私は、最初、天皇の女御となり、天皇の崩御後や退位後に臣下の妻となった女性になぜか心を引かれます。2005年6月5日に紹介した藤原元子もその一人です。
今回はそんな女性、元子のいとこにも当たり、彼女よりも少し年上になる婉子女王を紹介したいと思います。
ではまず、彼女のプロフィールと両親についてから、書かせていただきますね。
☆婉子女王(えんしじょおう又はつやこじょおう)
生没年 972~998
父・為平親王(952~1010) 母・源 高明女
婉子女王の父、為平親王は村上天皇と、皇后藤原安子との間に産まれた皇子でした。そして、村上天皇の東宮に立てられていたのが、為平親王の同母兄の憲平親王です。生まれつき心身が弱かった憲平親王に対し、為平親王は大変聡明で才気のある人物だったようです。つまり彼は、次の東宮に立てられてもおかしくない人物だったのです。
ところが、康保四年(967)、憲平親王が即位して冷泉天皇となったものの、東宮に立てられたのは為平親王ではなく、その弟の守平親王だったのです。これには、藤原伊尹・兼通・兼家兄弟の思わくがありました。為平親王は右大臣源 高明(同年十二月に任左大臣)の娘を妃にしていたため、「為平親王が東宮になったら、舅の高明が権力を持ってしまうかもしれない。それでは都合が悪い」と考えたからでした。
更に安和二年(969)に起こった安和の変によって高明は太宰府に左遷、為平親王も昇殿を止められ、その前途はふさがれてしまったのでした。
婉子女王はそんな為平親王と高明女との間の皇女として生を受けました。彼女の少女時代については全くわかりませんが、昇殿を許されない父と、権力を失ってしまった高明の娘である母との間であまり陽の当たらない生活を送っていたのだろうと推察できると思います。ただ、「栄花物語」によると婉子女王は「いみじううつくしうおはします」と記述されており、その美貌は早くから世間の評判になっていたのかもしれません。
そんな婉子女王に転機が訪れたのは、彼女が14歳の寛和元年(985)のことでした。彼女の美貌の噂を聞きつけた花山天皇に望まれ、その後宮に入内することとなったのです。
実は花山天皇は、同じ年の七月十八日、寵愛していた女御、藤原(女氏)子(藤原為光女)を妊娠中に亡くして大変悲しんでいました。そんな中、婉子女王の美貌の噂を聞き、「もしかしたら婉子女王は、(女氏)子を失った辛い気持ちを忘れさせてくれるかもしれない。」と考えたのかもしれません。
こうして婉子女王は十二月十八日に入内し、花山天皇の女御となりました。2人の仲はわりとうまくいったようですが、残念ながら花山天皇の心から、(女氏)子の面影や彼女を失った心の傷を忘れさせるほどの寵愛とまでは行かなかったようです。花山天皇の心の傷をいやすのには、まだ14歳の婉子女王はあまりにも幼すぎたのかもしれません。
ただ、彼女が入内し、女御となったおかげで、長い間昇殿を許されなかった父、為平親王の昇殿が許されたことは、娘である婉子女王にとっては大きな喜びだったと思います。
しかし、婉子女王が入内してわずか半年後、自分の孫である東宮、懐仁親王の世が1日も早く来ることを望んでいた藤原兼家は、(女氏)子を忘れることができない花山天皇の心につけ込み、息子の道兼を使って天皇をだまし、内裏から連れ出して出家、退位させてしまいます。寛和二年六月二十三日のことでした。
これは、婉子女王にとっては思いも寄らぬ出来事で、ただまごまごするしかなかったと思います。花山天皇の出家、退位と共に彼女は内裏を下がり、実家に戻ったようです。
ところが、彼女の生涯はこれで終わったのではありません。やがて彼女の前に2人の男性が現れることとなるのです。
一人は藤原道信(972?~994)…。藤原為光の子で、藤原兼家の養子になった人物です。若くして亡くなったため、最終官職は左近衛中将。歌才に優れ、中古三十六歌仙の一人にも選ばれています。彼は婉子女王とはほとんど同年代でした。
そしてもう一人は藤原実資(957~1046)…。藤原済敏の子で、藤原実頼の養子になった人物です。村上天皇から後冷泉天皇まで、九代の天皇に仕え、最終的には右大臣に昇りました。日記「小右記」を書き残したことでも有名です。彼は、婉子女王よりも15歳年上でした。
同年代の男性と、ずっと年上の男性に同時に愛され、どちらにも心引かれる…ということは、現代でもありそうな話です。そして、婉子女王が選んだのは、同年代の道信くんではなく、年上の頼りになる男性、実資さんの方でした。
