日本の建築技術の展開-7・・・・中世の屋根の二重構造

2007-03-28 14:37:36 | 日本の建築技術の展開

[4.50PM 補足を加筆]

 先回、天井の出現と「桔木」の出現について簡単に触れた。
 平安時代前期の建物は、ほとんど遺構がないため、どのように架構が変遷していったか、その経過を知ることが難しかったという。
 ただ、法隆寺の大講堂を解体・修理をした際の調査によって、屋根の構造の原型、つまり平安時代の初め頃の屋根の架け方が判明する。

 この点について、唐招提寺の屋根構造の原型を、屋根裏の精細な調査から推定した、奈良時代建築に詳しい浅野清氏の解説を、以下にそのまま紹介する。
 出典は、シリーズ「日本の美術245:浅野清 日本建築の構造」(至文堂)。

  註 この書は、日本建築の構造を明快、簡潔に解説している。
    参考図書としてお薦め。
    なお、以下の解説は下記論文が基になっている 
    浅野清「日本建築に於ける野屋根の発生に就いて」
    日本建築学会論文集30号 昭和18年

    氏の代表著作:「法隆寺建築綜観」便利堂 昭和28年 ほか

 ・・平安時代には全く別な必要から、わが国独特な二つの大きい成果をあげている。一つは野屋根(のやね)の発明、もう一つは開き戸の他に引き戸を工夫した点で、その日本建築に及ぼした効用は極めて大きかったのである。 
 ・・・・・
 ・・・(一般に)身舎(もや)の垂木よりも庇(ひさし)の垂木の勾配を緩くし、更に飛檐垂木(ひえんだるき)の勾配を緩くしていたのであるが、これは、一つには側柱(がわばしら)上の桁から外での垂木の下りをあまり大きくしないためであった。

  註 「檐(えん)」は「のき」「ひさし」、屋根の葺き下した端の意。

 日本人は平安時代になると、奈良時代に貴族や僧侶の間で試みられていた中国風の椅子やベッドの生活は全く捨て去って、もっぱら座る生活に徹してしまったのであったが、そうなると床板を張り、周囲に縁側を設けることになる。また座る生活には、高い天井よりも、ずっと低く、座って落ちつく室内空間が好まれるようになり、自然、柱も短くされたが、そうなると軒先の下ってくるのは目障りになって、なるべく垂木の傾斜を緩くしたくなった。しかし・・あまり緩くすれば、・・雨の始末に困ってくる。特にわが国のように強い風を伴う雨に見舞われる地域では・・緩い勾配の屋根にすることは許されない。

 こうして工夫されたのが、下から見える垂木の勾配を緩くし、その上に別に実際に水を流す屋根(野屋根)を載せることであった。
 わが国では平安時代前期の建物がほとんど残っていないので、この構造の発達の経過を追跡することは至難であるが、幸い正暦元年(990年)に再建された法隆寺講堂の解体修理による調査で、徹底的に改造されていた屋根構造の原形を復原することができたので、その結果について説明しよう。
 ・・・・・
 復原修理された現状で見られるように、この堂では身舎(もや)一面に梁の下に天井が張られているので(上掲内部写真)下から屋根裏の見えるのは庇部分のみであるが、ここでは地垂木の傾斜をずっと緩くしておき、身舎の垂木は上方にあって実際に雨水を受ける役をつとめていて、下から見えている庇の垂木とは無関係になっている。
 次に飛檐垂木(ひえんたるき)の先端に、横にずっと取りつく茅負(かやおい)のL型に造られた入隅を利用して、そこから身舎の垂木の下端近くの垂木(野垂木)上面へかけて太さも地垂木と変わらない直材の垂木を、下から見える垂木の倍の間隔に配置していた。

  註 図のサイズが小さいため、分かりにくく恐縮

 この堂では、垂木(化粧垂木)の上には板を打たないで、木舞(小舞)を並べて土を塗る方式であったので、この垂木の断面は上面が山形になって、そこに木舞を絡む縄を通す孔があけられていた(上掲写真)。しかし、その上にかけられた下からは見えない垂木(野垂木)は長方形断面で、上面の角に木舞を縛る縄を通す穴があけられていた。身舎の上方の垂木にも同様な穴があったので、くの字形に配されたこの二つの野垂木の上に編まれた木舞の上に土を盛って瓦屋根が葺かれていたことがよく分かった。

  註 仕上げは、木舞上に土を置き、下から返し土をして、白土で化粧する。 

 こうした構造が成立すると、その効用は最初の目的を超えて、大きい結果をもたらすことになってきた。
 その最も重要な点は、この化粧垂木以下の下部構造と上部の屋根構造の間の縁が絶たれて、自由に下部とは全く関連のない屋根もあげることができるようになったことである。そうした例をいくつか挙げてみよう。
 (1)非対称の平面に対称の屋根をあげる。
    兵庫県「鶴林寺太子堂」(説明略)
 (2)並堂を改装して、一つ屋根の堂にする。
    奈良県「当麻寺曼荼羅堂」(説明略)
 (3)複雑な内部空間を一つ屋根に納める。
    京都府「浄瑠璃寺本堂」(説明略)
 (4)天井による構造材の隠蔽。
    座る生活が固定し、動きの少ない動作が多くなると、落ちついた穏やかな
    室内空間を求めて、力強い梁のような構造材を隠すため、その下(全面
    に)天井を張った、これは法隆寺講堂の身舎でも見たが、小堂になると長
    押のすぐ上に、小組格天井、折上小組格天井を張るか、または天井と長
    押の間に蟻壁、連子欄間などをはめたものを生じるようになった。

 建具及び雑作の発展 (省略:いずれ紹介の予定)
 ・・・・・

 現状矩計(上掲の上段の図)では、大梁に丸太の太鼓を使い、「桔木」で軒を支えた構造になっている。建物全体の間口も9間あるが、元は8間であった。
 なお、上掲の図には、原書より転載の上、文字を加筆している。

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