平安夢柔話

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駿府城史跡発掘現場を見に行ってきました 前編

2019-10-28 09:27:00 | 静岡大好き
 先日、視覚障害者情報支援センターのイベントで、家康公の天守台の下から秀吉公の天守台が出てきたことで話題になった駿府城遺跡発掘現場を見てきました。久しぶりに本以外で歴史に触れることが出来た有意義で楽しいひとときだったので、私の備忘録のためにもとレポートさせていただきます。
*写真を2枚載せる関係で2回連載になります。

 この日の天気予報は雨、しかも大雨ということで、どうしようかかなり迷いました。でも朝の天気予報を見たら午後の方が降水確率が低かったので、天気は回復してくるのね、それなら大丈夫と、お出かけを決行することにしました。

 静岡駅ビルでランチを食べてから、バスで静岡県総合社会福祉会館、通称シズウエルへ。バス停からシズウエルに向かって歩いていたら雨は全然降っていなくて、これなら発掘現場見学も大丈夫だよねと安心しました。

 参加者は20人ぐらいだったでしょうか。発掘現場を見に行く前に、集会室にて、駿府ウェイブのガイドボランティアのHさんの駿府城についてのお話を拝聴しました。
 実は駿府ウェイブのHさんのお話を拝聴するのは、4年前の5月に続いて2回目になります。その時もとてもわかりやすいお話でしたが、今回も今まで私が知らなかったことや駿府城についての新発見の話題もたくさんお話しして下さいました。今回の史跡見学のレジュメも参考にしながら、印象に残ったことを書いてみたいと思います。

 なお、4年前の5月の史跡レポートはこちらにまとめてあります

☆どうして家康公の天守台の下から秀吉公の天守台が出てきたのか
 家康は最初、浜松城を本拠にしていたが、三河・遠江・駿河と共に甲斐・信濃も領することになったため、浜松では西に寄りすぎていると考え、天正十四年(1586)に駿府に移った。そして3年後に駿府城完成。
 ところが翌天正18年(1590)、家康は秀吉の命令で江戸に移ることになる。そのあとに駿府に入城したのが秀吉の家臣、中村一氏だった。
 一氏は家康の作った駿府城を破壊し、豊臣流の天守台を作った。今回の発掘で出てきたのはこの時の天守台跡。
 慶長八年(1600)、家康は関ヶ原合戦に勝利し、3年後に江戸に幕府を開く。
 その2年後、将軍職を息子の秀忠に譲って大御所となり、駿府に移った。そして慶弔十二年(1607)十月、駿府城本丸が完成。その際、家康は一氏の作った駿府城を破壊したと想われる。

 つまり、駿府城を巡って、家康公と秀吉公が張り合っていたのですね。
少し余談ですが、中村一氏は、2006年の大河ドラマ「巧妙が辻」に、主人公の山内一豊の同僚で仲の良い友人として登場していました。関ヶ原合戦の時、家康に味方することを決心し、病気を押して家康の所に挨拶に行くシーンは強烈で、今でも覚えています。
 では、話を戻しますね。

しかしその年の十二月、火災により本丸は消失。
翌年から再建工事が始まり、慶長十五年(1610)に天守閣が完成。
その25年後の 寛永十二年(1635)、火災により天守閣焼失。その後、駿府城の天守閣は再建されることはなかったそうです。

☆もしかすると今回の発掘で、今川館の痕跡が出てくるかも?
 戦国時代の駿河の守護大名の今川氏も、現在の駿府城公園周辺に館があったと推定されているそうです。
 今川氏で最も有名なのは、桶狭間合戦で敗れた今川義元だと想われますが、お歯黒をつけていたとか、馬に乗れなかったとか、あまり評判が良くないようです。しかしそれらの逸話は江戸時代の講談がもとになっているもので、史実とは考えにくい。義元は駿河・遠江の守護大名として善政を行った立派な武将だった。そのことをもっと知って頂きたい。
 そうですよね、私、うなずきながらこの話を聞いていました。実はわたしも当ブログのこちらと、こちらで今川関連の記事を少し書きましたが、地元民として義元さんの実像をもっと知って欲しいし、もっと知りたいです。

☆駿府城跡は明治時代に陸軍に献上された。そして戦後の昭和二十四年に静岡市がお金を出して国から買い取ったのだそうです。静岡人は人がいい。これにはくすっと笑ってしまいましたが。

 さて、そんな興味深いお話をうかがったあと、いよいよ発掘現場に向けて出発しました。
 シズウエルと駿府城公園は目と鼻の先なので、雨が降っていなければ楽に行けるのですが、外に出てみると雨が。え~っ、天気予報では午後の方が降水確率低かったのに~。
 実は4年前も天気予報は雨だったのですが、史跡見学の時は降っていなかったのですよね。なので今回も大丈夫だと思っていたのですが。「晴れ女の私でも雨を吹き飛ばせなかった」と想うとショックです。

 そんなわけで、センターの職員さんに誘導して頂いて傘を差して駿府城公園へ。北御門から公園の中に入り、家康公の銅像やお手植えのみかんの木のまえを通って無事に発掘現場に到着しました。
 発掘現場は遠くからのぞき込むようになっているのかなと想ったのですが、柵はあるもののすぐ間近から見ることが出来ました。最初に見たのは中村一氏が作った豊臣流天守台跡。せっかくなのでパチリ。私はよく見えなかったのですが、金色のかわらも混じっているようで。秀吉はやっぱり派手好みなのですね。
 そんなわけでこの記事の一番上に、豊臣流天守台跡の写真を載せてあります。

☆後編へ続く。

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