奈良時代の開口部・・・・開き戸の頃

2007-03-05 01:37:39 | 建物づくり一般

 [補足訂正を加筆:9.50AM][補足加筆:8.10PM]

 上掲は、「法隆寺伝法堂」(761年ごろ創建)の開口部まわりの写真と図である。
 この時代、礎石の上に据えられた軸組を「長押」で固めている(日本独自の技法と言われる)。「貫」が現われる四百数十年ほど前である。

 この建物では、「長押」は軸組の足元と頭部に二段設けられているが、開口部は、柱と二段の長押でつくられる長方形の間につくられる。
 横方向:開口の下に「敷見」、上に「辺付」が柱間に渡され(材は2枚に分けられ、両側から組み込む)、次いで、この二材の間に、縦方向に「方立」、その上下に「楣(まぐさ)」「蹴放(けはなし)」(いわば、上下の「戸あたり」に相当)が組まれ、開口が完成する。
 建具は、開口の外側に取付けられる「敷見」「辺付」に彫られた孔に、建具の上下に仕込んだ軸を差し込む「軸吊り」の「開き板戸」。今のピボットヒンジである。

  註 「敷見」は「しきみ」と読む。「閾」の字の当て字か?
    「閾」とは、内外を区画する横木。「敷居」「無目敷居」とも言う。
    「辺付」は何と読むのか、調べ中。
     調べた結果
    「辺付」は「へんづけ」と読む。
     既にある材に添えて設ける材を呼ぶらしい。
 
 ここでは、軸組に必要な材、建具を取付けるために必要な材が、それぞれ必要な寸面で設けられ、それがそのまま表われ、仕上がりとなる。
 素朴にして率直、言ってみれば、嘘偽りのない表現。大らかな感じを受けるのはそのためだろう。
  
 日本の特徴と言われる「引違い」の建具(「遣り戸」)が一般化するのは、中世以降であり、当初は、西欧等他地域同様、「開き戸」、しかも開口の外側に設けるのが普通だった(横開き、縦開き)。「つくる」という場面を考えてみれば、あたりまえな話ではある。開口の外側に、開口をふさぐ形で大き目の建具をつくれば済むからである。建具の変遷について、いずれ触れてみたい。

 なお、寺院等の板戸は、当初、一枚板、あるいは厚板を矧いでつくられていた。図中の「端喰(はしばみ)」は、厚板を矧ぐとき、材の狂いを防ぐ手法(現在でも使われる)。「端嵌め(はしはめ)」の転じた呼称である。
 厚板が使われたのは、当時、薄い板をつくることができなかった(道具がなかった)からである。これは、床に厚板が使われたのと同じである。
 だから、庶民には、板は高嶺の花であった。

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