『ひまわり』 ヴィットリオ・デ・シーカ監督 ☆☆☆☆
所有している日本版DVDで再見。1970年のイタリア映画で、主演はソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ。監督は『自転車泥棒』のヴィットリオ・デ・シーカ、音楽はヘンリー・マンシーニ。まさに堂々たるメロドラマの名作である。この風格はさすがイタリア映画だ。ハリウッド映画でこの味は出ない。
子供の頃にテレビの洋画劇場で観て以来何度も観たが、やはりあの一面に咲くひまわり、あの映像があまりにも強烈だ。一度観たら絶対に忘れられない。ソフィア・ローレンが戦争で行方不明になった夫を探しにロシアに行った時、列車の窓からいきなり目に飛び込んでくる光景、はるか地平線の彼方まで広がり、連なって太陽の光を浴びながら首を揺らす、一面のひまわり、ひまわり、ひまわりの花。列車の中からそれを見るソフィア・ローレン、そこにかぶさってくるヘンリー・マンシーニの物哀しい旋律。古今東西の映画の中でも、これほどインパクトのあるシークエンスは稀だろう。
この後の場面で説明があるが、あのひまわりの下には戦争で命を落とした犠牲者、つまり兵士や捕虜たちが埋まっているのだ。あのひまわり一つにつき一つの命が奪われたのである。そう考えた時、あの一面のひまわり畑の映像がもたらす感慨はもはや言葉に尽くせない。これがシンボルの力だ。たとえ地平線まで広がる墓標の山を見せられたとしても、あのひまわり畑ほど強く心を揺さぶられることはないだろう。なぜならばそこにはひまわりの種をまいた人の思いがあり、遺体の上で育ち、花をつけて太陽を見上げるひまわりの生命と、その中に私たちが見る死者の魂があるからだ。それらをすべて包含して、あの無数のひまわりは揺れている。この映画に反戦の思いが込められているのは明らかだが、イデオロギーをはるかに超える力があの場面には溢れている。これが単なるアジビラではない、芸術の力である。
ストーリーも戦争を背景にしたメロドラマで、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニは結婚して所帯を持つ。精神異常を装って徴兵忌避しようとするがバレ、夫は戦場へ送られる。夫は妻に言う。「ロシア名物の毛皮を持って、きっと君のところへ帰ってくるよ」
妻は義理の母とともに、夫の帰りを待つ。ひたすら待つ。役所に行って係員と言い争いをする。「あの人は生きているわ、絶対に!」やがて、ようやく戦争が終わる。帰還兵で溢れる列車が駅に入ってくるが、夫の姿はない。妻はロシアに渡る決心をする。ロシアに渡り、夫を探し歩く。誰かに無理だ、もう死んでるよといわれると、彼女は必ずこう答える。夫は必ず生きています。
ついに夫の消息が分かる。田舎の村で、ロシア人の女が写真を見て彼女を家に入れる。彼は、雪の中で死にかけていました。私は彼を助け、看病しました。彼は記憶を亡くしていました。それ以来、私たちはこの家で、一緒に暮らしています……。女の幼い子供には、自分の夫の面影が。やがて彼が帰ってくる時間になる。彼女は外へ出て、工場から出てくる人影の中に彼の姿を見る。長い歳月をかけ、異国ロシアに渡ってまで探し求めた夫の姿を。夫の驚いた顔。彼が近づいてくる。しかし妻は耐え切れず、動き出した列車に飛び乗り、そのまま泣き崩れる……。
ここまでで2/3ぐらいだろうか。この後、やけになって男と遊び回るソフィア・ローレンと望郷の念にかられるマルチェロ・マストロヤンニの描写があり、最後に、夫は妻のもとをたずねてくる。かつて約束した、ロシア名物の毛皮を持って。ああ、なんという哀しいプレゼントか。
