唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
遠い記憶(その一)
私の父の実家は福島県最南端にある、最近では「住基ネット離脱」や「合併拒否宣言」で、はからずもちょっと有名になってしまった町にある。なぜこんなことで有名になってしまったのか、私にはまったく理解できないが、ほんのちょっと有名になったからと言って、典型的な田舎町であることに変わりはない。
矢祭町は、福島県の中央に位置する郡山市と茨城県の水戸市を結ぶJR水郡線のほぼ中間点に位置する。福島県最南端の駅は矢祭山駅であるが、同町の中心に位置するのは一つ郡山寄りの東舘駅(ひがしだて)である。父の実家はその東舘にある。
父の実家は小さな宿屋である。福島の宿屋と聞くと温泉宿を思われる方が多いかも知れないが、温泉宿ではなく所謂田舎の商人宿である。商人宿とは言え、駅前に位置するのではなく、駅からは大人の足で5、6分のところにあり、で唯一の宿屋であった。でただ一軒の宿屋であったから、かつては法事の集まりや宴会なども請け負っていたようである。
父の祖父に当たる人が、栃木県の那須地方から流れて来て、ここで宿屋を始めたのだと言う。だから宿の名前は「那須屋」。父が四、五歳の時に、現在もその一部が残っている宿の建物ができたと聞いている。
那須屋は今で言う国道百十八号線に面して建っている。ほぼ南北に通るこの国道の西側にあり、間口は七、八間で奥行き裏山まで、間口の数倍はあったように思う。
通りから間口いっぱいにあるガラス戸をあけて入ると広い土間がある。正面には黒光りのする、良く磨きこまれた廊下が中庭まで続き、廊下の右側が調理場、左側が帳場であった。帳場の奥、廊下に沿っての三部屋程が、私の叔父や叔母の居室、女中部屋であったように思う。
宿の建物は大きく二つの部分に分かれていた。すでに書いた街道に面した玄関部分と、裏山に面した奥座敷の部分である。街道に面した玄関や帳場、調理場部分の二階は行商の人が泊まっていたようである。富山の置き薬の人が借りきり、替えの薬を置いていたのを覚えている。
街道に面して三部屋、北側に二部屋、西側の中庭に面して二部屋程の客室があったように思う。この部分の中ほどには襖で仕切られた窓のない部屋が二つ三つあったが、そこは布団部屋で子供の頃の私の格好の遊び場になっていた。
奥には、比較的上等な座敷のある建物が中庭を挟んで建っている。二つの部分は中庭の北側に位置する廊下で結ばれている。この長い廊下の向こうに一階に三部屋程の座敷、二階には四部屋程の客室があった。一階の一番手前の部屋を祖父母が居室として使っていたが、三部屋はすべて襖で仕切られているので、大きな宴会などはここをぶち抜いて行われていた。
二階は上客用の部屋であった。手前の二部屋は襖で仕切られていたが、奥の二部屋はそれぞれ独立した部屋で、一番奥は那須屋最上の部屋で五球スーパーのラジオが置いてあった。(つづく)
本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月18日に掲載した記事に加筆・修正したものです。
その二
その三
その四・最終回
禊萩(ミソハギ)。お盆の時期などに仏壇や墓に供えられます。旧暦のお盆の頃に咲くのでボンバナ(盆花)とも呼ばれます。
[ 撮影:すみよしの森 ]
矢祭町は、福島県の中央に位置する郡山市と茨城県の水戸市を結ぶJR水郡線のほぼ中間点に位置する。福島県最南端の駅は矢祭山駅であるが、同町の中心に位置するのは一つ郡山寄りの東舘駅(ひがしだて)である。父の実家はその東舘にある。
父の実家は小さな宿屋である。福島の宿屋と聞くと温泉宿を思われる方が多いかも知れないが、温泉宿ではなく所謂田舎の商人宿である。商人宿とは言え、駅前に位置するのではなく、駅からは大人の足で5、6分のところにあり、で唯一の宿屋であった。でただ一軒の宿屋であったから、かつては法事の集まりや宴会なども請け負っていたようである。
父の祖父に当たる人が、栃木県の那須地方から流れて来て、ここで宿屋を始めたのだと言う。だから宿の名前は「那須屋」。父が四、五歳の時に、現在もその一部が残っている宿の建物ができたと聞いている。
那須屋は今で言う国道百十八号線に面して建っている。ほぼ南北に通るこの国道の西側にあり、間口は七、八間で奥行き裏山まで、間口の数倍はあったように思う。
通りから間口いっぱいにあるガラス戸をあけて入ると広い土間がある。正面には黒光りのする、良く磨きこまれた廊下が中庭まで続き、廊下の右側が調理場、左側が帳場であった。帳場の奥、廊下に沿っての三部屋程が、私の叔父や叔母の居室、女中部屋であったように思う。
宿の建物は大きく二つの部分に分かれていた。すでに書いた街道に面した玄関部分と、裏山に面した奥座敷の部分である。街道に面した玄関や帳場、調理場部分の二階は行商の人が泊まっていたようである。富山の置き薬の人が借りきり、替えの薬を置いていたのを覚えている。
街道に面して三部屋、北側に二部屋、西側の中庭に面して二部屋程の客室があったように思う。この部分の中ほどには襖で仕切られた窓のない部屋が二つ三つあったが、そこは布団部屋で子供の頃の私の格好の遊び場になっていた。
奥には、比較的上等な座敷のある建物が中庭を挟んで建っている。二つの部分は中庭の北側に位置する廊下で結ばれている。この長い廊下の向こうに一階に三部屋程の座敷、二階には四部屋程の客室があった。一階の一番手前の部屋を祖父母が居室として使っていたが、三部屋はすべて襖で仕切られているので、大きな宴会などはここをぶち抜いて行われていた。
二階は上客用の部屋であった。手前の二部屋は襖で仕切られていたが、奥の二部屋はそれぞれ独立した部屋で、一番奥は那須屋最上の部屋で五球スーパーのラジオが置いてあった。(つづく)
本稿はblog化以前の「独り言」に2004年1月18日に掲載した記事に加筆・修正したものです。
その二
その三
その四・最終回
禊萩(ミソハギ)。お盆の時期などに仏壇や墓に供えられます。旧暦のお盆の頃に咲くのでボンバナ(盆花)とも呼ばれます。
コメント ( 3 ) | Trackback ( )
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お父様のご実家、素敵な雰囲気ですね。囲炉裏た交換手さんの出られる電話など、ノスタルジックなセピア色の空間を勝手に想像してしまいました。
続きも期待しております
ところで・・・今週はまだ「恩田Now」は更新されないのでしょうか? お忙しいのかもしれないと思いつつ、ちょっと気になり。。。
>ノスタルジックなセピア色の空間
最近ちゃぶ台とか4本足の白黒テレビとか、昭和の中頃のものがちょっとしたブームですが、ちょうどそんな頃の思い出です。
>今週はまだ「恩田Now」
先週末から帰省していましたので月曜日の撮影・更新になってしまいました
なんだか急かしてしまったようで申し訳ないです。
今回の「恩田Now」、白山谷戸からすみよしの森方向を写した写真が好きです。初秋の気配が忍び寄っている晩夏という雰囲気。