唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
遠い記憶(その三)
小学校三年になるまで住んでいた白河から東舘まではバスと汽車とを使って行く。バスは国鉄バス「白棚線」である。この白棚線、戦前は汽車が走っていたそうだが、戦況の悪化につれて物資の不足が深刻になり線路を供出して路線は廃止、戦後になって軌道跡を国鉄バス専用の道路として整備したものであった。60km/hでの走行が可能であったことから当時は高速バスと呼ばれていた(この国鉄バス「白棚線」については近いうちに別項で紹介したい)。
当時住んでいた家からは白河駅始発のバスの最初の停留所である「昭和町」が最寄のバス停で、ここから国鉄水郡線の磐城棚倉駅までは一時間程であったように記憶している。棚倉で一、二時間に一本程度の水郡線の汽車に乗り三十分程で東舘に着く。待ち時間も含めると白河からは二時間程かかっただろうか。
「汽車」と書いたが、当時はそう呼んでいたと言うことであり、正確な意味での汽車ではない。当時は鉄道の線路を走る乗り物はすべて汽車と呼んでいたのだが、先に「汽車」と書いたものも正確にはディーゼルエンジンで走る気動車である。通常は二両編成で、時に三両連結の汽車がプラットホームに入って来た時には大喜びしたものであった。
東舘に出かけるのは大概において法事、彼岸の時か夏休みなどであったが、その思い出の多くは食べ物と結びついている。特に思い出すのは彼岸の時の「おはぎ」と炊き込みご飯である。おはぎは作るのを手伝ったこともあった。
手伝うとはいっても、粘土遊びよろしくこね回しているだけで、出来上がったものはとても人が食べられるような代物ではなかった。炊き込みご飯は大きな釜と昔ながらのかまどで薪をくべて炊いていた。炊き上がると釜から大きなお櫃に移し、更にそのお櫃を外側に白い布が張られた保温用の籠に入れておくのだった。
夏に出かけた時の楽しみは何と言っても「かき氷」である。これが楽しみで東舘に行ったと言っても過言ではないほど。夏休みに那須屋に行くと、伯母が「良く来たね、暑かっただろう。かき氷でも食べるかい。イチゴにする、それともメロン?」と聞いてくれるのが常であった。そして伯母は下駄を突っ掛けて向かいの八百屋に頼みに行くのだ。数分後にいくつかのかき氷の入った岡持を八百屋の小母さんが持ってきてくれる。かき氷の出前である。
鮎と「あかはら」(ウグイ)も懐かしい。伯父が久慈川で自ら網を打って(投網だ)獲り、昨日書いた囲炉裏で焼く。久慈川はその源を福島・栃木・茨城の県境にまたがる八溝山(1,022m)に発し、棚倉を経て谷筋を下り茨城県に至り日立市で太平洋に注ぐ一級河川である。いまでは投網漁は認められないのだろうが、当時は鮎漁の普通のスタイルであったようだ。網を廊下に広げて手入れをしている伯父の姿の記憶がある。
宿の親父が自ら網を打ち獲った鮎をその晩には囲炉裏で焼いて泊まり客に出すのだから、今になって思えば大変な贅沢で膳であったと言えよう。
当時の久慈川では鰻も獲れた。鰻は竹でできた仕掛けを川に沈めておいて獲っていたようだ。獲ってきた鰻は調理するまで中庭の井戸の脇にある、小さな風呂桶ほど丸い流しに入れておかれた。従兄弟に掴んでみろと言われては散々格闘するのだが、鰻はヌルリヌルリと逃げるばかりで私には捕まえることが出来なかった。
従兄弟がことも無げに掴み取り調理場に持って行くのを驚きながら見ていたものである。鰻は上客に出したのであろう。一度だけ食べさせてもらったのは蒲焼ではなく天麩羅であったように記憶している。(つづく)
本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月20日に掲載した記事に加筆・修正したものです。
