遠い記憶(その二)

 子供の頃、彼岸や夏休みに泊まりに行くとこの二階の一番手前の部屋に泊まったものであった。南側には、やはり磨かれ黒光りする長い廊下が続くが、廊下には窓はなく外に向かって吹き抜けであった。夕方になると雨戸を閉め、朝になると女中が雨戸を開ける。長い廊下の両端にある戸袋まで、ガラガラと雨戸を押す音で目を覚ますのが常であった。

 更にこの奥には別棟の納屋と土蔵とが裏山の立ち上がるぎりぎりのところに建っていた。納屋の半分は漬物小屋で大きな樽や甕に白菜や梅干が漬け込んであった。多くの方が想像される通り、この漬物が美味しかったことは言うまでもない。土蔵の方は二階部分を改造し、随分と年上ではあるが私の従兄弟夫婦が住まいとして使っていた。

 さて、話を玄関部分の方に戻そう。
 正面の土間の左側、帳場の前には囲炉裏があり、真夏を除いては炭がおき鉄瓶が湯気を噴いていた。水は井戸水で石灰分が多かったのであろうか、鉄瓶の注ぎ口は結石で覆われ随分と細くなっていた。囲炉裏の脇の壁の上の方には棚が吊ってあり、白河達磨が三寸くらいの小さなものから一尺五寸くらいの大きなものまで七、八個がずらりと並んでいた。

 正面の黒光りのする廊下の突き当たり右側、二階への階段下には電話ボックスがあった。公衆電話のボックスではない。電話が特別のものであった時代の、小さな「電話室」である。上半分にガラスのはまったあめ色の扉を開けると、正面上方に黒い電話機がついていた。電話機の右側にはハンドルがついていて、これをぐるぐる回して交換手が出るのを待つ。

 交換手が出ると「十番から白河○○○○番お願いします」と言って受話器を本体に戻す。しばらくすると電話機が鳴る。受話器をとると交換手が「東舘局です。白河○○○○番がでています。お話ください」という。ここでようやく本来の相手先と話ができるのである。

 「十番」と言うのは電話番号である。つまり東舘電話局管内で十番目に設置された電話だから「十番」。電話をかけて最初につながるのが東舘電話局だから市外局番はなく、ただの「十番」。白河○○○○番というのは白河で洋服の仕立て屋をしていた母方の祖母のところの電話番号。那須屋に行っての楽しみの一つが、母方の祖母に電話をすることであった。勿論子供の背丈では電話機まで手が届かないから、伯母や女中に抱いてもらったり、茶箱の上にあがったりしてかけたものであった。

 四十年数年前にはこんな電話がまだ残っていたのである。電話室の扉にはまったガラスには金文字で誇らし気に「東舘十番」と書かれていたが、おそらく昭和の初め頃に設置したものであったのだろう。

 残念なことに、街道に面した玄関部分は従兄弟の代になってから取り壊して改築されてしまったが、奥座敷の部分は当時のままのはずである。

 二十年前に伯父が亡くなり、従兄弟の代になってからは二、三度行ったきりである。十年ほど前に町営の宿泊施設ができでからは、商売の方はなかなか難しいようである。今となっては、改築せずに七十年前の姿のまま、それを売りにした方が商売としては良かったのかも知れないと思うのだが後の祭りである。(つづく)

 本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月18日に掲載した記事に加筆・修正したものです。

その一
その三
その四・最終回



なるせの森
、谷戸の畑に植えられた里芋。

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