崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

堀まどか氏の書評

2018年03月15日 06時32分11秒 | エッセイ

  先日拙著『慰安婦の真実』の出版記念講演会で4人の方が書評を語って下さった。その中の一人の大阪市立大学の准教授堀まどか氏がその原稿をイギリスから送ってくださったので読者の方々と一緒に読みたく、ここに全文を載せる。先日、彼女は私のブログなどを毎朝「天声人語」のように読んでくださると言っておられた。この書評では「書評されにくいタブー」について触れている。また「研究される対象となるであろう」という言葉は嬉しく恐縮である。私は堀家を研究対象にしてきたが逆転されそうな(?)話である。

『慰安婦の真実』を読んで思ったこと (スピーチのメモとして)  堀まどか

 この本は日韓の対立意識や断絶をあおるような本では全く無く、むしろ、両社会の人々がお互いを理解し、歩み寄るための内容である。その主眼は、一つのテキストを読んでも、一つの歴史的事項を眺めても、その文化背景や読み方、言語の特性の違いがあることによって、他者と違う結論や解釈が導き出されるということがあるということ。どう読むのか、いかに読めるのか。言語・表現とは何か、「実証性」とは何か、「歴史」認識とは何か。じつは、そのような概念や観念に関する微妙な差異をなおざりにして異文化間での対話を進めることは、重大な問題を生むことに繋がる。

 現在、慰安婦問題に関する日韓両社会の摩擦が、きわめて深刻化・重症化していることは周知の事実である。この慰安婦問題に関しては、日本では従来からも多数の著作や詳細な資料集成が編まれてきたし、掘り下げられてきた。いま、改めて真実を知りたいと思う人々にとって、この『慰安婦の真実』の一冊だけで、すべての事情が把握できるというようなものではない。

 この本は、長年、日韓の文化的差異についての綿密な調査・分析を続けてきた文化人類学者が、日記を読み解く過程のなかで、なぜ日韓両社会や人々の感覚や意識が乖離するか、混迷を極めるかについて、文化事例に言及した書である。その洞察は、この複雑な課題を熟慮し相対主義的に解決しなおすヒントを指し示しているとも思う。崔吉城氏の独自見解が、強い印象を与えるが、たとえば、「慰安所をめぐるトラブル」(p.136-138)のところで論じる「記録と話し言葉の差」の問題や、「豊かな軍隊と買春の関連」(p.181)には、なるほどと非常に新鮮に感じられた。

 この一冊のなかで行われた氏の提言が極めて重要であることは事実だが、一方、書評が出にくい理由も幾つかあるのかもしれない。第一は、現在の日本の社会で(とくに福島第一原発事故以降)、言論や行動にタブー意識や自己検閲意識が強くなっていること。(このタブー意識は、必ずしも検閲や法的な問題ではなく、プライバシー重視や他者への配慮ということに端を発していたが、このような各々の判断によって言論に制約をかける傾向が、社会の柔軟性と許容性に大きな問題を及ぼし始めていると感じる。)しかし、タブーとは、タブーを恐れて沈黙する人が作る「空気」のことである。崔吉城氏が、真実の前で怯まずに発言し、社会の率直な反応を得たいと常に挑戦を試みている姿には深い感銘をうける。
 第二は、この戦時下の性処理の問題は、「戦争」そのものと同様、壮絶に醜悪で、一般的な(平穏な環境のなかにいる)人間にとっては直視するのが辛いという事実。著者とともに日記を眺め、この時代の慰安婦の実像を垣間見ていると、「軍が管理」したのか否か、「強制連行」であったか否かということよりも、女性「性」や児童「性」が、今も昔も残酷に乱暴に消費されている普遍性と腹立たしさを感じずには居られない。ただし、氏の筆は、資料に対して客観性を保つのみならず、同時に、人間の「本質」や人間らしさ(弱さや醜さ)に対して、深い同情/憐憫と愛をもって、扱っているように感じられる。
 そして第三には、氏のような「二重国籍」的な立場は、特定社会で敬遠されたり曖昧にされたり、また、その評価が政治や時代に左右されやすくなるということ。二重国籍者たちが「レッテル」を貼られたり、意図せぬ方向に歪曲されて有用されたりするのは、古今東西の傾向として起こりうることである。ただし、その分、彼らは客観性をともなう重要な観点や分析を示唆できる存在である。また、現代の国際社会では、多文化間を横断的に生き、コスモポリタンとしての文化相対主義的な立場で生きる人々は多数派になりつつある。「二重国籍」的な感性や立場に立たされている存在は、言論を意識的/無意識的に制約されている部分が多々あるだろうと思うし、孤独も深いと思う。しかし、健全な社会には必要な視点だからこそ、これからも、既成概念を壊していく研究や言論を導いていただきたいと願う。そして読むほうにも、筆者の置かれている立場や文化の交差点への理解を含めて、深く読み込む感性が求められていると思う。

 崔吉城氏の人生は、いずれ研究される対象となるであろう。研究者のなかでも、研究される対象の人間になる人物は、決して多くないはずであるが、崔吉城氏は、戦後の東アジアの歴史や、比較研究の歴史のなかで極めて重要な、時代を表象する存在である。この一冊を読み、氏の歩んでこられた歴史についても、あらためて好奇心が湧いている。
 さいごに、崔吉城先生と、共に進んでこられた奥様の益々のご健康とご清栄をお祈りし、また、いつも支えておられる周囲の人々、本日の会の企画運営の方々に、御礼申しあげます。