崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「麗水エキスポ」 東洋経済日報コラムの全載

2012年05月22日 04時54分58秒 | エッセイ
 朝鮮八景の一つの「閑麗水道」、韓国慶尚南道の閑山島から多島海を通って全羅南道の麗水に至る水路である。朝鮮王朝の文学者の詩人鄭松江が関東八景と詠って以来観光名所を八景というところが多い。韓国が海上国立公園に指定されているが、その伝統は古い。その麗水で海洋博が開幕された。
 戦前にも風光明媚な観光スポットの「閑麗水道」として観光化されていた。私は観光とは無縁なところから麗水と縁が深い。戦前愛知県から多くの日本人が海岸中心に移住して暮らした。この地域だけではなく朝鮮半島南部には日本人が大分多く、集団的に移住して日本人の村を作ったのである。西日本から朝鮮半島へ植民・移住し、「日本村」(広島村、岡山村など)を作った。崔吉城編の『日本植民地と文化変容』(お茶ノ水書房)は植民地時代の日本人村への研究を集成したものである。参考していただければ幸いである。日本人が移住して移住漁村を作り、朝鮮人と協力して漁業をし、木村忠太郎氏は1910年に「水産王」として表彰された。彼は山口県豊浦町から巨文島に開拓移住した人である。それらの研究が私の麗水との接点であった。
 私は日本留学前の、1968年夏韓国民俗総合調査の時に全羅南道の麗水郡巨文島を訪ね泊まったことある。当時辺鄙な離島には古い伝統文化が多く残っていると思って推薦したが、行ってみて、主催側は失望し戸惑ったことを忘れられない。その島は植民地時代に日本文化が盛んな日本人村であった。調査団員たちが当時泊まった旅館が日本時代の遊郭であったということは皮肉に感じた。
私は日本で留学を終えて帰国して日本学科の教員として日本研究として韓国の反日思想や植民地の負の遺産は大きい重荷であった。しかしそれを避けず真正面から調査研究することにした。そその時1968年訪問した巨文島を思い出した。1988年に私は学者と学生をメンバーにして巨文島調査団をつくり、調査を行った。その後麗水と巨文島を訪ねることがしばしばあった。麗水在住の郷土史家の金鶏有氏、海苔研究者の樹奐氏などに会い情報を交換している。 「麗水エキスポ」を観覧するために行く時お会いできることを楽しみにしている。
ある時、ある住民から日本語の手紙を読んでくれと言われ、読ませていただいたところ終戦の時に預けた家の代金をいくらか欲しいという内容だった。村には日本人の引き揚げの時日本まで人と荷物を船で送ってあげたという話が聞けた。日帝時代にも兄弟のように一緒に仲良く過ごしたという話は日韓両側から聞けた。私の研究は日本への引揚者に関心が移った。私はいつの間にか今その調査地に近い所の下関に住みながら引き揚げ者との連絡をとったりして、日本の山口県の引き揚げ者を訪ねることができ、研究を進めた。麗水を生まれ故郷や第二の故郷とする人たちの組織「麗水会」の年会には私は必ず参加したが会員が高齢化して残念ながら数年前解散になった。何と運命的な出会いであろう。