『ペーパー・ムーン』 ピーター・ボグダノヴィッチ監督 ☆☆☆☆☆
日本版DVDで鑑賞。子供の頃からタイトルだけは知っていて、ハヤカワ文庫で出ている原作小説(もしくはノベライゼーションかも)を読んだこともあるが、映画を観るのは初めて。確か「松紳」で、松本が一番好きな映画だと言っていたように記憶している。
DVDジャケットは色鮮やかだが映画はモノクロである。しかし、このモノクロ映像が良い。舞台は昔のアメリカの田舎町で、一種のロードムーヴィーなのだが、もう何もない大平原、ド田舎で、こんなに空が広いというだけで感動する。そういう光景がモノクロ映像で切り取られることによって、彫刻的な陰影と奥行きが立ち上がってくる。基本的にはコミカルな味付けがされたヒューマン・ドラマである本作に、禁欲的な、硬質な美を付与し、映画としての深みをもたらしている。
物語のベースは単純で、ちゃらんぽらんな大人の男と小さい女の子の道行きである。最初はいやいや同行しうんざりしているが、だんだん絆が強まって、という王道パターンだ。『パパはニュースキャスター』も『レオン』もみんなこれ。いわば鉄板である。本作では二人の関係性の設定がなかなかつぼを押さえていて、たとえば大人の男=モーゼは詐欺師で、当然ながらこれ以上いい加減な奴はいないというぐらいいい加減なお調子者。対する少女=アディは子供とは思えないほどしっかりしているが、モーゼの詐欺師っぷりを非難するのではなくむしろエスカレートさせてしまうのが面白い。モーゼはアディの演技力を渋々認め、コンビを組んで、二人してインチキ聖書販売に精を出す。アディが女の子でありながらいつも仏頂面で、タバコを吸っているというのもおかしい。
このモーゼとアディのコンビを演じているのはライアン・オニールとテイタム・オニールの親子である。本物の親子であるからかどうかは知らないが、この二人のケミストリーは最高だ。そして役柄の上では親子かも知れずそうでないかも知れない、という微妙な関係を本物の親子であるこの二人が演じることによって、モーゼスとアディの関係性が更に暗示的に膨らむ結果となっている。
テイタム・オニールはこの映画の演技により、史上最年少のアカデミー賞助演女優賞を受賞した。しかしテイタムの演技に巧みなリアクションをつけることでその良さを最大限に引き出しているという意味では、ライアン・オニールの芝居こそがこの映画のキーだと思う。モーゼが癇癪を起こしてアディに怒鳴るところではいつも笑ってしまう。
基本は笑えて楽しめてホロリとする映画だが、決して陳腐なお涙頂戴ではなく、空気感は乾いている。結構ドライである。登場人物を突き放した視線があって、そこが心地よい。たとえばモーゼとアディが親子かどうかは最後まで分からないし、一番の泣かせどころであるラストシーンでも、二人は抱き合ったり涙を見せたりせず、お互いに悪態をつくだけだ。しかしそれでも、というかそれだからこそ、私はこの場面で涙腺がゆるんでしまった。
抑制が効いている映画は、ここ一番というところで実に力強い。更に言うと、途中でトリクシーというわがまま女にモーゼがのぼせ上がり、アディが策略で追い払うエピソードがあるが、あのトリクシーでさえ監督はただの憎まれ役として描いていない。「みんなチヤホヤするのはいつも最初だけなの」と告白する時、トリクシーに哀しい女、寂しい女を見ない観客がいるだろうか。こういうデリカシーによってこそ物語は真実味を帯び、映画は傑作になるのである。
しかし結局のところ、この映画の一番のヒットは「ペーパー・ムーン」というタイトルかも知れない。このタイトルは古いヒット曲「it's only a paper moon」から取られている。そしてこの曲は映画の最初に一度だけ流れる。「そう、それはただの紙でできたお月様/でももしあなたが私を信じてくれるなら/それは本物になるでしょう♪」
このモーゼとアディの物語に「ぺーパー・ムーン」とタイトルをつけたというだけで、私は深い感動を覚えずにはいられないのである。
