平安夢柔話

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登呂遺跡巡り その3

2018-11-12 11:46:50 | 静岡大好き
登呂遺跡巡り その1
登呂遺跡巡り その2

の続きです。

 時間は前後しますが、田んぼと神殿を見に行く前にミュージアムショップでお買い物。
 「その1」でも書きましたが、私は20年前にこちらで古代の住居と土器の模型を買ったのですが、どちらも引っ越しで無くなってしまいました。なので出来たらそういうものが欲しいなと。
 それで、ボランティアの方に探して頂くことに。でもなかなか見つからなくてお手数をおかけしてしまいました。
 でも、ありました。古代の住居のキーホルダーが。そして土器の模型も見つけて頂きました。ありがとうございます。
 ただ、20年前に買った住居の模型はかなり大きかったです。今回はキーホルダーだから小さいですが、かわいらしくてかなり気に入りました。
 土器の模型も20年前に買ったものは赤くてとてもきれいだったのですが、今回の土器は色も地味でごつごつしていました。でもこちらの方が手作り感満載で、当時の土器に近いような気がします。
 そんなわけで古代の住居と土器を並べて写真を撮ってみました。うん、色々と妄想できそうです。

 さて、雷が鳴ったのでびっくりして博物館に戻った私たち。しばらく博物館の方とお話しさせて頂きました。
 博物館の方が、
「この際なので何か質問があったらどうぞ」
とおっしゃって。うーん、急に言われても…と思ったとき、卑弥呼のことを尋ねられた方がいらしたのでした。
 そこで博物館の方が卑弥呼と登呂遺跡の関係について、とても興味深いお話をして下さいました。

 まず、卑弥呼は西暦170年頃から248年頃まで生きていた人だということ。
 しかし、登呂遺跡にあった村は卑弥呼が30歳ぐらいの時によそに移り、無くなってしまったのだそうです。 
 ちなみに登呂遺跡にあった村は西暦0年頃から200年頃まで栄えていたとか。
 ということは一見、卑弥呼と登呂遺跡は何も関係ないように思えるのですが。

 実は、登呂遺跡から出土した物と似たような物が、近畿地方のあちらこちらの遺跡で見つかっているのだそうです。つまり交流があったのではないかと。
 で、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説もあることから、邪馬台国は近畿にあったと仮定しての話ですが。
 卑弥呼というのは個人名ではなく、代々世襲されている称号であるという説があるそうです。つまり、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の前にも、、卑弥呼が何人もいたかもしれないと言うことで。。
 実は、卑弥呼がやっていた「鬼道」の占いと似たような占いが、こちら登呂でも行われていたという形跡があるんですって。
 つまり、登呂に卑弥呼の弟子がいたのかもしれないと。わあすごい。

 私はだんなさんの影響で、邪馬台国は九州にあったと思っているのですが、実際、近畿説もあるのですから。それに、遺跡からの出土品によって、近畿説がやや有力になっているとも聞きます。そうなるとひょっとしてひょっとして。
 とにかく、古代史は面白いですね。もっと色々知りたいと思いました。

 こうして3時半過ぎに博物館を出てバス停へ。幸い、雨は降っていませんでした。このように駆け足での登呂遺跡巡りでしたが、とっても楽しかったです。
 何より、だんなさんがいなくなってから、史跡巡りがなかなか出来ない私ですが。以前にも駿府城公園の歴史散策を企画して下さいましたが、今回もこのようなイベントを企画して下さった静岡県視覚障害者情報支援センターさんに大感謝です。ありがとうございました。
 またこのような機会があったらぜひ参加してみたいです。

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