彼女は上でも少し書いたように、あまり陽の当たらない両親に育てられたためか、ちょっと控えめでおとなしく、「私は年上の頼りになる方が好きだわ~」という考えだったと思うのですよね。
そんなわけで婉子女王は正式に実資と結婚し、父為平親王が所有する染殿と呼ばれる邸宅にて実資と暮らし始めたのでした。繁田信一氏の「かぐや姫の結婚」によると、2人の結婚は正暦四年(993)の秋頃ではないかと推定しておられます。なお、婉子女王は実資にとっては二人目の正式な妻だったこともつけ加えておきます。
さて、失恋した道信くんは、実資さんに対して嫉妬と羨望の思いを抱き、こんな歌を詠んだと『大鏡』に記述されています。
嬉しきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身に染む ものにぞありける
「あなたは恋がかなって嬉しく思われていることでしょう。それに比べて、恋を失った私の哀しみは深くなるばかりです」という意味でしょうか。
さて、実資と婉子女王の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。
実は実資さん、なかなか女好きだったらしく、婉子女王と結婚するまで、最初の妻とだけでなく、他の何人かの女たちとの間に娘を数人もうけていますが、すべて夭折してしまいました。娘が欲しいと熱望していた実資は当然、婉子女王にも期待していたと思います。
ところが、2人の間には子は生まれませんでした。これは私の推察なのですが、婉子女王は短命だったこともあって元々体が弱く、実資も彼女を妊娠させることをあきらめたのではないでしょうか。そして、子供がいなかったことでかえって2人の間には強い愛情が結ばれたのではないかと思うのです。実資は頼りになる優しい夫で、婉子女王は満ち足りた幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか。
しかし、2人の結婚生活は5年しか続きませんでした。長徳四年(998)、婉子女王はまだ27歳という若さで亡くなってしまいます。
実資は婉子女王を失ったことを大変悲しみ、その後は正式な結婚をしませんでした。寛仁元年(1017)、実資に故関白藤原道兼の娘との結婚話が持ち上がりますが、彼はこれをきっぱりと断ってしまいます。(小右記)
また、小右記には、亡き婉子女王を偲ぶ歌も書き残しているようです。
しかし、元々女好きの実資さん、実姉の女房に手をつけて子供を作ったりもしたようですが、多くは行きずりだったようです。その中でただ一人、婉子女王に仕えていた女房の一人を長く大切にしたようです。彼女は婉子女王の弟、源頼定の乳母の娘だったようですが、早くから女王に仕え、彼女の腹心のようになっていたのでしょう。実資はこの女性を女王の形見のように思っていたのかもしれません。
そして婉子女王の女房は、寛弘八年(1011)に女の子を出産しました。この娘こそ、実資が蝶よ花よと猫かわいがりし、ついには「自分の財産はすべて譲る」と遺言状にしたためさせることとなる千古(かぐや姫)その人なのです。
さて、こうして婉子女王の生涯をたどってきましたが、彼女がどんな性格の女性だったかについては記録がなく、今となっては想像するしかありません。でも、ちょっとひねくれたところのある実資さんを夢中にさせたのですから、ただ美しいだけでなく、素直でやさしく、魅力のある女性だったのではないでしょうか。有職故実に詳しく、教養の高い彼の話し相手も充分勤められるくらいの機知や教養もあったと思います。もう少し、実資さんと一緒にいさせてあげたかったとも思いますが…。でも、短いながらも幸福な結婚生活を送り、満足のうちにこの世を去っていった…、私はそう思いたいです。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『かぐや姫の結婚』 繁田信一 PHP研究所
『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫
☆当ブログ内の関連ページ
『実資さんって…』
藤原実資について、私の妄想や推察も交えて覚え書き的に綴った記事です。
『平惟仲と藤原在国 ー平安時代のライバル』
『藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ』
