唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
歴史問題 -結果としての加害者と被害者の心情-
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参議院議員福島選挙区補欠選挙応援のために福島県入りした安倍首相が、14日に会津若松市で自民党公認候補への支持を訴えた応援演説の中で「私は山口県の出身だ。先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびする。一緒にすばらしい会津を作ろう」と語りかけたのだという。少し軽すぎないか?会津人の長州への恨みはこんな程度の言葉で氷解するほど易しいものではないのである。
戊辰戦争において、官軍(新政府軍)が幕府側の会津を攻めたことは「白虎隊の悲劇」を通し広く知られるところだ。官軍の中核をなしたのは薩摩と長州だが、会津では取り分け長州が嫌われている。それは会津に攻め入った官軍の多くが長州藩士族であったからである。
1867年(慶応3)、城下での戦いで、会津藩は幼少の男子(白虎隊がその代表)のみならず婦女子にも多くの戦死者を出した末に降伏。藩主松平容保(かたもり)は江戸で鳥取藩預かりの禁錮刑となり(後に日光東照宮宮司)、会津藩家老の萱野権兵衛が責任者として切腹した。1869年、容保の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、陸奥国斗南(現青森県むつ市)に斗南藩を立てた。名目は三万石と言われたが寒冷不毛の地故実禄は七千石程であり、移住者は非常な苦労を強いられこの地で没した者も多かった。行くも地獄、残るも地獄の会津藩であった。
そのような歴史が故に、1996年に当時の萩市長が会津を訪れた時に、萩市長が和解のために手を差し出したが会津若松市長がそれに応えなかったのである。既に140年を経た会津戦争であったが、地元会津では曽祖父から言い伝えられたこととしていまだに長州を許す事が出来ないのである。
同様のことは福島県内の他の地域でも存在している。会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け官軍(新政府軍)に抵抗してきたのだが、同盟藩の一つであった三春藩は官軍が近づくに至りこの同盟を破棄。そのために官軍の会津入りを早まり多くの犠牲者を出すに至ったとされている。会津藩から見れば三春藩は裏切り者なのである。このことから「三春には嫁に出すな。三春からは嫁をもらうな」といまだに言われているのである(郷秋<Gauche>が高校生の時に確かに聞いている)。
前振りが長くなったが、今日、郷秋<Gauche>が言いたいのは、加害者側は早々に忘れてしまう、あるいは過小評価している戦争の傷跡も、被害者側では幾年経っても忘れることの出来ない大きな傷となっているということである。140年前の戊辰戦争(会津戦争)を会津人が今も忘れない(忘れようもないだろ。会津の寺社のいくつかには当時の刀傷や弾痕がそのまま残されているのだから)のと同様、中国や韓国の人々は60年前の戦争のことを、やはり忘れないのである。そのことを、安倍首相は知るべきである。
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