ず竿を渡し、天井板を載せる。これで仕上がる。
 こういったことを、学び直す必要を感じ、その頃から後の設計は少しずつ変ってきた。

  註 いずれも竣工当時の写真
    相模女子大3号館    :「新建築1967年10月号」
    東京大学工学部11号館 :「新建築1969年9月号」
    北条小学校          :「近代建築1972年2月号」
    どの建物も最近訪れていないので、
    今どうなっているかは詳らかではない。

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「化粧」にこだわる-1・・・・作業の姿勢

2007-03-02 10:06:07 | 設計法

 ある時期、日本の建物のつくり方や空間に魅力を感じる一方、ライトやアアルトの建物、彼らの「もの」の表情のつくり方:「化粧」のしかたにも魅かれ、大きく影響を受けた。ライトやアアルトの設計に魅かれたのは、多分、日本の空間のつくり方に通じるところを感じたからだろう。

 ライトがよく用いている平坦な面に、化粧縁・付け縁:trimや梁型をつくりだす手法も使ってみた。
 これもその例。湘南の相模湾を望む斜面に建てた住宅である。
 天井には「付け縁:trim」や凹みなどを設けている。
 これは、石膏ボード張りの上に、付け縁:trimを打ちつけ、寒冷紗を捨張りして水性ペイントを塗るという手の込んだ仕事。

 しかし、たしかに仕上がりはきれいなのだが、施工中の作業を見ていて、どこか納得の行かない点を感じていた。どの工程も、上を向いての作業の連続だからである。そういう無理をしてやることなのだろうか。

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閑話・・・・東大寺・三月堂と佛たち

2007-03-01 01:21:46 | 建物案内
 
 はや、三月になった。

 2月14日の「版築の基壇」で紹介した「東大寺・法華堂」では、毎年三月に法華会を行うことから、「三月堂」とも呼ばれている。
 建物の正面は、南面にある(写真・立面図では右手にあたる)。

 堂内には、多数の天平彫刻・佛像が安置されている。日光菩薩像、月光菩薩像が有名。ここでは私の好きな像を載せた。

 堂内は、お堂にいるというよりも、美術館で佛像展示を観ているよう。大きさもまちまちの像がたくさん並び、堂の空間と像が、ぴったりこない。
 それというのも、ここにある佛像群は、本来、この堂の佛像ではなく、各所に散逸していた佛像を集めたからだという。

  註 「浄土寺・浄土堂」は、堂の空間と像が見事に一致している。
    像のために空間があり、空間のために像がある。

  註 羂索:不空羂索観音などの持つ索条:綱。
    仏像の名などに用いられる佛教用語は難しい。
    筆者はその点まったく無知である。

 真夏の暑さの中、この堂に入ると、堂内はひんやりとしていていつもほっとする。そして冬は、足底からしんしんと冷えてくるが、それでもやはり長居したくなる。そのくらい素晴らしい。

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