「公害」・・・・足尾鉱山と小坂鉱山

2007-03-11 20:15:59 | 専門家のありよう
 「水俣病」の認定問題が、最近話題になっている。国が決めた「認定基準」の是非が争点のようだ。

 水俣病は化学工場の惹き起こしたいわゆる「公害」だが、日本で最初の「公害」は、「足尾鉱山(銅山)」の鉱毒垂れ流し問題とされ、その追求に一生をかけた田中正造の名を、いまや知らぬ者はないだろう。

 足尾銅山は江戸時代から本格的に稼動した鉱山である。明治10年:1877年、古河市兵衛が経営権を取得、新鉱脈の発見とともに産出量が増大、精錬所も設けられ、経営が軌道にのる。精錬によって大量の廃液が出るが、その放流が渡良瀬川を汚染、いわゆる鉱毒問題を起しだす。最初に鉱毒による田畑の被害が生じたのは、明治23年:1890年という。
 この鉱毒問題についての地元農民とそれを支援する田中正造の再三にわたる要求にもかかわらず、古河の改善は遅々として進まず、政府も適切な手を打たず、業を煮やした田中が明治34年:1901年、「直訴」の行動に出たことは、いまや知らぬ者はないだろう(1897年:明治30年、政府は浄水場の設置を命じているが、その後に被害が発生していることから、対策は十分ではなかったと思われる)。

 そしておそらく、大方の人は、鉱毒・鉱害は技術的に除去の難しい問題である、あるいは、除去に莫大な費用を要するものである、田中の直訴がなければ、本格的な対応・対策は進まなかった:できなかった、かのように思っているのではなかろうか。

 けれども、そうではない。
 実は、田中正造が直訴に及んだまったく同じ明治34年:1901年、「足尾銅山」に比肩する秋田の「小坂鉱山(銅山)」では、「鉱毒濾過装置」が完成、供用を開始しているのである(小坂川、その下流の米代川流域では、現在まで、鉱害被害が発生したという記録はない)。
 またそのころ小坂では、すでに、精錬にともなう「煙害」対策として、植林等の事業も着々と進行していた。植林の樹種の選定も研究され、そこで選ばれたアカシヤは今では小坂のシンボルにもなり、アカシヤ蜂蜜は特産品になっている。足尾と小坂の周辺の山々の緑の復原状況も異なることは一見しても分かる。

 つまり、「公害」として騒がれる以前、田中正造の出現する以前に、「小坂鉱山」では、鉱害や煙害という鉱山・精錬所でかならず起きる問題に対して措置が講じられていたのである。今流に言えば、「小坂鉱山」は「公害対策先進企業」だったことになる。
 けれども、小坂鉱山の経営者たちは、そのような呼ばれ方、扱われ方を拒否したにちがいない。
 なぜなら、彼らにとって、「鉱毒濾過装置」の設置などは、「先進」でも何でもなく、「鉱山を経営するにあたって当然考えなければならない一工程」に過ぎなかったからである。
 そして、現在のように、情報が容易に得られる時代であったならば、小坂で行われていることは、速やかに足尾にも、そして、ときの政府にも伝わり、解決も素早く進んだにちがいない。

 では、小坂鉱山を経営していたのは、いったいどんな人たちだったのか。
  
 京都・南禅寺の境内の南端に煉瓦造のアーチ橋がある。琵琶湖から水を引く「疎水」のための水道橋である。島根県の石見銀山には、明治中期につくられた銀の精錬所の跡が残っている。建物はすでにないが、急な山肌に高低差およそ25mにわたり9段の石垣が残っている(城郭の石垣の技術が使われたのではないだろうか)。この二つの遺構は、当時大阪に本拠をおいていた「藤田組」が建設にかかわっている。
 そして、「小坂鉱山」もこの「藤田組」の経営だったのである(この名の会社は現存しない。あえて言えば現在の「同和鉱業」の前身にあたる)。
 明治政府は、近代化のため、当初は基幹産業を直轄で経営していたが、経営に行き詰まり、民間に払い下げるようになるが、「小坂鉱山」も、明治17年:1884年、石見銀山の実績を買われ、藤田組に任される。

 藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した会社だったが、小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出たため姓が異なる)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛をきわめる。
 しかし、銀鉱石の枯渇とともに急激に業績は悪化、ついに閉山に追い込まれる。その閉山手続きのために、庄三郎の子、28歳の久原房之助が小坂へ派遣される。ところが彼は(本人は技術者ではない)、現地に常駐すると、閉山業務ではなく、石見銀山から武田恭作を技師長に迎え、地元小坂出身の米沢萬陸、青山隆太郎、大学出たての竹内維彦らに銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたのである。
 この熱意が実を結び、明治33年:1900年精錬所が着工し、1902年稼動を開始する。その前年の1901年、つまり、本格的な銅の精錬を始める前に、先に触れた「鉱毒濾過装置」が建設されていたのである。

 このこと、つまり「後になってつくった」のではなく、「あらかじめつくった」、という点に着目したい。これが、この装置を、彼らが銅の精錬の一工程として考えていた明らかな証なのである。
 これに対して、足尾では、先ず成果物、つまり銅の生産量を確保することを優先したのである。言ってみれば、まさに《近代的経営》を行っていたのだ。

 これらの努力の結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山としての地位を得ることになる。
 小坂は、今でこそ東北道が通過し、交通便利な場所になったが、明治の頃はまさに東北の山間の僻地と言って過言でなかった。
 久原房之助率いる先の技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な水や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、・・・こういったありとあらゆることをすべて彼らだけで成し遂げてしまった。
 働く人びとの生活基盤として、住宅を整え(炭鉱の住宅などとは比較にならない質の良い住宅でペチカなどもある)、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくる・・という計画を立て、実現に向け動き出す。
 これらの整備を、あくまでも、鉱山経営の一環として行ったのである。その際、必要な資材、機材(煉瓦、鋳鉄、はては発電機・・)は一部に輸入品もあるが、ほとんど現地生産を行っている。

 このような経営は、現在なら、採算を考えない非合理的な経営として批判され、また病院や劇場をつくることは、企業の利益の「社会還元」としてもてはやされることだろう。しかし、彼らは、この指摘をともに否定するだろう。
 実際、明治末年頃になると、「資本主義」の定着につれ、久原以下のこのような経営は疎んじられるようになり、藤田組本体の経営にも変化が表われる。「生産第一主義」が浸透し、久原たちの経営は「非近代的」と見なされ始めた。

 久原房之助は、いち早くこの「変動」を察知、明治38年:1905年、小阪に見切りをつけ、茨城県・日立で新たな鉱山経営をすべく、小坂を去る。
 久原とともに歩んできた技術者集団も(40名を超えたという)、彼に続き続々と小坂を去り、日立へ移る。そして、竹内維彦は日立鉱山営む日本鉱業の社長、小平浪平は日立製作所を、米沢萬陸は日立鉱山所長に、青山隆太郎は同精錬課長に・・といった具合に、日立で活躍する。実は、これが後の「日立製作所」の発祥に連なるのである。

 一部が折損した有名な日立の大煙突は、煙害防止策の一環で、小坂にも煉瓦造の大煙突があった(現存しない)。日立市の武道館になっている「共楽館」(1917年建設)は、元は働く人たちのための劇場であった。病院も整備された・・。しかし、これらはすべて、すでに小坂で構想済みのものを、日立で実施に移したものなのである。
 小坂には、明治43年:1910年に建てられた「康楽館」という木造擬洋風の劇場が現在も保存・活用され(重要文化財に指定)、1908年には当時東北一と言われた木造の総合病院も建設されている(1949年焼失)。

 つまり、同じ「近代化」でも、経営者・関係者の思想一つで、大きく結果が分かれてしまう、という事実を、足尾と小坂は如実に示している。古河が《近代的》経営者だとすると、多分、久原は旧弊な経営者と見なされたにちがいない。久原には、まだ江戸期の人たち、特に「地方巧者(ぢかたこうじゃ)」の心意気が残っていたのではなかろうか。 

  註 地方巧者については別途紹介予定。⇒下記[註記追加:2010年5月9日]
    地方巧者・・・・「経済」の原義
     

 所詮、技術を含め、すべてはかかわる人間の器量次第なのである。 

 久原は、後に、政商と言われるようになるが、小坂での彼の仕事はあまり知られていない。
コメント (2)
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