後冷泉天皇の崩御直前に皇后に立てられ、その後出家をした藤原歓子について、私は以前から関心を持っていました。彼女がなぜ、小野に隠遁したのか、小野での生活は…など、色々と興味を引かれるところがあります。そこで、彼女の生涯について、私の妄想や推察も入れてまとめてみることにしました。
☆藤原歓子(1021~1102)
父は藤原道長の息子教通。母は藤原公任の女。同母の兄弟姉妹には、信家、信長、生子(後朱雀天皇女御)など、母方のおじには定頼がいました。なお、彼女の母方については当ブログ内の、「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さい。
歓子は物心つくかつかないうちに母を亡くしますが、父教通を始め、母方の祖父母の公任夫妻にもかわいがられ、当時の貴族女性として最高の教育を受けて成長したものと思われます。幼いときから容姿美麗で、枇杷や絵に巧みだったと伝えられています。そんな彼女は姉の生子と共に一家の希望の星で、将来は入内することを運命づけられていたのでしょう。
そのようなわけで、まず姉の生子が後朱雀天皇に入内します。しかし、生子は天皇との間に子をもうけることができませんでした。やがて後朱雀天皇は寛徳二年(1045)に崩御し、第一皇子親仁親王が即位します(後冷泉天皇)。
そしてその2年後の永承二年(1047)十月、26歳になった歓子は後冷泉天皇の後宮に入内することとなります。皇子を期待する教通の希望を一身に受けた入内でした。その翌年七月、歓子は女御の宣旨を受けます。
聡明な歓子は後冷泉天皇に気に入られたようで2人の仲は睦まじく、彼女はやがて懐妊し、永承四年(1049)に皇子を出産しました。父の教通はもちろん、大役を終えた歓子もどんなに嬉しかったことでしょう。
しかし、皇子は間もなく世を去ってしまいます。(一説には死産だったとも言われています)
さらに追い打ちをかけるように翌永承五年(1050)、教通の兄、関白頼通の娘で15歳の寛子が後冷泉天皇の許に入内します。寛子の入内は大変華やかで、有力貴族の娘たちをも女房に従えての入内だったとか。
そのようなこともあり、歓子はこの頃から里邸の二条東洞院第に引きこもるようになります。せっかく産まれた皇子を失ったことですっかり気落ちをした歓子は、自分よりずっと年下の寛子と天皇の寵愛を争うことが絶えられなかったのかもしれません。歓子は永承六年頃から、異母兄、長谷の法印静円(1016~1074)が住む小野に籠居するようになり、その年に准三宮に叙されましたが、この頃には完全に後宮生活を離れたものと思われます。
ところで、この静円、教通が和泉式部の娘、小式部内侍に産ませた子で、若くして出家をした人です。しかも母を早く亡くしています。歓子もごく幼くして母を失っていますので母のない者同士、子供の頃から心が通じ合っていたのでしょう。天皇との間に生まれた子を亡くし、傷ついた心を慰めてくれたのはこの異母兄だったのかもしれません。また、その頃から出家願望があったと思われる歓子とこの静円は、仏教の教えについて色々話していたとも考えられます。
さて、時は流れ、治暦四年(1068)四月、後冷泉天皇が崩御しますが、その直前、歓子は皇后に立てられました。すでに寛子が皇后となっており、章子内親王(後一条天皇皇女)が中宮となっていたのにもかかわらず、後冷泉天皇は自らの意志により、歓子を皇后に立てたのです。同じ時期に一人の帝に3人の后が立つというのは大変異例なことでした。後冷泉天皇は、自分の子供を産んでくれた歓子のことを忘れておらず、同時に感謝の気持ちを表したかったのかもしれませんね。
このような後冷泉天皇の行為に対して歓子がどのように感じたのか、今では想像するしかありませんが、複雑な気持ちはあるもののやはり嬉しく思ったのではないでしょうか。
さらに延久六年(八月に改元して承保元年)(1074)六月、歓子は皇太后となります。皇后から皇太后へ…、宮廷社会に戻って華やかな生活を送るという選択肢も、彼女には残されていたはずです。しかし、彼女はそうしませんでした。
その年の八月、歓子は出家しました。実は皇太后となる少し前、同じ年の五月に、彼女の良き理解者であった静円が亡くなっているので、それが彼女が出家に踏み切る大きな原因になったとも考えられると思います。でも、長年の出家願望をようやく果たすことが出来てほっとした気持ちも大きかったのではないでしょうか。彼女は引き続き小野に住み小野皇太后と称されました。
歓子は深く仏教に帰依し、小野亭を常寿院と改め仏教三昧の静かな生活を送っていましたが、71歳になったある日、彼女にとっては久しぶりとなる華やかな日が訪れます。有名な白河上皇の小野雪見行幸です。
寛治五年(1091)10月27日、珍しく大雪が降った朝、白河上皇は小野に雪を見に行くことを口実に、歓子の小野の山荘を訪ねてみようと思い立ちました。そして牛車に乗り、殿上人や随身を従え、突然、歓子の許を訪ねたのです。