花山天皇の退位と出家の経過に触れています。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る
今回はそんな女性、元子のいとこにも当たり、彼女よりも少し年上になる婉子女王を紹介したいと思います。
ではまず、彼女のプロフィールと両親についてから、書かせていただきますね。
☆婉子女王(えんしじょおう又はつやこじょおう)
生没年 972~998
父・為平親王(952~1010) 母・源 高明女
婉子女王の父、為平親王は村上天皇と、皇后藤原安子との間に産まれた皇子でした。そして、村上天皇の東宮に立てられていたのが、為平親王の同母兄の憲平親王です。生まれつき心身が弱かった憲平親王に対し、為平親王は大変聡明で才気のある人物だったようです。つまり彼は、次の東宮に立てられてもおかしくない人物だったのです。
ところが、康保四年(967)、憲平親王が即位して冷泉天皇となったものの、東宮に立てられたのは為平親王ではなく、その弟の守平親王だったのです。これには、藤原伊尹・兼通・兼家兄弟の思わくがありました。為平親王は右大臣源 高明(同年十二月に任左大臣)の娘を妃にしていたため、「為平親王が東宮になったら、舅の高明が権力を持ってしまうかもしれない。それでは都合が悪い」と考えたからでした。
更に安和二年(969)に起こった安和の変によって高明は太宰府に左遷、為平親王も昇殿を止められ、その前途はふさがれてしまったのでした。
婉子女王はそんな為平親王と高明女との間の皇女として生を受けました。彼女の少女時代については全くわかりませんが、昇殿を許されない父と、権力を失ってしまった高明の娘である母との間であまり陽の当たらない生活を送っていたのだろうと推察できると思います。ただ、「栄花物語」によると婉子女王は「いみじううつくしうおはします」と記述されており、その美貌は早くから世間の評判になっていたのかもしれません。
そんな婉子女王に転機が訪れたのは、彼女が14歳の寛和元年(985)のことでした。彼女の美貌の噂を聞きつけた花山天皇に望まれ、その後宮に入内することとなったのです。
実は花山天皇は、同じ年の七月十八日、寵愛していた女御、藤原(女氏)子(藤原為光女)を妊娠中に亡くして大変悲しんでいました。そんな中、婉子女王の美貌の噂を聞き、「もしかしたら婉子女王は、(女氏)子を失った辛い気持ちを忘れさせてくれるかもしれない。」と考えたのかもしれません。
こうして婉子女王は十二月十八日に入内し、花山天皇の女御となりました。2人の仲はわりとうまくいったようですが、残念ながら花山天皇の心から、(女氏)子の面影や彼女を失った心の傷を忘れさせるほどの寵愛とまでは行かなかったようです。花山天皇の心の傷をいやすのには、まだ14歳の婉子女王はあまりにも幼すぎたのかもしれません。
ただ、彼女が入内し、女御となったおかげで、長い間昇殿を許されなかった父、為平親王の昇殿が許されたことは、娘である婉子女王にとっては大きな喜びだったと思います。
しかし、婉子女王が入内してわずか半年後、自分の孫である東宮、懐仁親王の世が1日も早く来ることを望んでいた藤原兼家は、(女氏)子を忘れることができない花山天皇の心につけ込み、息子の道兼を使って天皇をだまし、内裏から連れ出して出家、退位させてしまいます。寛和二年六月二十三日のことでした。
これは、婉子女王にとっては思いも寄らぬ出来事で、ただまごまごするしかなかったと思います。花山天皇の出家、退位と共に彼女は内裏を下がり、実家に戻ったようです。
ところが、彼女の生涯はこれで終わったのではありません。やがて彼女の前に2人の男性が現れることとなるのです。
一人は藤原道信(972?~994)…。藤原為光の子で、藤原兼家の養子になった人物です。若くして亡くなったため、最終官職は左近衛中将。歌才に優れ、中古三十六歌仙の一人にも選ばれています。彼は婉子女王とはほとんど同年代でした。
そしてもう一人は藤原実資(957~1046)…。藤原済敏の子で、藤原実頼の養子になった人物です。村上天皇から後冷泉天皇まで、九代の天皇に仕え、最終的には右大臣に昇りました。日記「小右記」を書き残したことでも有名です。彼は、婉子女王よりも15歳年上でした。
同年代の男性と、ずっと年上の男性に同時に愛され、どちらにも心引かれる…ということは、現代でもありそうな話です。そして、婉子女王が選んだのは、同年代の道信くんではなく、年上の頼りになる男性、実資さんの方でした。
