アブソリュート・エゴ・レビュー

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白いリボン

2013-05-08 22:14:08 | 映画
『白いリボン』 ミヒャエル・ハネケ監督   ☆☆☆☆★

 『アムール』が素晴らしかったので、ハネケ監督の、やはりパルムドールを獲った『白いリボン』を日本版のブルーレイで入手した。やっぱりこれも相当な変化球で、謎めいた、あえて説明をしない不親切な淡々とした作風は、ミステリアスで不穏で多義的な、独特の作品世界を形作っている。

 簡単にいうとこれは第一次大戦前のドイツの田舎町の話で、そこで起きた不可解かつ不穏な事件の連鎖を、当時村にいた教師が回想する、という体裁になっている。しかしいきなり冒頭のナレーションで、ここで語ることが本当に事実そのままか自信がない、みたいなことを言われるので、観客は最初から不確かな世界に投げ込まれることになる。

 それから時系列に事件が語られる。まずは医者の落馬事件。誰かが意図的に張ったピアノ線のせいだが、動機も犯人も分からない。次に男爵家で働いていた婦人の事故死。婦人の息子はそれを故意だと考え、恨み、復讐のために男爵家のキャベツ畑をメチャメチャにする。それから男爵家の息子が誘拐され、虐待され、森の中の木に縛り付けられた姿で見つかる。それから納屋が火事になる。それから使用人が自殺する。それから…と事件は続いていく。

 というわけで、事件は必ずしも同一犯人の犯行ではない。正体不明の犯人が起こす事件もあるが犯人が分かっている事件もあり、動機も状況もまちまちである。つまり、語り手は村で起きた色んな事件をごっちゃにしてまとめて語っている。だからこれらの事件の背景もはっきりこれと名指すことは出来ず、あえて言えば「村全体の空気」という以外にない。これがこの映画の曖昧な、つかみどころのないムードを醸し出している。

 また、これらの事件と平行して辛抱強く語られるのは、村に存在する「抑圧」である。これは主に牧師の家での「しつけ」のエピソードとして出てくるが、牧師は子供達の帰りが遅れたといっては食事を抜き、子供を杖で打ち据える。かつ、子供に「純潔の象徴である」白いリボンをつけることを強要する。これはつまり子供達が道徳、教え、しつけを常に忘れないようにという印であり、見せしめである。子供たちは反抗しない。一見従順で、怯えているように見える。しかし長女が牧師のカナリアをハサミで惨殺する、というエピソードが現れるにいたり、子供達の鬱屈した反抗心が明らかになる。いや、それはもう反抗というより、抑圧の果てに生まれた狂気であり、狂気的道徳心といっていいかも知れない。

 そして当然ながらこの二つの流れ、事件の描写と抑圧の描写はやがて融合し、事件のいくつかに子供達が関与している、という可能性から目をそらすことができなくなる。しかし語り手である教師がそれを牧師に告げた時、牧師はその隠蔽に走る。ここで牧師と子供達は、最悪の形で一体となる。つまり、牧師は子供達をその他愛ない子供らしさ(遊んでいて帰りが遅れるとか教室で騒ぐとか)ゆえに厳格に罰し、容赦なく抑圧しながら、それが引き起こした本当に恐ろしい罪には目をつぶり、むしろ進んで隠蔽する。純潔の象徴であるはずの白いリボンは、ここに至って恐るべき邪悪なメカニズムの象徴となる。そして映画は、この子供達が、やがて世界中を震撼させるナチズムの担い手となることを暗示しつつ、終わっていく…。

 直接的な残酷描写はそれほど出てこず、モノクロの、古典的な品格さえ湛える美しい映像によって物語は進むが、まさにそれゆえに、村に淡々と広がっていく悪意と憎しみの輪が不気味だ。ひんやりした、低温の不安感がひたひたと迫ってくる。それにしても、この精密でクリアな、モノクロ映像の美しさはどうだろう。雪景色やトウモロコシ畑、広い空と雲。アンドリュー・ワイエスの絵画のようだ。この美しさと、人間の、そして共同体の恐ろしさを並列してみせるところに、この映画ならではのポエジーがある。それは戦慄をはらんだ美しさだ。

 説明をあえてしない不親切な映画と先に書いたが、緻密なディテールが蜘蛛の巣のように観客を絡め取っていくテクニックはさすがだ。たとえば冒頭のエピソード、医者の落馬事件のあと、医者の娘アニが窓の外に立つクララたちと会話する場面があるが、この時アニは奇妙で不自然なためらいを見せる。こういう描写の積み重ねが不穏なムードをデリケートに醸成していく。また、途中で事件に警察が介入してくるが、刑事たちの立ち振る舞いは、権威によって子供を抑圧する牧師の振る舞いとまったく同一である。彼らは表面的には間違いを正すべく行動しているように見えるが、実のところ負の連鎖を加速させており、大局的には悪意の増幅装置の一部となってしまっている。

 それに付け加えるならば、第一の被害者だった医者が物語の中ごろに戻ってくるけれども、その後この人物がとんでもなく邪悪な人間であったことが分かる。最初の事件はもしかしたら罰として実行されたものであり、一種の「正義」であったのかも知れない。が、「正義」は結果的に悪意を村全体に浸透させる負のループを作り出し、戻ってきた医者の邪悪さはそれに共振して更に増幅する。どっちを向いても救済はない。八方塞がり。ここには善悪の対立構図すらなく、ただ精密で迷宮じみた、邪悪の増幅装置があるばかりである。

 この映画は繊細な蜘蛛の糸を張り巡らすことによって、「純潔」という観念がいかに恐るべき邪悪を生み落とすか、というメカニズムを、不安な詩情とともに呈示してみせる。そしてもう一つ、この映画のかなり重要な部分を占める要素として、語り手である教師とエヴァの恋物語がある。この教師とエヴァは、この物語の中にあって唯一の救い、健全な人間性の象徴のように思える。果たしてこれはハネケ監督が準備した救いなのだろうか。これがないとあまりに耐えがたくなってしまう映画に彼が注入した、希望なのだろうか。

 そうかも知れない。しかしここで私たちは思い出す、冒頭のナレーション、この語りが事実そのものであるか自信がない、という教師の呟きを。彼は「信頼できない語り手」なのである。彼は嘘をついているのかも知れない。具体的にどこが嘘だという仄めかしはなかったように思うけれども、やはりそのことで、映画の構造は不明瞭になる。彼がその後仕立て屋となり、恋人の名前がエヴァということで、ヒトラーを意識しているとの説もあるようだ。私自身は、彼がヒトラーの分身、つまり象徴的なヒトラーであると読み取るまでの理由はないように思う。それよりむしろ、ハネケ監督がヒトラーのイメージを映画の中に騙し絵のように投げかけ、いってみればサブリミナル効果を出している程度のものだろう、ぐらいに思っている。

 ヒューマンな感動とは無縁、かといってホラーやオカルトのように恐怖を娯楽として提示するわけでもない。明らかに一般受けしない類の映画だし、私もこの映画を好きだと言うには躊躇するけれども、このひめやかな詩情と戦慄には、妙に蠱惑的な、人の心にまとわりついてくるものがあるように感じるのである。不思議だ。



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