注進によって訪問を告げられた歓子は、女房たちを寝殿の簀子に座らせ、鮮やかな紅の衣で御殿を華麗に装飾しました。やがて白河上皇が訪れると、歓子はすかさず女童に玉盃と銚子を持たせて車中の上皇に捧げ、ついで唐衣を着た正装の女房に錦で包んだ松が枝をたてまつらせられましたが、銀世界の中でこれらの行事は、まことに趣の深い光景であったと伝えられています。考えてみると白河上皇は歓子のかつての背の君、後冷泉天皇の甥に当たります。歓子は白河上皇を通して後冷泉天皇の面影を見ていたのでしょうか。そして、短かったけれど幸せだった後冷泉天皇との日々を思い出し、華やいだ気持ちになっていたのかもしれませんね。
さて、上皇は雪見行幸の常として御殿にはお入りにならず、そのままお帰りになりましたが、歓子の心のこもった奥ゆかしいもてなしに感激したようです。後に上皇は、美濃国の荘園を歓子に贈られたと言うことです。
こうして歓子はその後も仏教三昧の静かな生活を送り、康和四年(1102)八月十七日、八十二歳で崩御しました。そして、藤原氏の他の女性たち同様、宇治木幡に墓所が定められました。
以上、歓子の生涯について書いてみましたが、書きながらふと後朱雀天皇の皇后、禎子内親王のことを思い出しました。彼女も歓子同様、天皇との間に皇子をもうけていますが、権力者の娘の入内により後宮を去ります。しかし、彼女は歓子と全く違う後半生を送ることとなるのです。すなわち、皇子が成長して後三条天皇となり、彼の子孫たちが皇位につくこととなったため、彼女は宮廷社会で大きな権力を握ることとなるのです。
しかし歓子の場合は、皇子が夭折してしまったため、完全に宮廷から離れ、仏教に帰依する後半生を送ることになってしまったのでした。もし彼女が産んだ皇子が成長し、皇位についたとしたら、歓子が宮廷社会で権力を握ることになったかもしれません。人間の運命は紙一重のところで違ったものになってしまうのだなと、少し暗澹とした気持ちになってしまいました。
でも歓子は、良き理解者の兄、静円がいたことや、彼女が生まれながらに持っていた聡明さ(白河上皇への心のこもったもてなしの様子を見ても、彼女の聡明さがよくわかるような気がします)など、幸運なところもあったと思います。仏教に帰依する静かな生活が、意外と彼女の性に合っていたのではないでしょうか。歓子の後半生が心静かなものであったことを祈りたいと思います。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版 角田文衞監修 角川学芸出版
『平安京散策』 角田文衞 京都新聞社
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☆藤原歓子(1021~1102)
父は藤原道長の息子教通。母は藤原公任の女。同母の兄弟姉妹には、信家、信長、生子(後朱雀天皇女御)など、母方のおじには定頼がいました。なお、彼女の母方については当ブログ内の、「藤原高光とその子孫たち」もご覧下さい。
歓子は物心つくかつかないうちに母を亡くしますが、父教通を始め、母方の祖父母の公任夫妻にもかわいがられ、当時の貴族女性として最高の教育を受けて成長したものと思われます。幼いときから容姿美麗で、枇杷や絵に巧みだったと伝えられています。そんな彼女は姉の生子と共に一家の希望の星で、将来は入内することを運命づけられていたのでしょう。
そのようなわけで、まず姉の生子が後朱雀天皇に入内します。しかし、生子は天皇との間に子をもうけることができませんでした。やがて後朱雀天皇は寛徳二年(1045)に崩御し、第一皇子親仁親王が即位します(後冷泉天皇)。
そしてその2年後の永承二年(1047)十月、26歳になった歓子は後冷泉天皇の後宮に入内することとなります。皇子を期待する教通の希望を一身に受けた入内でした。その翌年七月、歓子は女御の宣旨を受けます。
聡明な歓子は後冷泉天皇に気に入られたようで2人の仲は睦まじく、彼女はやがて懐妊し、永承四年(1049)に皇子を出産しました。父の教通はもちろん、大役を終えた歓子もどんなに嬉しかったことでしょう。
しかし、皇子は間もなく世を去ってしまいます。(一説には死産だったとも言われています)
さらに追い打ちをかけるように翌永承五年(1050)、教通の兄、関白頼通の娘で15歳の寛子が後冷泉天皇の許に入内します。寛子の入内は大変華やかで、有力貴族の娘たちをも女房に従えての入内だったとか。
そのようなこともあり、歓子はこの頃から里邸の二条東洞院第に引きこもるようになります。せっかく産まれた皇子を失ったことですっかり気落ちをした歓子は、自分よりずっと年下の寛子と天皇の寵愛を争うことが絶えられなかったのかもしれません。歓子は永承六年頃から、異母兄、長谷の法印静円(1016~1074)が住む小野に籠居するようになり、その年に准三宮に叙されましたが、この頃には完全に後宮生活を離れたものと思われます。