彼女は上でも少し書いたように、あまり陽の当たらない両親に育てられたためか、ちょっと控えめでおとなしく、「私は年上の頼りになる方が好きだわ~」という考えだったと思うのですよね。
そんなわけで婉子女王は正式に実資と結婚し、父為平親王が所有する染殿と呼ばれる邸宅にて実資と暮らし始めたのでした。繁田信一氏の「かぐや姫の結婚」によると、2人の結婚は正暦四年(993)の秋頃ではないかと推定しておられます。なお、婉子女王は実資にとっては二人目の正式な妻だったこともつけ加えておきます。
さて、失恋した道信くんは、実資さんに対して嫉妬と羨望の思いを抱き、こんな歌を詠んだと『大鏡』に記述されています。
嬉しきは いかばかりかは 思ふらん 憂きは身に染む ものにぞありける
「あなたは恋がかなって嬉しく思われていることでしょう。それに比べて、恋を失った私の哀しみは深くなるばかりです」という意味でしょうか。
さて、実資と婉子女王の結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。
実は実資さん、なかなか女好きだったらしく、婉子女王と結婚するまで、最初の妻とだけでなく、他の何人かの女たちとの間に娘を数人もうけていますが、すべて夭折してしまいました。娘が欲しいと熱望していた実資は当然、婉子女王にも期待していたと思います。
ところが、2人の間には子は生まれませんでした。これは私の推察なのですが、婉子女王は短命だったこともあって元々体が弱く、実資も彼女を妊娠させることをあきらめたのではないでしょうか。そして、子供がいなかったことでかえって2人の間には強い愛情が結ばれたのではないかと思うのです。実資は頼りになる優しい夫で、婉子女王は満ち足りた幸せな結婚生活を送っていたのではないでしょうか。
しかし、2人の結婚生活は5年しか続きませんでした。長徳四年(998)、婉子女王はまだ27歳という若さで亡くなってしまいます。
実資は婉子女王を失ったことを大変悲しみ、その後は正式な結婚をしませんでした。寛仁元年(1017)、実資に故関白藤原道兼の娘との結婚話が持ち上がりますが、彼はこれをきっぱりと断ってしまいます。(小右記)
また、小右記には、亡き婉子女王を偲ぶ歌も書き残しているようです。
しかし、元々女好きの実資さん、実姉の女房に手をつけて子供を作ったりもしたようですが、多くは行きずりだったようです。その中でただ一人、婉子女王に仕えていた女房の一人を長く大切にしたようです。彼女は婉子女王の弟、源頼定の乳母の娘だったようですが、早くから女王に仕え、彼女の腹心のようになっていたのでしょう。実資はこの女性を女王の形見のように思っていたのかもしれません。
そして婉子女王の女房は、寛弘八年(1011)に女の子を出産しました。この娘こそ、実資が蝶よ花よと猫かわいがりし、ついには「自分の財産はすべて譲る」と遺言状にしたためさせることとなる千古(かぐや姫)その人なのです。
さて、こうして婉子女王の生涯をたどってきましたが、彼女がどんな性格の女性だったかについては記録がなく、今となっては想像するしかありません。でも、ちょっとひねくれたところのある実資さんを夢中にさせたのですから、ただ美しいだけでなく、素直でやさしく、魅力のある女性だったのではないでしょうか。有職故実に詳しく、教養の高い彼の話し相手も充分勤められるくらいの機知や教養もあったと思います。もう少し、実資さんと一緒にいさせてあげたかったとも思いますが…。でも、短いながらも幸福な結婚生活を送り、満足のうちにこの世を去っていった…、私はそう思いたいです。
☆参考文献
『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『かぐや姫の結婚』 繁田信一 PHP研究所
『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司 講談社・講談社学術文庫
☆当ブログ内の関連ページ
『実資さんって…』
藤原実資について、私の妄想や推察も交えて覚え書き的に綴った記事です。
『平惟仲と藤原在国 ー平安時代のライバル』
『藤原詮子 ~藤原摂関家の女あるじ』
花山天皇の退位と出家の経過に触れています。
☆コメントを下さる方は掲示板へお願いいたします。
☆トップページに戻る