映画のムードは、前半の陽気さと後半の暗さのコントラストが激しい。前半というのは回想部分で、二人の出会いから結婚、夫が戦争に行くまでが描かれる。この部分はとにかく明るく、お気楽なプレイボーイらしきマストロヤンニと、いかにもナポリのセクシーねえちゃんなソフィア・ローレンが、ちょっとコミカルなやりとりを繰り広げる。オムレツを作りすぎてうんざりする場面や、精神異常のフリをして警察に捕まる場面などもおかしい。
ところが陰鬱な戦争の描写を境にムードが一変する。ソフィア・ローレンは老けメイクでおばちゃんみたいになり、マストロヤンニも前半のおちゃらけはどこへやら、お得意の哀しげな微笑みの連発状態となる。ああ暗い。終盤、マストロヤンニがソフィア・ローレンを訪ねてくる場面などは時間も深夜だし、二人ともひそひそ声だし、ただただ悲しい。
メロドラマとしてはこういう構成にならざるを得ないのだろうが、個人的には前半の明るいパートが気に入っている。主演の二人が生き生きしているし、イタリアの風景がなんとも美しい。またこれはロシア・パートにもいえることだが、風景の中に生活感が溢れているのが実にいい。ヴィットリオ・デ・シーカ監督はこういうのが得意みたいだ。
そういうわけで最後まで暗く終わっていくが、ある程度長く人生を過ごしてきた人ならこのラストの重みが分かるはずだ。これは、もう二度と会うことはないと知りつつ別れる別れである。いわゆる、今生の別れ。ソフィア・ローレンがマストロヤンニを見送る。彼女は泣くまいと努力している。しかしどうしようもなく嗚咽が漏れ、涙が溢れてくる。さすが大女優、ソフィア・ローレンである。そこらのガキ女優にこの演技は無理だ。
私はメロドラマは趣味じゃないのでどうしても点が辛くなってしまうが、さすがにこの映画には圧倒される。映像、音楽、名優の魅力と三拍子そろって、名画と呼ばれる風格充分だ。
所有している日本版DVDで再見。1970年のイタリア映画で、主演はソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ。監督は『自転車泥棒』のヴィットリオ・デ・シーカ、音楽はヘンリー・マンシーニ。まさに堂々たるメロドラマの名作である。この風格はさすがイタリア映画だ。ハリウッド映画でこの味は出ない。
子供の頃にテレビの洋画劇場で観て以来何度も観たが、やはりあの一面に咲くひまわり、あの映像があまりにも強烈だ。一度観たら絶対に忘れられない。ソフィア・ローレンが戦争で行方不明になった夫を探しにロシアに行った時、列車の窓からいきなり目に飛び込んでくる光景、はるか地平線の彼方まで広がり、連なって太陽の光を浴びながら首を揺らす、一面のひまわり、ひまわり、ひまわりの花。列車の中からそれを見るソフィア・ローレン、そこにかぶさってくるヘンリー・マンシーニの物哀しい旋律。古今東西の映画の中でも、これほどインパクトのあるシークエンスは稀だろう。
この後の場面で説明があるが、あのひまわりの下には戦争で命を落とした犠牲者、つまり兵士や捕虜たちが埋まっているのだ。あのひまわり一つにつき一つの命が奪われたのである。そう考えた時、あの一面のひまわり畑の映像がもたらす感慨はもはや言葉に尽くせない。これがシンボルの力だ。たとえ地平線まで広がる墓標の山を見せられたとしても、あのひまわり畑ほど強く心を揺さぶられることはないだろう。なぜならばそこにはひまわりの種をまいた人の思いがあり、遺体の上で育ち、花をつけて太陽を見上げるひまわりの生命と、その中に私たちが見る死者の魂があるからだ。それらをすべて包含して、あの無数のひまわりは揺れている。この映画に反戦の思いが込められているのは明らかだが、イデオロギーをはるかに超える力があの場面には溢れている。これが単なるアジビラではない、芸術の力である。