ところで、この静円、教通が和泉式部の娘、小式部内侍に産ませた子で、若くして出家をした人です。しかも母を早く亡くしています。歓子もごく幼くして母を失っていますので母のない者同士、子供の頃から心が通じ合っていたのでしょう。天皇との間に生まれた子を亡くし、傷ついた心を慰めてくれたのはこの異母兄だったのかもしれません。また、その頃から出家願望があったと思われる歓子とこの静円は、仏教の教えについて色々話していたとも考えられます。
さて、時は流れ、治暦四年(1068)四月、後冷泉天皇が崩御しますが、その直前、歓子は皇后に立てられました。すでに寛子が皇后となっており、章子内親王(後一条天皇皇女)が中宮となっていたのにもかかわらず、後冷泉天皇は自らの意志により、歓子を皇后に立てたのです。同じ時期に一人の帝に3人の后が立つというのは大変異例なことでした。後冷泉天皇は、自分の子供を産んでくれた歓子のことを忘れておらず、同時に感謝の気持ちを表したかったのかもしれませんね。
このような後冷泉天皇の行為に対して歓子がどのように感じたのか、今では想像するしかありませんが、複雑な気持ちはあるもののやはり嬉しく思ったのではないでしょうか。
さらに延久六年(八月に改元して承保元年)(1074)六月、歓子は皇太后となります。皇后から皇太后へ…、宮廷社会に戻って華やかな生活を送るという選択肢も、彼女には残されていたはずです。しかし、彼女はそうしませんでした。
その年の八月、歓子は出家しました。実は皇太后となる少し前、同じ年の五月に、彼女の良き理解者であった静円が亡くなっているので、それが彼女が出家に踏み切る大きな原因になったとも考えられると思います。でも、長年の出家願望をようやく果たすことが出来てほっとした気持ちも大きかったのではないでしょうか。彼女は引き続き小野に住み小野皇太后と称されました。
歓子は深く仏教に帰依し、小野亭を常寿院と改め仏教三昧の静かな生活を送っていましたが、71歳になったある日、彼女にとっては久しぶりとなる華やかな日が訪れます。有名な白河上皇の小野雪見行幸です。
寛治五年(1091)10月27日、珍しく大雪が降った朝、白河上皇は小野に雪を見に行くことを口実に、歓子の小野の山荘を訪ねてみようと思い立ちました。そして牛車に乗り、殿上人や随身を従え、突然、歓子の許を訪ねたのです。
注進によって訪問を告げられた歓子は、女房たちを寝殿の簀子に座らせ、鮮やかな紅の衣で御殿を華麗に装飾しました。やがて白河上皇が訪れると、歓子はすかさず女童に玉盃と銚子を持たせて車中の上皇に捧げ、ついで唐衣を着た正装の女房に錦で包んだ松が枝をたてまつらせられましたが、銀世界の中でこれらの行事は、まことに趣の深い光景であったと伝えられています。考えてみると白河上皇は歓子のかつての背の君、後冷泉天皇の甥に当たります。歓子は白河上皇を通して後冷泉天皇の面影を見ていたのでしょうか。そして、短かったけれど幸せだった後冷泉天皇との日々を思い出し、華やいだ気持ちになっていたのかもしれませんね。
さて、上皇は雪見行幸の常として御殿にはお入りにならず、そのままお帰りになりましたが、歓子の心のこもった奥ゆかしいもてなしに感激したようです。後に上皇は、美濃国の荘園を歓子に贈られたと言うことです。
こうして歓子はその後も仏教三昧の静かな生活を送り、康和四年(1102)八月十七日、八十二歳で崩御しました。そして、藤原氏の他の女性たち同様、宇治木幡に墓所が定められました。
以上、歓子の生涯について書いてみましたが、書きながらふと後朱雀天皇の皇后、禎子内親王のことを思い出しました。彼女も歓子同様、天皇との間に皇子をもうけていますが、権力者の娘の入内により後宮を去ります。しかし、彼女は歓子と全く違う後半生を送ることとなるのです。すなわち、皇子が成長して後三条天皇となり、彼の子孫たちが皇位につくこととなったため、彼女は宮廷社会で大きな権力を握ることとなるのです。
しかし歓子の場合は、皇子が夭折してしまったため、完全に宮廷から離れ、仏教に帰依する後半生を送ることになってしまったのでした。もし彼女が産んだ皇子が成長し、皇位についたとしたら、歓子が宮廷社会で権力を握ることになったかもしれません。人間の運命は紙一重のところで違ったものになってしまうのだなと、少し暗澹とした気持ちになってしまいました。
でも歓子は、良き理解者の兄、静円がいたことや、彼女が生まれながらに持っていた聡明さ(白河上皇への心のこもったもてなしの様子を見ても、彼女の聡明さがよくわかるような気がします)など、幸運なところもあったと思います。仏教に帰依する静かな生活が、意外と彼女の性に合っていたのではないでしょうか。歓子の後半生が心静かなものであったことを祈りたいと思います。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版 角田文衞監修 角川学芸出版
『平安京散策』 角田文衞 京都新聞社
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