その一
その二
その四・最終回
苦瓜(ゴーヤ)の花。[ 撮影:あかねの森 ]
都合によりいつもり1日遅くなりましたが、今日恩田の森で撮影した写真をこちらに掲載しておりますのでぜひご覧ください。
恩田Now
当時住んでいた家からは白河駅始発のバスの最初の停留所である「昭和町」が最寄のバス停で、ここから国鉄水郡線の磐城棚倉駅までは一時間程であったように記憶している。棚倉で一、二時間に一本程度の水郡線の汽車に乗り三十分程で東舘に着く。待ち時間も含めると白河からは二時間程かかっただろうか。
「汽車」と書いたが、当時はそう呼んでいたと言うことであり、正確な意味での汽車ではない。当時は鉄道の線路を走る乗り物はすべて汽車と呼んでいたのだが、先に「汽車」と書いたものも正確にはディーゼルエンジンで走る気動車である。通常は二両編成で、時に三両連結の汽車がプラットホームに入って来た時には大喜びしたものであった。
東舘に出かけるのは大概において法事、彼岸の時か夏休みなどであったが、その思い出の多くは食べ物と結びついている。特に思い出すのは彼岸の時の「おはぎ」と炊き込みご飯である。おはぎは作るのを手伝ったこともあった。
手伝うとはいっても、粘土遊びよろしくこね回しているだけで、出来上がったものはとても人が食べられるような代物ではなかった。炊き込みご飯は大きな釜と昔ながらのかまどで薪をくべて炊いていた。炊き上がると釜から大きなお櫃に移し、更にそのお櫃を外側に白い布が張られた保温用の籠に入れておくのだった。
夏に出かけた時の楽しみは何と言っても「かき氷」である。これが楽しみで東舘に行ったと言っても過言ではないほど。夏休みに那須屋に行くと、伯母が「良く来たね、暑かっただろう。かき氷でも食べるかい。イチゴにする、それともメロン?」と聞いてくれるのが常であった。そして伯母は下駄を突っ掛けて向かいの八百屋に頼みに行くのだ。数分後にいくつかのかき氷の入った岡持を八百屋の小母さんが持ってきてくれる。かき氷の出前である。
鮎と「あかはら」(ウグイ)も懐かしい。伯父が久慈川で自ら網を打って(投網だ)獲り、昨日書いた囲炉裏で焼く。久慈川はその源を福島・栃木・茨城の県境にまたがる八溝山(1,022m)に発し、棚倉を経て谷筋を下り茨城県に至り日立市で太平洋に注ぐ一級河川である。いまでは投網漁は認められないのだろうが、当時は鮎漁の普通のスタイルであったようだ。網を廊下に広げて手入れをしている伯父の姿の記憶がある。
宿の親父が自ら網を打ち獲った鮎をその晩には囲炉裏で焼いて泊まり客に出すのだから、今になって思えば大変な贅沢で膳であったと言えよう。
当時の久慈川では鰻も獲れた。鰻は竹でできた仕掛けを川に沈めておいて獲っていたようだ。獲ってきた鰻は調理するまで中庭の井戸の脇にある、小さな風呂桶ほど丸い流しに入れておかれた。従兄弟に掴んでみろと言われては散々格闘するのだが、鰻はヌルリヌルリと逃げるばかりで私には捕まえることが出来なかった。
従兄弟がことも無げに掴み取り調理場に持って行くのを驚きながら見ていたものである。鰻は上客に出したのであろう。一度だけ食べさせてもらったのは蒲焼ではなく天麩羅であったように記憶している。(つづく)
本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月20日に掲載した記事に加筆・修正したものです。
その一
その二
その四・最終回
苦瓜(ゴーヤ)の花。[ 撮影:あかねの森 ]
都合によりいつもり1日遅くなりましたが、今日恩田の森で撮影した写真をこちらに掲載しておりますのでぜひご覧ください。
恩田Now
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