ストーリーも戦争を背景にしたメロドラマで、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニは結婚して所帯を持つ。精神異常を装って徴兵忌避しようとするがバレ、夫は戦場へ送られる。夫は妻に言う。「ロシア名物の毛皮を持って、きっと君のところへ帰ってくるよ」
妻は義理の母とともに、夫の帰りを待つ。ひたすら待つ。役所に行って係員と言い争いをする。「あの人は生きているわ、絶対に!」やがて、ようやく戦争が終わる。帰還兵で溢れる列車が駅に入ってくるが、夫の姿はない。妻はロシアに渡る決心をする。ロシアに渡り、夫を探し歩く。誰かに無理だ、もう死んでるよといわれると、彼女は必ずこう答える。夫は必ず生きています。
ついに夫の消息が分かる。田舎の村で、ロシア人の女が写真を見て彼女を家に入れる。彼は、雪の中で死にかけていました。私は彼を助け、看病しました。彼は記憶を亡くしていました。それ以来、私たちはこの家で、一緒に暮らしています……。女の幼い子供には、自分の夫の面影が。やがて彼が帰ってくる時間になる。彼女は外へ出て、工場から出てくる人影の中に彼の姿を見る。長い歳月をかけ、異国ロシアに渡ってまで探し求めた夫の姿を。夫の驚いた顔。彼が近づいてくる。しかし妻は耐え切れず、動き出した列車に飛び乗り、そのまま泣き崩れる……。
ここまでで2/3ぐらいだろうか。この後、やけになって男と遊び回るソフィア・ローレンと望郷の念にかられるマルチェロ・マストロヤンニの描写があり、最後に、夫は妻のもとをたずねてくる。かつて約束した、ロシア名物の毛皮を持って。ああ、なんという哀しいプレゼントか。
映画のムードは、前半の陽気さと後半の暗さのコントラストが激しい。前半というのは回想部分で、二人の出会いから結婚、夫が戦争に行くまでが描かれる。この部分はとにかく明るく、お気楽なプレイボーイらしきマストロヤンニと、いかにもナポリのセクシーねえちゃんなソフィア・ローレンが、ちょっとコミカルなやりとりを繰り広げる。オムレツを作りすぎてうんざりする場面や、精神異常のフリをして警察に捕まる場面などもおかしい。
ところが陰鬱な戦争の描写を境にムードが一変する。ソフィア・ローレンは老けメイクでおばちゃんみたいになり、マストロヤンニも前半のおちゃらけはどこへやら、お得意の哀しげな微笑みの連発状態となる。ああ暗い。終盤、マストロヤンニがソフィア・ローレンを訪ねてくる場面などは時間も深夜だし、二人ともひそひそ声だし、ただただ悲しい。
メロドラマとしてはこういう構成にならざるを得ないのだろうが、個人的には前半の明るいパートが気に入っている。主演の二人が生き生きしているし、イタリアの風景がなんとも美しい。またこれはロシア・パートにもいえることだが、風景の中に生活感が溢れているのが実にいい。ヴィットリオ・デ・シーカ監督はこういうのが得意みたいだ。
そういうわけで最後まで暗く終わっていくが、ある程度長く人生を過ごしてきた人ならこのラストの重みが分かるはずだ。これは、もう二度と会うことはないと知りつつ別れる別れである。いわゆる、今生の別れ。ソフィア・ローレンがマストロヤンニを見送る。彼女は泣くまいと努力している。しかしどうしようもなく嗚咽が漏れ、涙が溢れてくる。さすが大女優、ソフィア・ローレンである。そこらのガキ女優にこの演技は無理だ。
私はメロドラマは趣味じゃないのでどうしても点が辛くなってしまうが、さすがにこの映画には圧倒される。映像、音楽、名優の魅力と三拍子そろって、名画と呼ばれる風格充分だ。
映画は、徹底して救いのない老境を生きる孤独な老人の日々を描きます。
救いがないのだけれど、リアリズムという点で言うと本当にリアル。
時のイタリア政府が、「イタリアの恥部を全世界にさらしよって!」とデ・シーカを糾弾したのだそうです。
ご覧になったかしら?