日本版DVDで鑑賞。子供の頃からタイトルだけは知っていて、ハヤカワ文庫で出ている原作小説(もしくはノベライゼーションかも)を読んだこともあるが、映画を観るのは初めて。確か「松紳」で、松本が一番好きな映画だと言っていたように記憶している。
DVDジャケットは色鮮やかだが映画はモノクロである。しかし、このモノクロ映像が良い。舞台は昔のアメリカの田舎町で、一種のロードムーヴィーなのだが、もう何もない大平原、ド田舎で、こんなに空が広いというだけで感動する。そういう光景がモノクロ映像で切り取られることによって、彫刻的な陰影と奥行きが立ち上がってくる。基本的にはコミカルな味付けがされたヒューマン・ドラマである本作に、禁欲的な、硬質な美を付与し、映画としての深みをもたらしている。
物語のベースは単純で、ちゃらんぽらんな大人の男と小さい女の子の道行きである。最初はいやいや同行しうんざりしているが、だんだん絆が強まって、という王道パターンだ。『パパはニュースキャスター』も『レオン』もみんなこれ。いわば鉄板である。本作では二人の関係性の設定がなかなかつぼを押さえていて、たとえば大人の男=モーゼは詐欺師で、当然ながらこれ以上いい加減な奴はいないというぐらいいい加減なお調子者。対する少女=アディは子供とは思えないほどしっかりしているが、モーゼの詐欺師っぷりを非難するのではなくむしろエスカレートさせてしまうのが面白い。モーゼはアディの演技力を渋々認め、コンビを組んで、二人してインチキ聖書販売に精を出す。アディが女の子でありながらいつも仏頂面で、タバコを吸っているというのもおかしい。
このモーゼとアディのコンビを演じているのはライアン・オニールとテイタム・オニールの親子である。本物の親子であるからかどうかは知らないが、この二人のケミストリーは最高だ。そして役柄の上では親子かも知れずそうでないかも知れない、という微妙な関係を本物の親子であるこの二人が演じることによって、モーゼスとアディの関係性が更に暗示的に膨らむ結果となっている。
テイタム・オニールはこの映画の演技により、史上最年少のアカデミー賞助演女優賞を受賞した。しかしテイタムの演技に巧みなリアクションをつけることでその良さを最大限に引き出しているという意味では、ライアン・オニールの芝居こそがこの映画のキーだと思う。モーゼが癇癪を起こしてアディに怒鳴るところではいつも笑ってしまう。
基本は笑えて楽しめてホロリとする映画だが、決して陳腐なお涙頂戴ではなく、空気感は乾いている。結構ドライである。登場人物を突き放した視線があって、そこが心地よい。たとえばモーゼとアディが親子かどうかは最後まで分からないし、一番の泣かせどころであるラストシーンでも、二人は抱き合ったり涙を見せたりせず、お互いに悪態をつくだけだ。しかしそれでも、というかそれだからこそ、私はこの場面で涙腺がゆるんでしまった。
抑制が効いている映画は、ここ一番というところで実に力強い。更に言うと、途中でトリクシーというわがまま女にモーゼがのぼせ上がり、アディが策略で追い払うエピソードがあるが、あのトリクシーでさえ監督はただの憎まれ役として描いていない。「みんなチヤホヤするのはいつも最初だけなの」と告白する時、トリクシーに哀しい女、寂しい女を見ない観客がいるだろうか。こういうデリカシーによってこそ物語は真実味を帯び、映画は傑作になるのである。
しかし結局のところ、この映画の一番のヒットは「ペーパー・ムーン」というタイトルかも知れない。このタイトルは古いヒット曲「it's only a paper moon」から取られている。そしてこの曲は映画の最初に一度だけ流れる。「そう、それはただの紙でできたお月様/でももしあなたが私を信じてくれるなら/それは本物になるでしょう♪」
このモーゼとアディの物語に「ぺーパー・ムーン」とタイトルをつけたというだけで、私は深い感動を覚えずにはいられないのである。
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