続・地震への対し方・・・・地震は分かっていない

2007-03-27 12:36:47 | 地震への対し方:対震
[「日本の建築技術の展開-7」に進む前に飛び入り]

 能登半島を中心に大きな地震があった。最近、大きな地震がよく起きる(しかも、地震としばらく縁のなかった地域で・・)。
 そして、そのたびに分かること。それは、「地震は未だにまったく分かっていない」という事実。
 おそらくこれから先も、次々に、地震のたびに、「分かっていないこと」が「分かってくる」のだろう。それには限りがない。永遠に続く。

 何度も紹介するが、「・・伝統構法は、現代的な科学技術とは無縁に発展してきたものであるだけに、その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態であり、今後の大きな課題である。・・(坂本功)」という木造建築の権威の発言の論理矛盾。
 氏らが説く木造耐震法は、「地震」が分かっているものとしてつくられた理論が基だ。「現代科学で分からないものは分からない」と言いながら、「現代科学で分かっていない地震」に対抗していることになる。
 「分かってもいない地震」を「力でねじ伏せてやろう」というのだから、ドンキホーテ的と言わざるを得ない。
 
 昔の人なら、地震は「人智の及ばないこと:現象」として理解したはずである(それは、彼らが科学的知見、科学的思考法を持っていなかったからではない)。
 だからと言って、彼らは、「人智の及ばない力にねじ伏せられてもしかたがない」と考えていたわけでもない。
 彼らは、「地震とともにあればよい」と考えたのである。言ってみれば、「揺れに対して無駄な抵抗はせず、揺れるに任せようではないか」ということだ。それが、かつての日本の工人が行き着いた「工法」いわゆる「伝統工法」だったのではなかろうか。
 具体的に言えば、揺れても、部材がバラバラにならないようにだけ注意して、揺れに身を任せていればよい、と考えたのだ。

 そろそろ、地震の力なるものを(勝手に)設定し、それに耐えるという思考法から脱却したらどうだろうか。そうでもしないかぎり、地震のたびに「耐震の前提」を変更しなければならず、それでは「いたちごっこ」だ。

 むしろ、必要なのは「疫学的」方法・思考法ではないだろうか。
 たとえば、今回の地震でも、同じ地域で、破損・倒壊した建物と、大きな被害を受けない建物とが併存している(27日付朝日新聞電子版に上空からの写真がある)。「何が壊れ、何が壊れないのか」、それを知ることから始めるのである。
 おそらく、かつての工人は、その視点で、いろいろと仮説をたて、ものごとを観ていたにちがいない。
 今だったら統計的処理をするのだろうが、彼らは経験の蓄積・継承を通じて(これは、結果的には統計的処理にほかならないのだが)、あるべき工法・技術を考えてきたのだ。

  註 こういう方法は、病気の発生原因等を調べるときになされてきた。
    それを「疫学的」方法という。

 これに対して、今の学者・専門家は、何度も言ってきたように、壊れたものしか見ない(あえて「観ない」と書かず「見ない」と書く。意味がちがうからだ)。
 しかも、ドンキホーテ的。ドンキホーテには愛嬌があるが、彼らにはない。あるのは傲慢。
 今こそ「耐震」から「対震」へ、思考法の転換が必要なのではないだろうか。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする